ソウルのお面 2004年5月、ある美術展出品のため韓国ソウルへ行くことになった。仁川空港へ降りたち眺める遠景はやはり日本と異なっていた。「朝のように鮮やかな」と名付けられているように、日本的な湿気や陰影は感じられずなんとも言えぬすずやかで乾燥した空気が漂い、ちょうどデジカメでとった景色のように色彩がクールで鮮明に感じられた。事実滞在中常に喉が枯れて声がしわがれた。 展示、レセプション、シンポジウム、飲み会などのためあまり動きがとれなかったが、合間を見てはソウルの街を散策することができた。滞在中偶然同部屋になった作家0氏と連れ立ち様々なところを歩き回る。ある晩、0氏のパトロンだという名古屋の実業家T氏に「今、めったに食べれないものを食べてるから早くこい」と夕食へ誘われた。待ち合わせのうらびれた食堂へ0氏と入って行くと、T氏一行が調度食べ終った後であった。彼は我々二人のため新しい鍋をもう一つ頼んでくれた。出てきた鍋には犬の肉が沢山入っていた。いわゆる犬鍋である。その他サンゲタンを一つずつつけてくれた。「犬を食べるなんて考えられないし、考えたくもない」と常日頃中国、韓国、ベトナムなどの習慣を野蛮だと揶揄していた私だったが、こういう急な展開では断るわけにも行かず、言われるがまま大量の犬肉を腹に入れるしかなかった。「うまいでしょう!!」と聞かれるまでもなく恐ろしく美味であった。何で犬を食うかと言えば、うまいから食うのだと解った。牛肉に近いようで、臭みがなくやわらかい。それでも皮がついた肉片をつまんだりすると「あっ犬の皮だ」と実感しながら、自分が飼っている柴犬の顔を眼に浮かべた。以前タイのロッブリーで食べたカエル飯の肉片には、両性類的模様のついた皮がついていて閉口したが、犬の皮には模様が無くてよかった。店のおかみが最後に御飯を入れて「おじや」にしてくれた。白い米と肉汁が合わさるとさすがに気持ち悪くなったがやっぱりうまかった。店を出ても口の中や腹の中に犬の気配を感じ嫌な気がした。その夜、眼と身体のない猛犬に噛み付かれる夢でうなされた。 ソウルの街は現代的で活気がある。しかもいくつかの世界遺産の王宮や廟が今なおどっしりと腰を下ろしている。世界遺産どころか国宝(建造物等)すら皆無の東京都心とは大違いである。しかし宿の近くの世界遺産「宗廟」、「晶徳宮」等に行って最初に感じたのは「キメが荒いなあ」ということだった。屋根瓦や壁の石の大きさ、装飾の細工、狛犬の彫、、、特に凸凹の石畳(しかも韓国随一の文化遺産、宗廟のメイン空間でさえも)等は、日本人ならすぐに「お年寄りや子供に危険だ」と言われ問題になるだろう。またキシンでズレたままの木造の歴史的建造物等を日本の大工が見たらほおっておかないだろう。私もずいぶんいろいろな国に行ったが、この荒っぽさははじめての経験であった。まるで素人の自分が彫ったようでさえある。おそらくこの国の美意識は左ジンゴロウばりの細工、ディテェールにはないのであろう。石畳を平にする技術が無いのではなく、そういう必要を感じないのに違いない。むしろそういう「枝葉」的な関心よりもっと構造的で本質的な次元に一挙に向かって行く傾向がこの国にはあるように思う。 ここで「景福宮」のすばらしさについて少々述べなければならない。景福宮はソウル王朝の中心的場所であったが、そのいくつかの建造物が近年新しく再建されたものであまり期待はしていなかったのだが良い意味で裏切られた。まず南大門からのびる在りし日の都大路の中央に立ちはだかり、王宮正面を守護する軍神李舜臣将軍像の反り返った勇姿を横目に美しい光化門をくぐりぬける。興礼門、勤政殿、さらにはは背後の山へ向かう直線上の連なりを同時に、あるいは連続して見、体験することができた。それらは緊密に関係しあっていて本当に見事というしかない。李舜臣将軍は秀吉の侵略から水軍で自国を守った英雄。光化門はかつて柳宗悦が惚れ込んで取り壊しを阻止したいわくつきの大門。勤政殿は韓国最大の木造建築物。背後の山は日本の山とちょっと趣を変えていて岩がもりもりと露出している「気」のこもる塊で、大きすぎず小さすぎず、遠からず近からず、王宮の建造物に深く関係する。その構成要素の一つ一つはたいしたことが無いのだが、その関係が生み出す「間」が東洋的な精神性にかなった崇高な美しさをたたえている。そこでは見るものの視線を分断させてしまう不必要な装飾、細かな細工的ディテェールは最小限に押さえられている。