<最後の楽園の終焉 衰退する今日のものづくり>
バリ島には何度も行こうとしたがいつも寸でのところで足が止まってしまう。なぜなのかよく解らないが他のアジア諸国と異なる何かが微妙に引っ掛かってきた。バリと言えば「最後の楽園」と呼ばれ、「島中が芸術品」と形容され、今なお伝統文化が生きていて多くの工芸雑貨が造られ続けている場所であるという。今日ではどこへ行っても「人芸品」は滅びに瀕しており、明るい見通しはほとんど無い。世界中が資本経済に食われ均質化して行く中にあって、バリのみは単純な欧米化の道をとらず伝統的生活、文化を自覚的に守り続け(かと言って未開の秘境と言うことではなくて)、同時にその伝統文化に新たな試みが加えられ、新たな表現が続々と生まれてきているのではないか、いわば現代の新たな「人芸品」が造られているのではないか、そういうことからすればバリこそは21世紀における反グローバリズムへの貴重な灯火ではないか、とそんな勝手な期待を膨らまし今回意を決してはじめて行ってみることにした。
日本で手に入るバリ関係の雑貨は年々質を下げ、けばけばしく漫画的、イラスト的になっていて良いものが少ないのだが、実際行ってみると案の定まさにそのままであり少なからず落胆した。伝統芸能に関する仮面類など伝統的なものはなんとか踏み止まって、元来の複雑精緻な良い作りであった。しかし一歩伝統から踏み出し、おのれで工夫し造り出したものは、ほぼ100%と近く惨澹たるものだった。この点に関してはバリも他の国々と何ら変わることはない。むしろ手が器用で、雑貨づくりにとても熱心(村をあげて各々の特産品を造っていたりする)なため、他の国々のそれよりも加速度的にある面で悪化しているのではないかと思わざるをえない。例えば木彫りで有名なマスという村の品もほとんどはひどいものだった。奇抜でシュ−ルがかった形態、派手な身ぶり、ピカピカに磨かれた(店頭の女性達は客が来るまで日がな一日ひたすら磨き続けている)木彫り群は、やればやるほど嫌味な匂いがまとわりついていく。手がこんでいるので余計に思わせぶりでわざとらしく作為が目立つ。そのような邪心を歯止めする伝統形式や無為、職人的な洗練された合理性はあまり見えない。観光客にこびた一番最悪のつぼにはまってしまったようなものがなんと多いことか。かつて岡本太郎が日本の趣味的な文化を「ひねこびた」ものとして批判したことがあったが、バリのそれはもっとシンプルに「こびた」ものばかりである。その「こびる」ことへ創意工夫、技術をかけていく。あまりにも多くの者が工芸品を造ってしまう。そこかしこにギャラリーができていて、あまりに多くの者が手軽にアーティストになっている。伝統を手軽に超えようと、ひと工夫、ひと加工してしまう。伝統を更新するなどということはめったに、めったな人間ができることではないにもかかわらず。ここでは自称アーティストのこびた嫌味な作品、そうしてそのコピーでいっぱいだ。伝統文化をてこに国際観光地として生き抜こうとするこの島は、人芸品の灯火どころか一つの悪例、玉砕状況をまざまざと見せてくれた。
美術館にもいろいろ行ってみた。バリの絵画彫刻は20世紀前半から活発化し、「バリルネッサンス」などと形容され様々な流派が生まれてきたとガイドブックにはある。確かに良いものは良かった。伝統的形式に足をかける度合いが強いほど良かった。それが1950年代頃から怪しくなってきて、70年代には見る影もなくなる。西洋的というよりも近代的な、絵画というよりも写真などにともなう視覚空間が影響し、最後はとって変わられる。わざわざ西欧(それも美術後進国のオーストラリアなどの3流絵描き達)の影響をありがたがり、またどこにでも見られる例のおせっかいな彼等白人達の行い(彼等は自覚的にバリ人に助言、指導し、西洋風の絵を描かせる犯罪的努力を長年行ってきている)が致命的に病魔を進めてしまった。「バリルネッサンス」などとこれらを評するものは、こと「絵」や「彫刻」に関して言えば、ルネッサンスのなんたるか、芸術のなんたるかを知らないものだろう。15世紀イタリアでおこった中世キリスト教表象世界と古代ギリシャ以来の自然主義的表象世界の結合(それも有機的結合であり変容であるところの)を、単なる伝統的表象世界の崩壊、写実的模倣と混同してしまっている。このようなことではアジアの植民地化、近代化が総べて「ルネッサンス」になってしまうではないか。かつて日本の「絵」も同様の荒波にさらされ、洋画と日本画に二極分裂し、ルネッサンスどころか今だにその後遺症に悩んでいるにも関わらず。
