<セラドン焼き>
1980年代後半、学生だった私は友人と二人で、彼の叔父をたよりながら、生まれてはじめて海外へ、それもタイという国へ行ったことについては先に触れたとおりである。一応私達二人は美術を専攻していたので、旅先で絵を描こうと油絵セット一式を日本から持ち込んでいた。我々が滞在した新築の大学寮のとなりは、見渡すかぎり廃材が山になっていて、その向こう側には沢山のみすぼらしいバラックが立ち、沢山の人々が暮していた。その様子は、いわゆる出稼ぎ労働者が新たな土木建築のため住み込みで働いているところなのか、あるいは破壊され立ち退きを迫られたスラム街の残存する部分だったのかよくわからない。おそらくタイ東北部あたりから来たであろう彼等は、しばしば上半身裸だったり、今では珍しいサロンのような長い布をまとっているのが見受けられた。そうして朝夕と井戸水か何かで水浴びしている様子は、我々のいる新築ビルの住人達とは趣を異にし、さながら異なる民族のようでさえあった(実際のところタイ東北部はラ−オ民族なので系統が違う)。そのギャップは言ってみれば激変するタイの新旧を象徴するものだったと言えるだろう。我々はその廃材の山からいつでも手ごろなベニヤ板を好きなだけ取り出すことができた。それらに日本から持ってきたジェッソを塗って下地をつくり、その上に油絵の具でいろいろと絵を描いていた。宿の窓から地平線の向こうまで見えるバンコク郊外の居心地の良さそうな新興住宅地や、市場から買ってきた見なれない南国のフルーツ等題材は何でもよかった。 ある日我々は、我々の面倒を見てくれながらその大学寮を一人で取り仕切る若い女性に、絵のモデルになってくれるよう申し込んだ。彼女の名はトウクターといい、われわれよりちょっと年上の頼もしい典型的なタイ美人といった感じの女性だった。南国の絵といえばゴーギャンであり、ゴーギャンばりにおもいきった色調で描くことに実は来る前から決めており、私は無理矢理それを実行に移すことにした。モデルの肌という肌の明部は血の塊のような赤、暗部は黒々とした焦げ茶という具合におもいきりよく塗りたくってみた。完成後彼女はそれを見て、いつになく表情を引きつらせながら「ビューティフル、、、」と弱々しく社交儀礼を述べただけだった。自分では極彩色の思ったとおりの絵に満足していたので少々意外に感じた。15年以上たった今現在、当時の自分の鈍感さがいよいよはっきりしてきて、胸がしくしく痛んでくる。だいたい東南アジアの人々は海に行っても水着で泳いだり、肌を焼いたりはしない。逆に寝る前やなんかに白い粉を顔や首に塗ったりして手入れをする。やはり肌は白い方が良いと思っているようである。それに比べてどうしてもゴーギャン風に憧れる日本の私は、一種のエキゾチズムとして過剰に反応してしまう愚を犯すことになる。外国人の表現は現地の感覚からすると常にそういう妄想と隣り合わせなのである。 そのうち友人の叔父の世話で2週間ほどバンコク郊外にある美術学校に通うことになった。日本で言えば中学生ぐらいの年令から大学生ぐらいまでの生徒が制服をきて、スケッチブックを持ち楽しそうに通学してくる学校だった。我々二人はすぐに学校中の話題になり、通学の先々で、彼らは自分達のスケッチブックをさしだし、様々な絵を見せてくれるようになった。我々が通う日本の大学、美術系の学生たちに比べ、とても快活で、無邪気な感じがしてうらやましく思えた。我々の世話をしてくれた先生は、京都・竜安寺の枯れ山水で作家的開眼をしたと言うのが自慢の親日派タイ人で、なかなか独特で良い部類の抽象画家だったことが、当時もらった彼の画集でわかる。 結局その二週間で私は2枚の油絵を描いた。一つは校庭わきにあった南国らしいライトブルーの野外食堂の絵。その建物の周辺の野原は大変気持ち良さそうなのだが、日本では見たことのない顎の大きなアリがうようよいて座ることができず、現実ってあまくないなあと感じた。暑さとアリに悩まされながら疲れるときまってその食堂でかき氷を食べたものだった。そのかき氷ほどうまいかき氷はその後食べたことがない。2枚目の方は学校の裏手に広がる水路に面した水上家屋を描いた。観光地化された水上マーケットよりも日常的な生活感が漂っていて、在りし日の東洋のベニス・タイを彷佛とさせる場所だった。 また我々は学校の敷地、学生の教室、壁画、研究室、食堂等様々見学することができた。その時印象深かったのは教室にはり出された彼、彼女達の描いた魚の絵だった。