<人芸品とは?>

 良い物、造形物を呼ぶ言い回しにはいろいろあります。芸術品、美術品、工芸品、民芸品などといった言葉がすぐ思いつきます。青亀堂の扱う品々は、一般的にいえば民芸品、工芸品あるいは雑貨等と呼ぶことが可能です。しかしどうもしっくりこないように感じています。このような呼び方は、後述するように比較的新しく、人為的につけられた用語であり、あらかじめジャンルの限定とか格づけをともなってしまいます。

 例えば辞典で「民芸」という言葉をひくと以下のとおりです。「民衆の日常の生活の中から生まれ伝えられてきた工芸品、芸能など」。

 そもそもこの言葉は、民芸運動をおこした柳宗悦の思想を背景にしています。民芸の「民」は、特権階級や特殊な少数者に享受されてきたとされる「芸術」、「美術」に対して想定された意味合いが大変強いわけです。そうして「芸術」、「美術」といった概念やジャンルは、明治以後、西欧から取り込んだ外来のものでした。そういうわけで「民芸品」という言葉の背景には、民衆、庶民の文化という意味合いが強くあります。

 また上記の「日常の生活の中から」という語意からは、普段の生活に根ざした「用の美」(柳宗悦が強調した)というニュアンスが反映されています。ここでは特権階級/民衆、非日常的体験/日常生活体験、鑑賞/実用、芸術/民芸という対比が隠されています。実はここに大きな危険が孕んでいて、今現在まで我々のものづくり、美意識、価値判断、生活を規定してしまっているのではないだろうかと私は考えています。

 民衆(民衆というはっきりしたものがあるとして)は別に今日的なニュアンスでの「日常」をただ生きてきたわけではなく、またその「日常」に役立つ実用品ばかり作ってきたわけでもありません。つねに神仏に祈り、遊び、良品を愛でてきたわけであり、それに対して柳宗悦の民衆観は西欧流の特権階級の芸術から逆照射されたところから浮かんできた一つの観念に他なりません。例えば中国古代の青銅器や我が国の縄文土器等見れば解るように、日常と非日常、実利と想像力は結びついていたのです。またかつて建てられた民家一つとってみても、さまざまな「風水」や縁起、神話の約束の上に作られていて、そこかしこに神々が祭られ、意味と約束事で充満していたことが解ります。いわば生活と信仰、遊び、芸術が分離せず混ざりあっていたわけです。それはなにも古代に限らずつい最近まで我々もそうして暮してきたわけです。

 そのようなわけで「民芸」という言葉は西欧に習って明治期に人為的に作られたジャンル分け、ヒエラルキーの中からそれを前提として生まれてきているのです。それはあらかじめ民衆と特殊な人を分け、生活と芸術体験、宗教体験を分けたところを前提にしたものづくりと価値観です(「民芸品」からはみだしていくものに関して呼ぶ言葉は、せいぜい「鑑賞品」とか「玩具」といったところでその呼び方にも問題があります)。

 私達青亀堂の扱う品、生き方は、そういう近代的な「平凡な日常」に限定されたものではありません。かといってそれを単に「鑑賞品」として考えるのではなく、美術品といったものではありません。いってみればそれらが不可分に結びついた生き方の中から生まれて来る、かつてどこにでもあった品々とその土壌こそ大切にしていきたいのです。そのような現在の我々の生活を規定する呼び名、ジャンルをはずそうとする時、「それら」を、また「それら」をつくりだす「ものづくり」をなんと呼べばよいのでしょうか?

 そこで私達が提案するのが「民」ではなく、人類の「人」をつけた、「人芸品」(にんげいひん)という新しい言葉です。大変広い意味ですが、芸術とか民衆とかジャンルなどをつきぬけた、人類普遍の根源的なところで生み出される全てを指すという想定です。