<土人形・江戸/明治>
日本の造形、郷土玩具等と呼ばれているものの多くは、江戸時代と明治で大きく変わります。またそれが昭和の大東亜戦争を境にしてまた激変します。当然と言えば当然です。同じ花巻人形でも写真のとおり明治(大正)と江戸ではかなり異なります。この違いはおそらく今日のいかんともしがたいものづくりの弱点をあぶり出している大きな問題ではないかと思えます。
写真左は明治のもので盛岡の骨董屋で、右は江戸といわれ仙台東照宮骨董市で値切って購入しました。
両方とも各々モチーフが異なりますし当然作者も違うので単純な比較はできませんが、あきらかに右側の江戸後期とされているものの方が静かでていねいです。ていねいと言っても細密を押し売りするわざとらしさではなく、かつてゴッホが江戸時代の浮世絵に感激したように、平明にさらりとやってのけているのです。そのため全体としてどこか浮き世離れした(近現代の我々からすると、まさに空気が違うと言えます。)、朗らかで落ちついた静かな気品を持っています。いわゆる「静謐」という言葉がぴたりときます。一方左側の明治の方は逆に動的で迫力があるもやや粗暴で大味な感が否めません。筆さばきも闊達でスピード感がありますがややもすると流れ散っています。作者の筆づかい、息づかいがただよっていて人形の背後に作者の存在を感じないわけにはいきません。
結果として江戸の穏やかな気品にくらべ、明治は良く言って元気のいい土臭さがあり、悪く言えば大味な余裕のなさ、せわしさを感じさせます。これは双方の作者の気質、性別、身分の違いといったものではなく全般的に見受けられる特徴です。
不動の秩序を持った精神世界の時代と、常に動き盛衰しつづける弱肉強食の資本社会および近代精神世界の違いと言えるのではないでしょうか。まだそれなりの堂々とした土臭い味がある明治は良いほうで、これが今日の土人形となると現代の時代に逆行したわざとらしい中身の無い細密さ、ていねいさがうりのいわゆる「伝統工芸」になってしまいます。そのような現代の資本主義経済の中での商戦に、逆手をとって過去のものとなった伝統形式を見せびらかしたような、心のともなわない空虚なものづくりは、形式的で冷たい、キッチュなものに帰結していかざるをえません。
これと同様なことが世界中各地で見られます。以前インドをまわっている時、やはりインドであってもこと手工業品に関しては最近になればなるほど質が悪くなっているのに驚きます。形に優雅さがなく筆致は手っ取り早く、せせこましく、ある意味では大胆になり派手だが大味で雑な稚拙なものになっている場合が大変多いようでいた。私の場合いつでも買おうと食指が動くものは、店の棚の奥や影にホコリをかぶって売れ残ったひと昔前のタイプのものでした。店員には呆れられますが、たとえよごれ壊れていたとしてもその差は歴然としていました。このようなことは何も人形や民芸品にかぎったものではありません。一件の家、机、イスにいたるまで全てに言えることです。人の心というものがもはや変わってしまってきているということでしょうか。
そのようなわけで江戸の土人形を部屋に飾ってじっと見ていると失われてしまったはずの資本主義以前の心、優雅で落ち着いた心を暮らしの中に蘇らせてくれるような気がします。同時に我々人類は本当に幸せになっているのだろうかと考えてしまいます。