<民芸雑貨は人類の情報バンク>
以前、アメリカが中国雲南省の動植物の採集に大変力を入れているという話を聞きました。雲南省には大変多くの珍しい種が生きていてまだ知られていない品種も数多いそうです。未知の品種は当然未知の成分、遺伝子情報を持っていて、その効用、利用価値も現段階で捉えられない多くの可能性に満ちているのです。しかし種が絶滅してしまうとその可能性も失ってしまうことになり、とりあえず大規模に採集しその多様な情報を人類のためにストックしておこうとするものです。軍事、宇宙技術の開発と同様に、来るべき次世代にむけたアメリカの周到な世界戦略の一端ととらえることができるでしょう。
地球上に生息するあらゆる「種」が、生命現象のあらゆる展開とその可能性を表現しているかけがえのないものであると言えるように、人類があらゆる環境で長い時間をかけて造り上げてきた精神、感覚、かたち、いわゆる文化というものに関しても同様なことが言えます。その中で「もの」−造形物と言うものは、文化の結晶体の様なものであり、それを育んだ人々のあらゆる情報がつまっていると言えます。人類のあらゆる可能性、知恵、想像力、経験、記憶がつまっているのです。「民芸雑貨は人類の情報バンク」とはそういうことです。それゆえある一つの文化、一つの様式、一つの形を失うことは、我々人類全体にとって一つのかけがえのない可能性、記憶を見失うことでもあるのです。今日いかにこれら固有の文化、品々が日々失われ、忘れ去られていることか、、、。それは動植物の絶滅に匹敵する損失であるはずです(その中で博物館に保存されるのは一部にすぎません)。
この破壊の源は資本主義的グローバリズムで、その中心になっているのがアメリカ文化です。冒頭の中国雲南省の話とあわせると大変皮肉に思いますが、破壊と収集はいつの世でも表裏をなしている様です。この破壊は日々刻々と世界を均質化しています。文化が均質化すると風土や歴史に立脚した人々の感覚のキメが失われ大味なものとなります。そうしてそこでは価値が一元化されることにより、多様性のかわりにハイ/ロウ、勝ち組と負け組、豊かなものと貧しいものの差を増大させていきます。均質化と序列化は表裏一体なのです。多様な可能性を各々展開してきた人類が一元化されてしまうと、逆に大きな眼で見れば生物的にもろくなってしまうと考えられます。
現在の日本を見た時にこの均質化、アメリカ化の進行はあきらかです。物が画一化する、あるいは薄まると言うことは、そこで生きる人々の生活もまた画一化し、薄まっていくことを意味します。一方日本中の観光地でうられる土産品も、その量に反比例して貧困なものがほとんどです。量産性、使いやすさ、味の付け方(和風、民芸調、カントリー調、ロココ調、モダン調、、、)もすべてより効率良く売れるようにするためでしかありませんので、底のないパターン化された虚構的なものがほとんどです。このような品に対し「人類の情報バンク」などとはとても言えません。逆に均質化し、規格化された情報で品々が作られ人々の生が規定されているのです。このような人類が突き進んで行くであろう文化破壊に対し、青亀堂はささやかな戦いを開始していこうと考えています。