<会津の赤べこ> 会津若松には私の好きな一件の居酒屋がある。開店時間夕方5時の15分前には全席がぎっしり埋まってしまうほどの盛況ぶりで、私がはじめて入った時もカウンターの一番端が空いているだけだった。その目の前はちょうど焼き鳥を焼く場所で、ねじり鉢巻のじいさんが注文を受けしだい、一球入魂で焼き鳥と呼ぶにはばかられるほどボリュームのある焼き鳥を気魄を込めて焼きはじめる。このじいさん、店の方はほとんど息子とその嫁に任せていて、今では焼き鳥専門という感じで、眼光鋭く、丸顔で骨格がしっかりした風貌の元気の良いじいさんだった。偏見だと思うが会津若松にはこの種の顔が大変多いように思え、自分の中で会津人の基準値としてインプットされている。店の品はどれも信じられないくらい現実離れしており、安くてうまい(1000円もあれば食べて飲んでまあまあ楽しめてしまう)。ほとんど100%地元常連客の店で、若主人が子供の時分から通っている人がほとんどで、私がたまに入ってもすぐに浮いてしまうようだ。私が仙台人だとばれると一瞬相手は興醒めるが(伝統的に会津と仙台は複雑な関係にある)、たいがいお国自慢が披露される。「今日、喜多方でうまいラーメンを食べてきました」などと言おうものなら、「会津のラーメンは喜多方よりうまいよ。喜多方のやつらはやり方がうまいだけだから」。「よし!今からうまいラーメン食いに行こう!」となる。仙台にもこういう店があればいつでも行くのになあと思いつつ彼らがうらやましく思う。会津人の郷土に対する情念、愛情は他地域では考えられない、それは時に自虐的とも言える毒気へとつながるというが、仙台などのどこかお寒い感じとはまったく異質なものだと感じる。一方で周囲を深い山々に囲まれ、閉ざされた感のあるこの土地で、過去の重い歴史を背負って生きるのも大変だろうなと思える。 幾人の涙はいしにそそぐともその名は世々に朽じとぞ思う 最後の会津藩主にして京都守護職松平容保が句で読んでいるように、幕末の会津藩の命をとした奮戦は後々世まで語り継がれることになった。司馬遼太郎も幕末の会津藩がなければ、日本民族自体が本当に信用できる民族なのか疑われかねないと言う意味の発言をしている。会津藩、会津魂とは、日本人のあの恥ずかしい転向劇への良心の呵責をやわらげ続けるよりどころとなった。いくぶんオーバーな言い方をすれば大和魂を最後の一点で支え続けてくれているコアでもあるのだ(それにもかかわらず彼らの屍は賊軍として靖国神社から排除されている)。「幾人の涙は、、、」と容保はうたうがその中には会津人をはるかに越えて奥羽諸藩の士族、民衆幾百万のとたんの苦しみがあったことを忘れてはならない。 ところで会津という土地は日本海側の出羽と太平洋側の陸奥が出会う所、言ってみれば奥羽という広大な扇の要として古代以来重要拠点であり続けた。仏教をはじめ上方の文化、テクノロジーは白河を越えるとまず最初に移入されるのがこの会津だった。幕末でも仙台につぐ東北第二の都市であったのだが、明治に入り恣意的に重要幹線路からはずされ、見捨てられ、現在では山あいの一つの過疎地帯になりつつある。まさに近代国家の暴力、野蛮と言うものであろう。逆にそれが幸いしてか一度戊辰戦争で灰燼に帰したとはいっても、いまだに昔ながらの町並み、伝統文化、工芸が息づいて見どころの多い城下町であることも確かである。大東亜戦争でも爆撃されなかったので、仙台の様に焼け野原になることもなかった。そういうわけで現在もなお会津人は日々過去の偉大なる魂、そこかしこの古い町並みに出没するゴースト達、さらには現在を現在として規定し続ける理不尽な閉鎖感、過疎をひしひしと身に染み込ませて生きざるをえないように感じる。まだここでは戦争は終っていないのだ(今だに彼らは長州人・山口県を許していないのは有名な話しだ)。現代の一般的なほとんどの街では「伝統」、「人情」、「味わい」、「こだわり」などと言う郷土意識が、商売上の「売り」となりうわべだけのわざとらしい飾りでしかなくなっている。近代の開発と大東亜戦争の破壊再開発でそれ以前以後で大きな断絶ができてしまっている。それをいくら復興しようとしても所詮多くがとってつけた表層的な衣装でしかないのだ。