<はじめの話>
旅行の話をしていると、「観光地とか、ものには興味がない」と胸を張る人によくあいます。旅行エッセイなんか読んでいても、例えばアジア系だと十中八九、名所旧跡に興味がないと公言はばからない著者がほとんどです。藤原新也でさえ芸大のわりに、名所旧跡やいろいろな造形物に関して具体的に述べることがほとんどありません。以前はやった猿岩石なんかになると、居心地が良いとか悪いとか、人が良いとか悪いとか、汚いとか綺麗とかそういう感想しかなくてアジアの国々を通過していきます。例外は妹尾カッパのインド編で、メジャー片手に何でもこだわって見て、調べ、考えていきます。美術や建築関係の専門書とはちょっと異なるレベルで大変新鮮でした。
旅慣れた個人旅行者はたいがい、短時間で観光スポットをはしごするだけの団体パック旅行者が嫌いです。観光地をさらりと見て回るだけで何が解るものかと感じるわけです。確かに日本にいる時は美術の美の字も関心のない人達が、旅行になると美術館、博物館、寺院等大量に見て回り、まるでオリエンテーリングのスタンプをつけるようにその日のメニューをこなしていきます。しかし多くは写真のイメージを確かめ記念写真をとって来る奇妙な繰り返しに終始しフラストレーションをためていきます。見に行くことは大変すばらしいことだと思いますが、いかんせん準備が不十分です。準備とはある程度の知識と同時に、自分の眼で見る、感じる、考える訓練のことです。それが自然にできないと、観光地で通り一遍のガイドがない場合とても不安になってしまうわけです。
観光地や物には興味がないと言ってはばからないタイプの旅慣れた個人旅行者は、たいがい「その土地の人にふれることに興味がある」とかなんとか言いつつ、「物」より「心」を強調し、一般旅行者の行動を「物欲」として軽蔑します。
しかし一見両者は対極的に見えてそのじつ自ら「もの」について深く体験しえない点で共通しているように思えます。むしろ何かに憑かれたように物を見て回り、買いまくり、食べまくるある種の団体旅行者の方が自然なように思えます。観光地が観光地として蔑視されながら、つまらなく見えることの大部分は自分のせいであり、自分が物を見ることができない(知識と訓練と好奇心と幾らかの謙虚さがない)「貧困」な人間であるせいです。
先日たまたまあるインド関係のエッセイを読みました。薄っぺらで失礼でつまらない本です。タージ・マハルも10分ぐらい見ると飽きてしまうそうで(猿岩石の片方は3分で飽きたとのべていますが、、)、観光地のつまらなさについて述べていました。確かに私自身タージ・マハルを見に行った時、写真のイメージとだぶりましたし、実のところ1分ぐらいしか直視しませんでした。しかしこういうのは時間の長さではないのであって、たった一瞬であっても、長い時間と大きな労力をかけるかいのある体験と言うものもあるわけです。その一瞬の体験、知覚がその後の人生に大きく影響することだってあるわけです。見る時間の長短を、見るものの価値に暗に比例させるような通俗的言い回しは二重に失礼なものだと考えます(そもそもタージ・マハルはベストポジションが想定された建築で、ある場所に立てば一瞬で最高の視覚体験を与えるように計算されているわけですから、逆にこんなに短時間で「経験」が得られるという超絶性にこそ賞賛されるのが筋というものです)。ともかくこのような一種開き直ったようなスタイル(率直、正直、ありのまま)が多くの日本人に受け入れられてきました。それは知識より経験、物より心、観光地より人、見るより浅いコミニュケーションが優遇されるものです。
「もの」に興味があることを「物欲」と蔑視する人々は、その前提として物と心が分離してしまっている不幸な近代人です。「もの」には人の心、民族の心が宿っています。それも旅先でちょっと出会う異国のポン引きや売り子が発する表情や言葉以上の深層が宿されているわけです。それが見えない人には、「もの」はただの物だったり、何かを表す記号、トレンドであるにすぎません。昔、一人の生命は地球より重いと言ったひとがいましたが、ほとんど狂信的な意見としか言えません。アンコールワット全部と現代のカンボジア人ひとり、どちらがすごいか。その辺を歩いているごく普通のOLと京都の町全部、どちらがより多く日本の文化がつまっているか。別に観光地や芸術品だけを特権化しているわけではありません。どんなものでも、どんな人でもいつ何時重要なものをかいま見せてくれるとも限りません。ようするに人間とその場のふれあいだけを特権化するのは、観光地や有名なブランドを特権化するのと同じではないかということです。「人に興味がある」という人は、暗黙の了解として人ではない「もの」には興味がないと言ってるわけですが、本来人に興味があればこそ、人の心や生活、文化、歴史が宿る「もの」にも興味があるはずなんです。
以上長々と書いてしまいましたが、現代人は「もの」をよく見ていないということが言いたかったわけです。そうして旅行者というのは、せっかく日常から解き放たれて新鮮に世界に触れあうことができるはずなのに、実はそこでさえも「もの」がよく見られることが少ないということ。そうして狂信的なヒューマニズムのために「もの」が蔑視されていること。それは一つに大量生産大量消費の現代生活の裏返しなのかもしれません。しかしそもそも「もの」が本来的に悪いのではなくて、そういう大量生産と大量消費のシステムから生み出される空虚な「もの」が悪いのだと私は考えます。そうです世の中には「良いもの」と「悪いもの」があるのです。このコーナー「人芸品展示室」では、その「良いもの」に関して様々な角度から語っていきたいと考えています。そうすることで少しでも現代において「もの」と「ひと」の関係が意義深く、実り多いものになっていけばと望んでいます。