<堕落するものづくり>
何度も繰り替えし述べているように、今日多くの「人芸品」が堕落してしまった。そうしてその堕落の仕方はいくつかのパターンにわけることができる。ここではそれを例示しながら、なぜ、どのように、質を低下させて行ったのか考察してみたい。それはおそらく我々の時代の根源的病魔を浮かび上がらせることにつながるだろう。
コレクターという人種は何でもかんでも集める人が多い。例えば自分の収集領域を「郷土玩具」と設定してしまえば、良い悪い、古い新しいを別にしてとにかく全てを集めようとする。そうしてそれらを並列させ、鑑賞し、「郷土玩具」を語ろうとする。それはそれで学究的態度として重要なことであるし、好きになってしまったら良い悪いは関係なくなって行くコレクター心理も解らないわけではない。しかし今日のいくつかの堕落しきった「郷土玩具」を「郷土玩具」だからといって同じ仲間に入れて論じる価値があるのか、あるいは正統性があるのだろうか少々疑問になる。もはや今日の良くないいくつかの(実はそれらが大勢を占めている)「郷土玩具」と呼ばれて作られる物はもはや「別物」ではないのだろうか?「ジャンル」のみが形骸化し一人歩きしていないか?
経験上ほとんどに場合質の良いものと悪い物を並列した場合、悪い物の方が強いインパクトを発し目立ってしまう。そうして良い物の良さがかき消されてしまう。悪い物ほど表層的なレベルで声高々に自己アピールするのでまいってしまう。これは偶然でもなんでもなくて、今日の商業主義、資本主義がまねいた必然的公理である。
商店のショーウインドー等では、そうやって買い手の眼を瞬間的に引き付けることによって自己増殖を繰り返して行く。まるでより大きな口をあける元気の良いひな鳥が、一番多くの餌をもらい生存競争に打ち勝って行くようなものだ。今日の社会で売れるためには同ランク(同価格)の商品同士のなかで、必要以上によく目立ち、したがって必然的に質を低下させることが必須条件なのである。コストを上げずに目立つようにするには、手っ取り早く表層レベルで「媚び」を売るほか無い。内実が相対的に空洞化せざるをえない。また、ハイレベルの工芸品として、コストを上げるのを承知で付加物を加えたり、技工を高度にしたり、高価な素材を使ったりすればなおのこと本道からはずれ、これも質を変質させ多くの場合質を低下させる。それゆえに高度資本主義経済のなかでは、「人芸品」とりもなおさず「ものづくり」が必然的に悪化して行くのがはっきりしているのではないか。(青亀堂コレクションでは残念ながら質の悪いものまで集める余裕がなかった。したがってこのページの例示用写真をそろえるのが意外に一苦労ではあったが、大切なことだと思うので努力してみた。)
1、量産化−劣化
2、商品化−媚び
3、リアル化−逸脱(フィギュア化)
以上の三つが人芸品を堕落させる代表的パターンである。
<1、量産化>
量産自体が悪いことではない。本来の職人的ものづくりも、家内制手工業も量産システムであることには変わりない。しかし質を下げない独自の合理的な質(ムダのない、本質的構造に立脚した)を生み出してきたそれらに比べ、高度の資本主義体制のもとの量産では、質を下げ、変質させる一方となっている。この場合量産化は単純に質の劣化を意味する。旧来の職人、家内制手工業的なアジアの人芸品を、高度資本主義下の日本で一つの定番アイテムとして売りさばく場合、一定のコストの下での恒常的な生産量を維持するのが条件となってくる。内容や微妙な質以前のあらゆる項目がノルマとしてかされ、というよりはそこではあらゆる要素がノルマ化してしまう。大きさ、材料、色、色の数、顔の位置、模様の場所、種類、飾りの数、、、、。逆にいえばノルマをクリアすればそれは全て「商品」とみなされ、クリアできなければゴミとなる。そこでは総合的バランスがどうだとか、色のハーモニーがどうだとか、顔の表情の味わいがどうだとか、そういう微妙なレベルが二の次三の次になっていく。重要なことはかされた項目をクリアしているかどうかだけとなる。そのようなわけで日本のエスニック系雑貨屋にならぶ品々は、値段が安くなるわけではないのに質のみが劣化して行くことになる。そうやって人芸品が「商品化」という名の下にただの項目の積み重ね、積み木細工にかえられる。