しかしここ会津ではちょっと事情が異なる。いまだに長州人を許さないように、過去が怨念と誇りになって、彼らの現在に直接つながり当然の様に連続しているのである。 司馬遼太郎は会津藩に関して以下のように述べている。 「会津藩というのは、封建時代の日本人がつくりあげた藩というもののなかでの最高の傑作のように思える。三百にちかい藩のなかで肥前佐賀藩とともに藩士の教育水準がもっとも高く、さらに武勇の点では佐賀をはるかに抜き、薩摩藩とならんで江戸期を通じての二大強藩とされ、さらに藩士の制度という人間秩序をみがきあげたその光沢の美しさにいたってはどの藩も会津におよばず、この藩の藩士秩序そのものが芸術品とすら思えるほどなのである。秩序が文明であるとすればこの藩の文明度は幕末においてもっとも高かったとも言えるであろう」。 少々引用が長くなってしまたがそういう最高度の「文明」が花開いた城下町会津は当然見どころも「人芸品」も多い。その中で「赤べこ」はもっともポピュラーであろう。東北に生まれ育った私にとって、赤べこは「こけし」とともにものごころついたころから身近にありすぎてなかなか客体視できない。美術をやるようになってはじめて赤べこが「赤」い「牛」であることに凄みを感じるようになった。単純で無駄のない流線形のフォルム、深くうっとりした赤、不思議な黒い斑点。それは意外にも強烈な象徴的表現形態だったのである。以来いろいろのタイプの赤べこを買い漁っている。赤べこはやはり大きいものが良いように思う。身体が大きいとその赤い色彩の力も強くなるからだ。その赤はみちのくの赤であり、自らの内なる赤でもある。当初、私はピカソが黒人彫刻を買うように赤べこを買いはじめた。我々の原点は荻原守衛やロダンではなく縄文土偶や埴輪、仏像、そうして赤べこでなければならないと思った。いったいどれだけの近代日本作家が赤べこの様な内実のある抽象度に到れたと言うのだろうか。皆無と言うしかないではないか。 上図のイラストのものは実は会津で買ったものではない(おそらく造られたのは会津だと思うが)。学生時代に松島のとある土産物屋の棚奥に、一つだけホコリをかぶって残っていたものを頼んで売ってもらったものである。これは一昔前の型のようで、現在のものの様な抽象化、単純化がいきつく前のまだ牛らしい細かな表現を残したものだ。これが私の中の赤べこに対する固定観念を撃ち破ってくれた。 |
<バドウブランの置き物> バリ島はインドやミャンマーに比べればたかがしれた小さな島である。名所まわりも簡単だろうとたかをくくっていたが案の定そういうわけには行かなかった。鉄道がないし公共のバスもない。タクシーもクタやデンパサールなどの中心部に集中的に走っているだけでちょっと外れるとなかなか見つからない。観光地から観光地へ前もってスケジュールが立っていてホテルや観光会社で車をチャーターしたりツーリストバスに乗ったりすればあっけないほど便利であるが、私の場合そうは行かなかった。デンパサールのマイナーなホテルを拠点としたためにどこへ行くにも公共のタクシーかベモ(バリ特有の小型乗り合いバス)ということになる。ベモは安いが時間がかかり何回も乗り継ぎしなければならない。乗る場所、行き場所によって乗るべモが決まっているので難しい。時間がかかると言うのはタクシーで15分ぐらいのところを2時間ぐらいかけてしまうこともある。まずその街のベモ乗り場まで時間をかけて行き、そこで行き先に応じたベモに乗り込み、満席になるまでひたすら待つ。時に一時間ぐらい待つことも多い。2回乗り換えると待ち時間だけで2時間かかってしまう。発進しても人を降ろしたり乗せたりしながら進む。時間の計算が立たないので困る。ベモでまわるとバリ島というのは果てしなく奥深い感じがしてくる。おそらくここで生活している人々の感覚では立派な一つの宇宙なのであろう。頭に入っている位置関係や距離からすると異様に時間も距離も間延びしているような気がしてだんだんイライラしてくる。考えようによってはわざと便利にしないとも思えてくる。これは彼らの無意識の知恵ではないのだろうか。