一方で「『絵』や『彫刻』に関しては」とわざわざことわりを入れたように、「舞踏」においては確かに20世紀に入り輝かしい成果があったようである。王家や民衆の間で行われてきた様々な芸能が、見られることを意識した一つの表現として、組織化され、洗練され、ゴ−ジャスな純然たるアートとして自立してきたのは事実だろう。(しかし例えば有名な「ケチャ」などは白人の意見を入れながら現在ではラマーヤナの仮面劇と合成され上演されているが、少々無理があるように思える。どう見てもケチャのリズムと仮面劇の動き、ストーリーが不調和であり、裸男も滑稽にうつっている。こういうのはやはり失敗例と私は考える。これでは宗教性はもちろんのことアートでもなく、ただの観光ショーではないか)。
一般的に一つの精密な文化体系が崩壊していく順序と言うものは、非実用的ものづくり、実用的ものづくり、服装、食べ物、言葉という順で、その過程で各々、伝統工芸品とか伝統芸能とか伝統料理が特殊なジャンルとして棚上げされながら保存されていくようである。現在のバリ島では実用的なものづくり、服装あたりまで怪しくなってきているようだ。ただバリ島の場合ちょっと特殊なベースがあるように感じる。もともとインドネシアの多くの島々がイスラム化している中の弧立したヒンドウーの島であることを、バリ人自身がつねに潜在的に強く自覚せざるをえないという点である。常日頃唯一神で偶像禁止のイスラム教、国家、中央政府に脅かされてきているので、バリ人にとって文化、伝統的衣服、日々の祈り等全ては、かけがえのない自分が自分であるための最低限の行為であるという外向きの切迫したものがあるように思える。そういう土壌がもともとあるので、西欧文明が入ってきても、自分の文化を簡単に手放さずにすんでいるのではないだろうか。それだからこそ現代にいたっても西欧人や日本人に対し、自分達の伝統文化を「売り」にすることがスムースにできてしまうのだろう。
しかし見ようによってはどこか浮ついているようにも感じないわけではない。もともと大変装飾的で細かいのが好きな人々のようで、寺院も民家も、壁や塀や門もみんな沢山の装飾がほどこされている。新しくできる建物も同様であり(おそらく今では法律で決まっているに違いない)。かつてゲーテがフィレンツエの美しさに嫉妬したように、バリ中いたるところに博物館級の細工が施されている(ある日、私は立派な塀の下にその壁の一部であったところの細密なレリーフの塊が落ちているのを見つけ、思わず持ち帰ろうと拾ったのだが重いのでやめた)。おそらくかつてのフィレンツエと同様、それら過剰な造形そのものが、周囲の脅威に対する自らのアイデンテイティーそのものとなってきたのではないだろうか。
バリは大変豊かな島で年三回も米がとれるらしい。果物、海の幸も豊富である。ちょっと働くと余剰エネルギーが蓄積される。その余剰は巨大な権力で一元化され大建築物を生み出すことなく、日々の祭りや装飾、細工にまわされているとも言える(植民地化以前では部族ごとの戦争に費やされていたとも言われる)。一方でバリ島を訪れる観光客は、日々の労働から解放されたリッチな余暇をすごすためにやってくる。バリの余剰エネルギーと観光客の余剰エネルギーが反応し交差する。この島は徹頭徹尾「装飾」の島であり、「装飾」で食っている。装飾過剰になることがイスラムに対する自己主張であり、観光客に対する自分でもありうるというちょっと歪んだ装飾(本来の宗教的衝動から来る装飾ではなくて)が近年増加しているように思える。無理で意味の無い心のともなわない装飾をするくらいなら、何もしないほうが美しいのだがバリ島ではそれは許されないのである。
先にバリの美術が1950年代までは良かった言ったが、その頃バリでは何があったのだろうか?1950年はインドネシアという近代国家としての独立の年であり、バリ島もそこに参加する。このことは意味深長である。数百年の植民地支配の中でも崩れずに温存されてきた何かが、いっぺんにこの時に崩れてしまっていると予想されるからだ。その瓦解は植民地としての「支配」以上に、自ら自身が「目覚める」ことによって引き起こされてしまったものなのではないだろうか。同じアジア人の日本軍の占領、その後の独立闘争は、自ら自身が進んで西欧近代的枠組みの中で民族、国家という統一体の名において立ち上がる、位置ずけられることを意味していた。おそらくその新たな自覚、世界像が、今まで自分達が育んできた伝統的文化体系を相対化させてしまったに違いない。そのようなことを考えると国家と文化にまつわる近現代の根源的な矛盾を感じてしまう。
近年のバリの無理のある装飾、ものづくりを見ていると、「前衛がわれわれの現在持っている唯一の生きた文化を形成している」というグリンバーグのモダニズム芸術を正統視するかつての言葉が頭をよぎる。現在の地球上においてはやはりモダン、もしくはモダンをくぐり抜けない限り、実のあるものづくりはできないのではないか?残念ながらそんな予感をバリは裏切ってくれなかった。