そうして我々の関心を常に大きな、基本的な関係の方に向けさせる。視覚的というよりも身体的、工芸的というよりも建築的、芸術的なのである。かつて旧日本軍がこの景福宮の崇高なつらなりに嫉妬し、不粋な西洋風建築物の朝鮮総督府で分断しようとしてきた。その建物が光化門の前から取り壊され、この美しい連関が再生したのは1995年のことである。この、細部よりも、関係構造を大切にするものづくりは、韓国のいろいろなところに見え隠れしているように思う。 今回ひまをみては仁寺堂界隈や南大門市場を足しげく物色し人芸品を探してきた。予想通り日本同様、高価な骨董の類いを除き、すべからく最悪の状況で、良いものがほとんどなかった。もともと素朴な味わいで細工がおおまかなのにも関わらず、むりやり伝統工芸品のお土産的体裁をつくるので見るに耐えない状況をつくっている。しかしその中で呪術的な踊り、芸能に使う伝統的なお面のたぐいはまだまだ良いものがあった。ただつくりが大きくて一見すると素朴をとおりこし稚拙にさえ見え、「大丈夫かなあ」と思いつつ何度も見直し思案した。表情が大胆で、いわゆる細工的な魅力は薄いので、多くの観光客はたじろいで手をのばさない。私が真剣に次々と大振りの奇妙なお面を買いあさていくと、同行していた日本の第一線級美術作家達は一様に驚く。現代美術作家はお面なんか買わないものである。みんな各々別々なものを物色していたがお面を買ったのはついに自分一人だけだった。日本に帰ってきて壁に飾ってみると、意外にもそれら大振りの面が異様な艶かしさを発し優れたものであるのを実感した。肉圧の木彫り、原色系の単色塗りのためもあるだろうが、他の国々の面には無い強靱な魔性がみなぎっている。眼や鼻、模様など一つ一つはたいしたものではない。色彩もベタ塗だ。しかしそれらの関係性(目鼻口に位置、大きさ等)は繊細であり、無駄なものでそれを台無しにすることなく、「間」や色面や量感を生かしきっている。こういう点は先に述べた景福宮のすばらしさと合い通じるものがある。つくづく「買って良かった」と見とれる毎日である。
|
イラワジ川の子供達 ミャンマーのパガン、ニャンウイーの川沿いで一人の少年に声をかけられた。少年と言っても青年になりかかった奇妙な年頃で、私の背丈と同じくらいの大きさだ。顔は鋭く整った感じで高校野球のダルビッシュ投手に似ていた。貧しさのためか痩せぎすで眼をぎらつかせ、口調も大変鋭く強引だった。自分の船でイラワジ川のいくつかのポイントを観光しないかという売り込みだった。値段が高いのと少年に船というのが気になって断ったのだが、同行していた妻がどんどん話を進めてしまった。そこで夫婦喧嘩になったのだが結局翌日の午後3時ころに約束させられてしまう。私としては大いに不満で、値段も高いし、船も危険だし、面白いか解らないし、なにしろあの強引な少年の態度に乗せられたのがしゃくに触ったが、妻は上機嫌であった。「まあ明日のその時になったら考えて、いざという時はすっぽかそう」と気軽に気持ちを切り替えようとするが、少年の真剣な眼を思い出し、「嘘はつけないなあ」と諦めるしかなかった。しかも相手は正直で親日派の多いビルマの若人で自分は日本人である。ここは意地を見せるしかない。 翌日は朝からパガンの近郊小ポッペ山へタクシーをチャーターし観光した。参詣路の両脇には様々な土産ものが売られ、中でも手作りの木製カメラは印象深かった。なぜ買ってこなかったのか未だに悔やまれる逸品で、それを買うためだけにでもまた行きたいくらいである。山上のお寺を参詣し、昼も食べずにパガンに引き返す。暑さと疲れのためホテルでひと休みしなければならなかった。 3時ころ少年と待ちあう約束の川沿いへ向かう。我ながら律儀だなあと思いつつも気分は良かった。少年は小さな子供に混ざってサッカーをして遊んでいた。「まだ子供なんだなあ」と思う。こっちに気付くと驚いた様子で、うれしそうにやってきた。おそらく我々が本当に来るとは思っていなかったのだろう。船頭役に別な少年(写真)ものりこみ出発する。 いまだに帆船が行き交うイラワジ川の両岸は見渡す限り木々が生い茂り、数千年前と大差ないように思えた。数十分後目的地に到着。我々の小舟を寄せた岸辺はただの乾いた土のむき出した所で不安になる。しばらくジャングルを少年に誘導されながら歩く。一面に美しい熱帯の蝶が大量にむらがりうれしくなる。子供のころの自分ならこの中の一匹だけで狂喜したに違いない。さらにいくと崩れかかった日干しレンガの大きな寺院に辿り着いた。