<人芸収集日記・イラスト・A>青亀堂世界人芸品展示室
<タイの青白陶器>
80年代後半バブルが始まりかけた頃、学生だった私は友人と二人ではじめて海外へ旅行した。行き先はその友人のおじが仕事をしているというタイ。当時はとにかく外国というものにいければどこでもいいという感じだったので、タイになったのはあくまで偶然で、今にして思えば幸運だったように思える。当時のタイは高度経済成長まっただ中でとにかく騒々しい印象だった。友人のおじの世話でバンコクにあるランカムヘン大学となりにできあがったばかりの大学寮を宿とした。少しづつ学生が増えていって部屋が埋まっていき、新しい見なれない顔がどんどん混ざってきて毎日が新しい出合いであった。当時、私と同世代のタイの学生達の多くは田舎から出てきた、中産階級のわりあい裕福な人達で、いわゆるタイの「市民」を形成していく層だったのではないかと思う。彼、彼女らは基本的にアメリカナイズされてきていて、よく夜通しディスコなどに出かけ、翌日一階にいる屋台で二日酔いなのかボ−とそばを食べていたりいるのによくでくわした。一方で私と友人はちょっと変わっていたのか、ロッブリー、アユタヤ、スコータイ、チエンマイ、などいわば古都、遺跡に夢中になっていて、その興味関心が噛み合わないようだった。タイの若者は、「遺跡なんかいっても破片ばかりで何もない」といった感じでほとんど興味を示さず、我々がとってきた遺跡ばかりの写真をつまらなそうに見ていたのが思い起こされる。わりと日本人と似ている印象で、かえって植民地にならないでうまく立ち回った国(タイと日本はほとんど唯一アジアで植民地にならなかった国)の方が内部はこだわりなく欧米化しているようにも思えた。
ある時彼等が私達を「サンデーマーケット」につれていってくれた(「ジェージェーマーケット」とみんな呼んでいたが、後年再び訪れた時はまったく通じず「チャトチャック」と公園名を言わないとダメだと解る)。予想をはるかに上回る大きさと人込みで大変驚いた。まず鳥籠コーナーにひきつけられてしまい、どれもこれも欲しくなり、あせって一番近くのなんてことがないやつを買ってしまった(それでも日本に帰ってみるときわだってタイっぽい)。一緒にきたタイの学生たちは呆れながらもしっかり値段の交渉してくて心強かった。すでにチャイナタウンで「コブラ対マングース」の剥製を買っていたので、荷物が多くなりすぎて困った。
この日一番驚いたのは、地面いっぱいに並ぶ多種多様の「青白陶器」のコーナーにでくわした時だった。亀、象、蛸、ネコ、蛙、鳥、魚、人間、豚、、、、といったあらゆる生物をあしらった様々なバリエーションの青白陶器があった。その全てが見たことがなく、しかも良品なうえに破格なほど安いのでめまいが起きる。こういう最高の状況はその後今日まで私の人生の中でほとんどない。これもあれもそれもというぐわいに買おうとすると、同伴していたタイの若者達が、頼むからこんなくだらないものを買わないでくれと言わんばかりに、しかめっつらになって陶器をつかむ私の手をぴしゃりとたたいてきた。現地の人にこういう態度をされると当時の自分はなんだか自信がなくなってきて、またしても一番近くにあった亀と象等いくつかしか買えなかった(10バーツの小さいのは大学のクラスメイト達への土産とした)。まあまた後でゆっくりここにくれば良いかとその時は自分に言い聞かせた。
しかしこれが間違いで、次にここに来れたのは約10年後になってからで、事態は予想外に悪化していた。その10年はタイを大きく変えていて、ちょうど金融破綻がおこる前で、タイの経済発展はまさにピークを迎えていた。サンデーマーケットには、あれだけあったバリエーションが根こそぎなくなってしまっていて、10バーツの小さいやつばかりがのこっていて、また大きいのがあってもあきらかに描彩が悪くなってきていた。しかし普通の皿やコップ、花瓶等の青白陶器は健在で、というよりも人気がでているのかかなり値段が相対的に高くなっていた。その後くるたびに青白の生き物バージョンが少なくなってきているようで、昔見た地面を埋め尽くすあの光景は幻だったのかと思えてしまう。それでもその後いろいろなところでちょこちょこと見つけるたびに(スワンカロークやスコ−タイの屋台に混じっていたり、横浜の中華街の店先に置かれていたり)最優先に買い集めている(日本である日、「こういうものを買う人がいるって言うのは信じられない」とある女性が言っていてちょっとうろたえたが、、)。というのも私がこのような民芸雑貨に興味を持つようになったきっかけがまさにこの「青白陶器」だったわけである。