写真は工場製造された日本の張り子(?)面とタイの青白陶器の成れの果てである。どちらも量産化され、魂の抜け殻の様に虚ろになっている。手作業に表れるはずの誠実さ、揺らぎ、意志というものが無い。
<2、商品化>
量産化と商品化はお互い重なりあいながら、お互いの悪い面を引き出しあう関係である。「商品化」されると他の商品との競争で、差異化をはかることをせまられ、後付けとしての様々な付加価値が無理にでも要請されて行く。先に述べたようにコストを上げずに付加価値を加えてより強度の競争力をつけるとすれば、例えば色彩をより目立つようにけばけばしく、あるいは薄っぺらい鮮やかな色、あるいはつや出しされピカピカ光る感じにする傾向に向かう。顔があるものなら表情はより大きく「マンガ的」に−喜怒哀楽がはっきりとしていき、特徴部分、顔、表情、目玉、口、まゆげ、しぐさ、持ち物等がことさら強調される。そのため部分部分を引き延ばしたり、ちじめたり、省略したりして従来の寸法が変わり、比例が崩れ、意識的にしろ無意識的にしろいわゆる「キッチュ」なものになっていく。
一般的に悪い意味で言うところの「工芸化」も基本的には同じようなもので、不必要な技術、高級素材、精妙なしあげをこれみよがしに付加しようとする。そのため値段と「格付け」が上がるのだが内実の質は下がって行く場合が多い。それらは作為的で不自然な嫌味なものに帰結する。
このようにして「商品化」によって「キッチュ化」と「工芸化」が進んでいく。いわば「媚びを売る」のであり、もともとの人芸品の本性に依拠しない表層的で空虚なものに堕落して行く。
写真はこけしから派生した「新型こけし」、中国製の豚貯金箱である。どちらも表情、姿が漫画的イラスト的な感情表出をしていて、どぎつく不必要な色彩、装飾がかされている。伝統的形式からの著しい堕落。
<3、リアル化>
日本では明治以降本格的に西欧近代的な自然主義(実際は単に「写実的」な)表現が輸入された。その影響ははなはだ強く、明治大正以後開発されたほとんどの人芸品にその影響が影を落としている。近代になってどの土地でも観光用にその土地の風物を土産物化した人形等が作られて行くが、そうしたもののほとんどがこの写実主義の影響下にある。北海道の木彫りの熊にしてもやはり近代的な写実的造形で、いわゆる独自な様式が無いので芸術の域には達しえない。この現象は世界中で見られ、それらが観光地、飛行場の土産物として幅を利かせている。各々の風物(岩手獅子踊り、山形花笠踊り、秋田美人、日本美人、タイの踊子、バリの踊子、琉球舞踊、、)はその土地のものだが、その表現形式は西洋近代の通俗的大衆文化・キッチュのそれであり見るべきものが無い。近代的まなざしの輸入によって、それまで各地に生きてきた土着的で独自なものの見方、様式、流儀が滅んできているのである。これらはそれをどんなに精巧に押し進めるとしても、よくて精密な「模型」、「ミニチュア」止まりであり、いわゆる「フィギュア化」でしかないのである。「フィギュア」の魅力はみとめるとしても、それは西洋的な特殊な伝統(あくまで芸術や民族芸術から別けられた趣味的レベルでの)につらなるものでもあり、世界中に普遍的で根源的な「人芸品」の美からの「逸脱」でしかないのだ。
写真はタイの木彫りの馬、舞踏人形である。どちらも悪い意味の「模型化」、「ミニチュア化」で、伝統的な様式、センスのかけらも無い、もちろん誠実な写実的リアリティーも無く安手のとるに足りない観光土産に終っている。
以上今日まれにみられる良質の人芸品は、この三つのパターンにどうにかはまらないで今日命脈を保っているわけである。それがいかに危ういものであり、かつそれだけ貴重なものであるかあらためて実感できるのではないだろうか。来るべきものづくりはこの高度資本主義がもたらす三つの弊害を十分熟知しながら、それらを乗り越えて行くものでなければならない。