なぜならばその魚達が日本の魚とは当然ながら異なっていたからだ。我々のイメージする魚像はだいたいフナ、コイ、タイ的なものだと思うが、そこで見た魚はいかにも南国的な、熱帯魚のようなしろもので、日本では水族館でしか見れないようなものだった。彼らはちょっとした落書きでもそういう魚を描くようで、やっぱりもとの風土が違うとイメージも違うんだなあと強く感じたものだった。 意外にも彼らの描いた魚達とは、10年後、バンコクからバスで約7時間、世界遺産の街スコータイで再会することができた。遺跡公園の売店や周囲の土産物屋で売られる焼き物や木彫りの魚が、決まって同じタイプのその魚だったのだ(イラスト参考)。この姿は伝統的な様式なのだとつくづくわかった。もしかするとスコータイ王朝のころから「水に魚あり、田に米あり」と、この土地特有の豊穣さの象徴としてうたわれてきたところの有名なタイの魚達とは、この魚のことだったのだろうか?ちょっと違うような気もするが、、。 ところでこのへんのタイ北部の伝統的な焼き物・セラドン焼き、スワンカローク(スンコロ)焼きには、この魚以外にも様々なバリエーションがある。実用的な器に加え、犬、蛙、ウサギ、鶏、象、などどれもこれも風土に身近な題材が極めて無数にある。人物像も多く、象に乗った人、座っている人、顔にこぶのある人等多様で自由闊達なフォルムを持っている。タイ最初の統一王朝であるスコータイ王朝期に中国から伝えられたと言う技術が、東南アジアの芳醇な風土の中にしっかりと根をはやし、より庶民的、より闊達で自由な大輪の花を咲かせたのである。正直ここまで「底の底」というか、けれんみのない、身近で安らぎを感じさせてくれる焼き物は世界中で稀だ。うす緑、うす茶の微妙な色合いと相まって、その後のどんな仰々しい王朝的表現にもまさって、この風土に生きる生き物達の姿をしっかりと表現しえているように思える。これらにはいわゆる近代的スタイル概念を越えた必然的、細胞的にシミ出てくる共通の一貫性がある。今日でも復元されながらさかんにつくられていて、多種多様に、比較的低価格で販売されている。「スンコロ焼き」の語源となったスワンカローク近くのシーサッチャーナーライなどでは、道々に専門店や露店が並び、掘り出されたアンティークものや偽物、再現された新しいもの等が混ぜこぜになっていて区別がつきにくい。しかし新しく再現されているとはいえあまりに上手に(技術、材料、センスがほとんどかわらない)復元されるので、古い/新しい、本物/偽物、オリジナル/コピーの差は限り無く少ないものが多く、そのエッセンスは生き続けている。まさに「人芸品」の中の「人芸品」と言えるのではないだろうか。 ところでこれらスワンカロークの焼き物における小さな人物表現は、インドシナ半島に生きる人間表現として、アンコール朝のクメール人による壮大な石彫人物像と双璧をなすものであり、対極をなすものだと私は感じている。アンコール朝の遺構のすばらしさは、単なる壮大さ、美しさ、神秘性というのではなくて、自分達アジア人のありのままの姿、顔を、その特性を否定することなく、むしろそれに立脚しながら、一種の崇高なスタイルにまで到達しえている点である。それは古代エジプト、ギリシャに匹敵するものであり、「高貴なる単純、静謐なる偉大」という「クラシック」と呼ぶにふさわしいレベルのものである。アンコール朝の遺構に比べれば、残念ながらタイやミャンマーの仏像、チャンパやベトナムの神像、仏像はやはりその域に達していないとしか言い様がない(あえて言えばクラシックに対するゴシック、ロマネスクといったものである、そもそも新興のタイ族の旧称「シャム」は、土着のクメール人から見た蔑称である)。このクメール人の天才に比することができるとすれば、その対極にあるタイ族スワンカローク焼きの持つ親和的生命力、一種の「かるみ」とも呼べる魅力しかないだろう。どちらの表現も自ら自身にしっかり立脚した東南アジアらしいオリジナルな到達点である。そこには近年の観光客等の「外」を意識した目や「外」から眺めたオリエンタルなエキゾチズムとは縁がない。自らが自らを見て、自らで生み出し、育てててきた堅実さしかない。しかしなんとこのような表現が美しく無駄がなく普遍的であり希有なものであることだろうか。このような観点からすればやはりゴーギャンと言えども近代特有の病原菌に犯されている(そのことがその芸術性を損なわしむると言うことではまったくないが)。まして若気のいたり、かつて私が描いたトウクタ−嬢の絵などは夏の夜に飛び交う蚊のごとく苛立たたしいだけの不要物にすぎまい。