一人のお坊さんが出てきて、芳名帳に我々の名を記入させ入場料をとった。寺院の中は薄暗く、コウモリの糞だらけで、はだしの足に痛かった(ミャンマーでは寺院の中ははだしと決まっている)。パガンの様々な寺院に通ずるというトンネルを見せられたり(毒蛇が出るということで埋められているそうだ)、「メディテーションルーム」という場所を見せられたりした。そうして最後にこの寺院の本尊である黄金の大仏の前に辿り着いた。暗闇に光るその姿はおよそ日本人のイメージする仏陀とはかけ離れ、まるで恐ろしい魔神の様である。首が短く肩が張り目玉が鋭く大きい。パガン固有の仏陀像の極め付けのような奇怪な姿だ。坊さんがこの大仏の前で座禅を組んで「写真をとれ」というから撮った(写真下部に坊さんの頭が少し入っている)。妙にサービス精神旺盛なので困惑するが、この寺はパガンの遺跡群から少し離れているため、観光用に整備されていない。おかげで大変ディープな雰囲気を保っていて簡明をうけた。帰りは夕日に染まるイラワジ川を堪能しながらもと来たニャンウイーにもどる。少年とは笑顔で別れることができた。彼には狡っ辛いスリ切れた大人にならないでほしいと思った。 アジアの旅では様々な子供達と出会う。真夜中のタクシーに乗る私に小銭をもらおうと窓越しに近づいてきて、凍り付いた表情で歌い続け運転手にどやしつけられ暗闇に消えて行くジャワの少女。チョプライヤー川の渡し場でソバを食べている私の脇で物悲しくピアニカを引きながら乞食をする盲た少年。民族衣装を着て観光客に写真を撮らせながら小銭をせびるタイ山岳民族の少女達。ジャンスイー駅の構内で電車待ちしている私を取り囲み、はやし立て、ベンチを叩きながらしつこく金をせびり取ろうとするインドの浮浪児集団、、、、。 そういう中にあってミャンマーの子供達は貧しいながらもある種健全な感じだが、まだまだ医療が行き届いていないため子供の死亡率が高いらしい。ゆえにこの国の人々の間では、子孫繁栄、子供の健康、成長は今だに切実で最大級の願いであり続けている。それは今だにお寺等で沢山の子供(赤ちゃん)姿の張り子人形が売られていることからも察しられる。これらはおそらくかつての日本の「ほうこ」人形のように、子供の健康と成長を見守る魔よけの様な意味合いにあるのではないだろうか。ミャンマーの子供張り子はおしなべて、堂々として肉付きの良い身体をしていて、「元気溌溂」を表現しようとしている。かわいらしさとか可憐さとか上品さは眼中にない。あくまで野性的な生命力や一種の豊穣さを充満させている。それは裏をかえせば、この国の子供達が今なお様々な危険に囲まれていることのあらわれとも言えるのではないか。この種の人形が伝統的な様式を受け継ぎながら、観光土産ではなしに今なお本来的な目的で大量に作り続けられ、需用される国というのはもう地球上でほとんどないだろう(今日の紛争地域の多くでも子供達は危険にさらされているわけだが、このような伝統様式は存続されていない場合が多い)。パゴダの光、土産物の元気のよさ、実のある華やかさ、張り子人形の強靱さ、それらの美しいものがいつまで続くのだろうか?それはこの国の独特な国状とも関係し複雑な問いを我々に投げかける。 イラストの人形はパガンの村を散策している時に、とある民家で見つけたものを頼んで売ってもらったものである。その家は伝統的な農家で、解放された暗い室内の柱に何かぶら下がっているのを通りから見つけたのがきっかけだ。本物の子供ほどの大きさの張り子に、本物の子供の服が着せてある。顔には本物の「タナカ」(ビルマ人女性が顔に塗り付ける植物性の粉)が何層にも塗られていて、一種妙な迫力があった。「売ってくれ」と頼むととても驚かれたが、その辺で売られている張り子と同額程度にちょっとプラスしたくらいですんなり売ってくれた。売ってくれたおばさんが言いうには、この人形は自分が子供の時に遊んでいたやつだということであるが、何しろ言葉が解らないので本当にそう言ったのかは解らない。帰国後よくよく見てみると確かに年期は入っているが、つくり自体は現在も売られている人形と大差はない。この人形は本当に大きくて、長年の積み重なった時間、ぴったりと解け合った子供服、「タナカ」で覆われた肌質等のため、その存在感はとても張り子とは思えないすごいものがある。リアルな技工をほどこした人形とはまた別のリアリティーがある。まさに人形(ひと型)の原点を見る思いである。 |