<キッチュではない>


  ヨーロッパに行くと私の場合買うものがなくて困ります(しかしお金はどんどんなくなっていくのですが)。多くの日本人は両手いっぱいに買い物袋を下げて忙しそうに歩いていたりするわけですが、私のめあての良質の「人芸品」は、不思議なことに現代ヨーロッパにはほとんど見当たらない様です。そのかわりアートとブランド品があるわけです。もちろん人形や刺繍、マイセンなんかがあるわけですが、あきらかに良いものは高価であり「高級工芸品」と呼べるもので、かつての日本をはじめとしたアジアや南米のような手作りでかつ量産性の高いそれゆえに低価格の品物はほとんど見受けられません。逆に言うとアジアには西欧的な意味でのアートがなくて「人芸品」があるわけです。西洋の場合安い物は確実に「安物」であり、多くがまがい物であり、「キッチュ」と呼ぶに相応しいものです。良いものは高価で美術工芸品になってしまう。ハイカルチャーとローカルチャーがはっきりしているようです。それが近代以前からそうなのかは解りません。とにかく西洋の場合この健全な手工業者のものづくりがまるまる抜け落ち、アートや高級ブランドへ進化したか、あるいは完全に死滅してしまった様です。現代日本も似たようになっていますが実のところ、健全な手工業を失っただけで、いわゆるハイカルチャーのアートがぱっとしません。手工業に変わる現代テクノロジーをくっしした「サブカルチャー」が新しく台頭して好調です。そういうわけで高価なフランス人形と例えばミャンマーのミミズク張り子をまともに比較することはできません。また同じ理由から、ヨーロッパの町でうられているキッチュな天使像やなんかとアジアの張り子や土人形を同列に、また同等に捉えてはいけないように考えています。

 写真はミラノの駅構内にあったショーウインドウを写したものです。とにかく西洋ではこのての物がいたるところにあります。聖地や観光地では通りの両側全体にこのようなものがならんでいます。基本的にあちらの美術館ショップ等もこの延長で、質の悪いダビデ像やモナリザのミニチュアや模造品がところせましとあるわけです。こういうものももしかすると近代以前は手作りで、木や土から無骨に作られてそれなりの味があったかもしれませんが(そういう遺品もアジアのそれとくらべると、野暮ったくてレベルは落ちる様です)、今ではそういう想像ができません。もともと「キッチュ」という言葉もこういう土産物等の安物に対する蔑称として登場した様です。いわゆる「いかもの」、「代用品」、「模造品」といった意味で、表面的な特徴、効果のみを強調するあまり、大きさ、比例、調和が狂っているのに無頓着なものです。やすっぽい現代の天使像も表面的な表情やジェスチャーがリアルな半面、全体のプロポーションや髪の毛、作り自体がまるで稚拙なため、奇妙ななまなましさがあります。「キッチュ」が好きな人はそういうあやしさが好きなわけですが、西洋人の場合、べつに怪しい感じにしようとしているわけではなく、一生懸命やってそうなるわけです。

 例えば日本の土人形もそもそもは中央文化の模倣、代用のような性質があったわけですが、御所人形や本物の歌舞伎とは異なる独自の洗練とスタイルにいたっています。いわば手軽な代用品、その制約を逆にいつわらないで押し出していったようなところがあります。それらは「キッチュ」とは言えない芸術的な気品をただよわせているように思います。なぜヨーロッパのそれらとは異なりそのような展開、洗練が可能だったのでしょうか。それは例えばキリスト教のような意味と記号の約束事に縛られずより自由度があったためだけではなく、「人形」、「像」というもののとらえ方、精神風土が根本的に異なっていたからだと私は考えています。

 日本人にとって「人形−ひとがた」とはそもそも一種の依代(よりしろ)であり、魂を入れる器なのであって、オリジナルに対する模倣、代用品、偽物といった西洋の偶像、人形、フィギュアとはその根本のスタンスが違うのです。

 日本(他の自然信仰圏の地域でも)の人形はもともとにおいて依代的要素が強く、オリジナルに対してリアルに再現する必要が薄いのであり、簡略化、抽象化、デフォルメ、したがって量産化が割合スムースに破たん少なくできかつそれが洗練にもつながっていくと考えられます。逆に西洋の人形はどこまでも「似せよう」とこだわるあまり、安易に量産化し、パターン化したとしても、模倣欲がからまわりしてわざとらしい表面的な、そしてどこかなまぐさくて野暮ったいものになってしまい、オリジナルを凌駕できないばかりかいわゆる「キッチュ」なものになってしまうわけです。

 「フィギュア」は西欧人に好まれる確固としたジャンルですが、いわばアート(オリジナル)でもなく、安易で変な「キッチュ」な代用品でもなく、精密なイミテーションとしての独自な路を生み出し続けていると言えます。もちろんそれはアジアや南米諸国の手工芸品とも異なっています(一方で日本でも江戸時代のからくり人形等大変こった迫真の人形が作られてきました。これはいままでのベてきた日本の依代文化の文脈とは基本的に異なるむしろ「げてもの」的な傍流ととらえられるように思います)。

 このような根底のエッセンスの違いが忘れ去られてしまうとすれば、今日の日本のように、型どおりの伝統的人形が、いわば「キッチュ」化し、あるいはフィギュア化していってしまうでしょう。