きっとバリ島は彼らにとっていつまでも奥深い細密な肌理を失わない世界であり続けるだろう。そういうわけでベモはひまな時しか使えない。 ある時バトウブランのベモターミナルで帰りのベモに乗ろうとしていたら、ある白人青年に呼び止められた。「インドネニアン?」と聞いてくるので「ノウ」と答えると、子供の様にうれしそうな顔になってよってきた。「クタ?」と聞くので「デンパサール」と言うととたんに表情が消え、私に興味がなくなったようにどこかへ行ってしまった。私は空っぽのベモに乗りジリジリと汗をかきながら満員になるのを待つことにする。数十分後やっとうまってきた所にさっきの白人が戻ってきて、ドカドカとベモの助手席に巨大な荷物をつめはじめた。あまりに大きいので運転席が半分埋まってしまった。バリ人の運転手と車掌のような男が「だめだ」といいはじめる。確かにどう見てもダメそうである。しかしその白人青年はひるむことなく「ノープロブレム」と20回ぐらい繰り返す。こんな状況で「ノープロブレム」と主張することができる人間はインド人しかいないと思っていたのでとても驚く。ハンドルが切れないのに何がノープロブレムだろう。そのベモに乗り込んでいる十数人全員の乗客の安全がかかっているというのに。乗客は私も含めのんびりとことの成りゆきを見ていた。しかし運転手と車掌は必死である。相当激しく拒否している。ちゃんと働いているバリ人の男は一般的に「りん」としていてむやみにニヤニヤしないし筋をちゃんと通すように感じる。ジャワやインドとちょっと感じが違うようだ。この時の運転手達もいかにも貧しいが質朴実直な感じの人々だった。長い押し問答の末、結局その大きい荷物をぎりぎりと押し返しハンドルがまわる余地をなんとかつくり出してしぶしぶ発車した。運転手は身体の自由と視界が半分になってしまい、はなはだ窮屈そうでハラハラさせられたが、当の白人青年はどこ吹く風と言った感じだった。無事にデンパサールに到着してやっと解放されると思ったらまたひともんちゃくおこりはじめる。乗客が順々に乗車料を払っていると私の前でまたその白人青年が無理な注文をし始めたのだ。一人分の料金しか払わないと言い張るのである。普通は大きな荷物の荷物料も払うのであり、彼の大きさはゆうに人間一人分をこえる大きさだった。運転手も呆れてしまい時に激しく怒鳴り出す。近くにいたバリ人のおやじも加勢してわかりやすく説明を繰り返す。待たされている私はいよいよ馬鹿らしくなる。たかだか数十円のことなのに、、。しばらく膠着状態が続き気を利かせた運転手は私の支払いを済ませてくれ、「ほら、この日本人を見習え!」と白人青年にうながす。自分が優等外人になった様でちょっと妙な気になりながらそそくさとその場を離れた。いくらベモというものがイライラする乗り物だといってもこの白人はちょっと尋常ではなかった。よほど金がないのか、インドあたりでぼろぼろに騙されてアジア人不信になっているのか、もしくは傲慢なエゴをアジアで押し通すことに異常な生き甲斐を感じているのかなんなのか理解できない。 ところでバドウブランという村はベモの集結地点というだけではなくて、プセ寺院のバロンダンスが有名なので何度も訪れることになった。プセ寺院はベモターミナルから意外に遠く、2時間ぐらいかけながら汗をかきかきとぼとぼと道を聞きつつやっとの思いで到着できた。バロンダンスを見に来た歩きの客は自分一人の様で、他の全員が観光バスで別ルートから乗り込んできていた。彼らは帰りもあっという間にバスに乗り込みどこかへ消えて行ってしまった。のこされたのは私と数人の土産物売りだけだった。結局売り子の女性から、ココナツか何かからつくった球状の置き物を2万ルピーに値切って買い、もと来た道をまたとぼとぼと帰路につく。一台の客待ちタクシーすらなかった。当然ながらここではそれに類するベチャとかオートリキシャも存在しない。なんというかいったん観光のシステムから外れてしまうとやたらと間延びして時間がかかってしまうようだ。だからといってバリ島では身の危険を感じるほどのことはまず無い。適度に心地よくなんとでもなる安心感がある。それでただ間延びした時間だけが身体に蓄積されあくびが出ててきてしまう。 |