一応「青白陶器」と呼んでいるが正式名称なのかは解らない。てきとうに「あおしろ」と呼んでいたが本にも「ブルーアンドホワイト」とか「青白陶器」と書いてる。どうもわりあい新しいもののようで、セラドン焼きのように博物館や本になっているのを見たことがない(その源流になったのだろう焼き物はいくつか見たが、、)し、ジムトンプソンの家でも見かけなかった。もしもそうだとするとはじめて私が見て買いそびれた頃が最後のピークの頃で、早々と質を悪くしながら姿を減らしている(日常雑器としての青白陶器は今だ広範に使われているが)はかなく滅びゆく文化なのかもしれない。本当に残念だ。
*どなたか「青白陶器生き物バージョン」がたくさんあるところを知っていたらぜひ教えて下さい。
<マトウラーのクリシュナ像>
1998年インドに行ったおり、マトウラー近くの巡礼地ヴリンターバンのことを『地球の歩き方』で「石造りの家々の間を迷路のごとく路地が走り、そこにその数4000ともいわれるヒンドウー寺院がひしめいている。、、、、インドは宗教の国と呼ばれるがここはそのイメージを圧縮したようなところだ。」とちょっとこの世の物とも思えないようなことが書いていて、アグラ−の近くでもあるのでマトウラ−と組みにして1日の予定で行ってみることにした。マトウラーがクリシュナ生誕の地ならヴリンターバンはクリシュナが幼年期牛飼いの娘達と戯れてすごした地だという(クリシュナはシバ神とならぶヒンドウー二大神のヴィシュヌ神の化身の一つで大変人気がある)。どちらもそうとう古い町らしく、西洋とは違ったインド中世の町並みというものを見てみたいと思っていた。
またこのあたりはインド仏教美術中心地としてマトウーラ仏が有名である。これはガンダーラと並ぶ仏像発祥の地といわれていて、ガンダーラ仏がギリシャヘレニズムの地中海文化の影響のもと生まれたのに対し、インド大陸独自に発生したオリジナルな仏像ではないかといわれている。仏教はブッタ入滅後数百年もの間、仏像を作ることを拒んできたわけで、このような偶像を作ること自体が地中海文明の専売特許だと信じられてきたことが、この一点で突き崩されるかもしれないとても大きな大きなことなのである(我々美術にたずさわるものはつねに西洋、とりわけギリシャ美術に劣等感を持っていて、仏像すらもギリシャの影響がなければ作られえなかったとしたらちょっと悲しすぎるわけである)。東洋が独自に生み出したかもしれない仏像・マトウーラ仏は、確かにガンダーラ仏がモデルとしているだろう西方的人種とちがっているようで、東洋的、インド的な顔立ちをしてまるまるとしてくりくりっとしてするりとしている(感覚的で申し訳ありませんが)。驚くことには、このあたりの人々は特に丸顔でくりっと(ギロっと)している人が多い、というよりもそういう顔であふれていた(この印象は帰った後写真を検討して証明されました)。この造形はおそらく南回りの上座部仏教の仏像の源流にもなっているに違いなく、ガンダーラからシルクロードを経て中国、朝鮮、日本と伝わる北回りの仏像とはその根本において異なるタイプの「像」であるように思える。
このように凄い土地、凄い古都なのであるが、そこでよく売られている様々なタイプのクリシュナ像はなんとも稚拙で素朴なものばかりだった。やはり赤ん坊や子ども時代のクリシュナ像のためか小さくて簡単なものが多い。売り子は「ベビークリシュナ」と呼んで売りつけてくる。私は布地のイス(ベット)の上に乗るハイハイ姿の黄金の子供クリシュナ像と、黄金のブランコに乗るハイハイ姿の黄金の子供クリシュナ像の二パターンを買った。どちらもその器にたいして乗っている像が小さく子供らしいが、素材が金属でけっこう重く、磨きが荒く形や顔がややいびつで無骨なところがあり、目玉が三白眼で眼球のまわりが赤くいかにも妙な迫力がある。おそらくこれは「観光」土産というよりも「聖地」の土産物であり家に持ち帰って祈りを捧げるれっきとした信仰対象に違いない。キリスト教でいえばマリアに抱かれるか小羊とたわむれる幼子イエスといったところで、民衆の大好きな定番イメージなのだろう。