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<パガンの木彫り動物達>
東南アジア3大仏教遺跡の一つミャンマーのパガン遺跡は、イラワジ川流域におこったビルマ族最初の統一王朝パガン朝が、数百年にわたってつくり続けた数千基におよぶ仏塔、寺院の乱立する壮大な遺跡群である。私がその存在を知ったのは、はずかしながら小学校の時分に読んでいた雑誌『ムー』の見開き写真に見せられて以来であるからその思いは相当古い。実際行ってみると想像以上に凄い。一つ一つのパゴダが各々に胸をうつ。ビルマ式パゴダと言うものは、タイ・アユタヤにあるビルマ軍の戦勝記念として建てられたチュデイ・プーカオトーンに接して以来(もっともこれはちょっとだけタイ式に改造されているが)、その量感溢れる威風堂々とした姿に感銘してきた(しかもアユタヤのそれは微妙に傾いていて奇妙な緊張感がある)。東南アジアではクメール式のどっしりとした塔、セイロン式の釣り鐘型の丸みを帯びたもの等をベースに、後続の民族、王朝が様々なタイプの塔、寺院を造ってきている。スコータイ型の蓮のつぼみタイプの仏塔は優しく優雅であり、アユタヤ型のトウモロコシタイプは壮大かつ優美である。そのなかでビルマ・パガンタイプのそれは塔的要素と寺院的要素が一体化したものに凄みがある(もちろん独立したパゴダも大変多いのだが)。ただ上に高いだけでなく、どっしりとしたド−ム的要素も合わせ持ち、ちょうどデコレーションケーキが積み重なってその上に塔が立っているような感じで、安定感、シンメトリー、高さ、量感、集中度(統一感)、深さ(中には回転式の回廊があり大仏がいくつか置かれる)、幾何形態のハード感、、、全て申し分がない。私の好みからすると世界最高位の建造物にランクされる。その点西洋のゴシック寺院の不統一感、過剰な正面性はエキセントリックであるが少々奇異にうつるし、多くの間延びした疑似古典様式の建造物にいたっては退屈きわまりないばかりか権威的で嫌みである。パガンの大寺院のいくつかはもっとも正直でシンプル、ストレートで合理的な構造だと思え、先行する文化様式の制約とかそこからのひねり等と言うものがみじんも感じられず、極めてのびのびと率直に感じられる。 このような印象は私の勝手な憶測かも知れないが、ビルマ人のあの際だった誠実、実直さ、ナイーブさに通ずるように思える(実際ビルマで旅をしていて盗まれたり騙されたりということが極めて少ないとは誰もが口をそろえて言うことである)。そこには表層的なもの、ひねったもの、気をてらったもの、屈折したものが感じられないのだ。これは彼らの造り出した様々なものに感じられる特徴でもある。例えばここに紹介するパガンで買った木彫りの動物達もまさにそういうものであろう。パガンは伝統工芸、特に漆器で有名である。観光客の訪れる寺院の露店や村の工房で数多く売られている。それらに混ざってポツリポツリとこの種の動物達が見受けられた。どれもボタッとした存在感、静かな親和性を持っている。そこにはきらびやかな装飾、奇異なデフォルメ、工芸的洗練は見られない。実に自然に木の塊から掘り出された無駄のない合理的率直さがある。昨今流行っているウッドカービングや「フィギュア」の図鑑的リアリズムと程遠いものである。観察者の冷たい視点とは異なる、共生するものとしての生きたまなざしを感じさせてくれる。それでいてマンガ、ぬいぐるみ的センチメンタルな愛らしさに落ちることは決してない。このような没様式的、非科学的リアリズムともいえるナチュラルさは、先に触れたタイ・スワンカローク焼きの動物達にも共通するところであろう。こういうものの美しさ、素朴の中の高貴さは、現在の資本主義世界の中では生み出せないし生きてもいけないだろう。 かつてパガンに数万基の仏塔を建て続け国庫を空にしてしまった人々。壮大華麗な都の再建と仏典の大理石化という絶望的な「武器」でイギリスの侵略に応戦をした人々。かつて東南アジア最強とうたわれながら見る影もなく沈滞することにあえて甘んじる人々。サイの角の様に世界でただ一人孤立しながら、彼らが命をかけて守ろうとしてきたもの、それはこんな小さな木彫りにもちゃんと生きている様に思える。 |