飯盛山の白虎
先日一泊二日の小旅行に出かけた。山形、上山、米沢から福島県に入り喜多方を通って会津に入るというものだった。途中山形上山のソバや城、温泉を楽しみ、米沢の笹谷観音にお参りし、笹の一刀彫りを物色する。さらに喜多方ラーメンをはしごし、湯川村の勝常寺で貞観仏を見るという贅沢なコースをたどる。勝常寺の貞観年間の仏像群は多数の国宝、重文を含む東北随一のもので、この年代のものがごっそり残されているのは京都でも珍しい。さらにいえば東北仏教の発信地でもあるので、仏教化以前、ヤマト化以前のエミシ的エッセンスが色濃く流れている大変独特な仏像群だ。歴史上一度しか生まれようがない異文化の衝突の中から現れた大変貴重なものである。
翌日は会津若松観光で、なんとなく好きな栄螺(サザエ)堂を見に飯盛山へ登る。先月所用で出かけた京都と同様大河ドラマの影響のため新撰組一色という感じであるが、ここ飯盛山は言わずと知れた会津白虎隊の聖地。やっとのおもいで登ると「説明いかがですか?ボランティアですから無料です」と人の良さそうな初老のおじさんに呼び止められる。「どちらからですか?」と聞かれ、「仙台からです」と答えると、「ああそうですか。仙台だったら飯沼さんの碑もあっちにありますよ」と言われ、「そうですか」と答える。しかしはづかしながら「飯沼さん」が誰なのか思い出せない。まるで近所の知り合いのような言い方であるが、おそらく白虎隊に関連する有名人なのだろう(*飯沼貞吉は自害しようとした白虎隊の部隊でただ一人命をとりとめ、後年仙台に移り78まで生きた人物。毛と歯のみここ飯盛山に納められている)。僕は白虎隊は詳しくないのだ。よくよくまわりを見るとあっちでもこっちでもおじいさん達の熱心な説明がくり広げられている。それはしんしんとした話ぶりでちょっとただならぬ雰囲気である。以前どこかで似たような空気にふれた記憶がある。よくよく考えてみるにそれは靖国神社の空気だった。靖国神社でも熱心な老人が、訪れる人々へゲリラ的に話しかけていた。「ここにビルマで死んだ弟の持ち物も入ってる」とか聞かされると生々しいものだった。靖国神社は格式が高い国家的な場所だが庶民の血肉が染み込んだ、日本では数少ないディープな場所だ。空を覆う大鳥居、軍神化された大村益次郎の巨大な銅像の威容に対する稚拙で泥臭い戦争画や細々とした遺品、辞世句等とても対極的な世界が混然としている。本来民族の霊場、聖地というものは整然としたくとも一人一人の情念がそれを凌駕してしまうものである。
それにしても会津の飯盛山と九段下の靖国という掛け合わせは因果なものである。会津をはじめ「官軍」と戦った多くの東北人は靖国から排除されている。小沢一郎が「靖国には会津が入ってない」という意味の発言をしたらしいが、そういう見識を持ち合わせている政治家はほとんどいない。靖国神社とは徹底的に明治近代国家の流れをくむ聖地であり、飯盛山は徹底的に反明治政府のモニュメントである(あるはずである)。
白虎隊自刃の地に立つと、会津若松の街が見渡せる。鶴ヶ城は思いのほか小さく見える。これでは白虎隊が落城したと勘違いするのも無理はない。ふと気付くと隊士の墓標とならぶ一角に仙台育英学園という宮城(東北?)一多きなマンモス校の創設者の墓があった。石碑に誇らし気に刻まれた文字にはこの人物が会津出身者だったことが記されている。それにしても何でこんな目立つところにこのようなものがはりだしているのだろうとよくよく見てみると、この一区画だけ無理矢理石垣が後付けされ付け加えられているのがわかった。こういうのは苦笑するしかない。
それとは別に飯盛山の広場の方にもちょっと奇妙なモニュメントが立っている。大きな石柱に鷲がとまっている堂々たるものだ。ボランティアの説明によると戦前にイタリアのムッソリーニ−から贈られたものだという。石柱はポンペイの遺跡にあったものが使われているという。たしかにその全体の量感はイタリアのものであり、その奇異な印象はミラノ駅等のファシズム建築とそっくりだ。日独伊三国同盟のさなかのあるパーティーで、会津にゆかりのある人の口から白虎隊の話を知ったムッソリーニーがその「忠君」にいたく感動したためらしい。ボランティアのおじさんの話しでは、ちょうど会津保科家の御息女が皇室に嫁ぐことになった時期と重なって、「賊軍」の汚名返上に町中が歓喜したそうだ。その時飯盛山全体が今日のように整備されたのだという。さらに戦後になると石柱の上の鷲が持っていたシンボリックな武器はアメリカ軍によってもぎ取られてしまい、現在のようなどこか間が抜けた感じのモニュメントになってしまったとのことだ。
言ってみればこの飯盛山、白虎隊は、戦前戦中のナショナリズムに都合よく利用されたのである。だから先にここが「反明治政府のモニュメントだ」と述べたのは半分間違っていることになる。それは「乃木将軍」や「肉弾三勇士」と同様に、戦意高揚、忠君愛国のため全国的な知名度を得てきてしまったに違いない。確かにまだ年若い少年達が揃って自決してしまうというのは痛々しい話である。しかし素朴に考えれば戊辰戦争にはもっともっと痛々しい出来事があり、女子供が自決したり、獅子奮迅の活躍をして散って行った多くの会津人やその他諸藩の人々がいるわけで、白虎隊ばかりをここまで特別に祀り尊ぶのが理解しかねてきたのだが今回の話でようやく合点がいったしだいである。そう考えて行くと西南戦争で危機に直面した明治政府が、食い詰めた旧会津士族の薩摩への恨みを利用して、最前線に切り込ませたり、幕末のあの段階で京都守護職を押し付けておいて後で切り捨てるという徳川慶喜の愚劣さなど、一連の全てがなんとなくつながってくるように感じる。そこに権力というものの悪魔的狡猾さと、それに利用され、翻弄されてきたものとしての会津人の悲しみが見えてくる。
ポンペイの石柱と間の抜けた鷲、白虎隊の石碑(さらにはどうでもいいが仙台育英学園の創設者の墓)などの違和感は、常に権力に翻弄されてきた会津人、そうして我々人間というものの不思議さを思い起こさせる記念碑となっている様に思える。
ところでイラストの白虎張り子だが、飯盛山付近の張り子専門店で見つけたものである。赤べこ、天神、福助に混じって一つだけ売れ残っていたものだ。やはり白虎隊にちなんで白虎なのだそうだ。もちろん普通の黄色い虎張り子はよく見かけるが、不覚にも白いのは初めて見た。当然ながらここ(飯盛山)では白い方が売れるらしい。この白虎張り子は、会津白虎隊の歴史を考えると、表情がやや通俗に落ちていて物足りないのであるがそれほど悪くはないので購入した。白虎は中国伝来の四方の守護神青龍、白虎、玄武、朱雀の一つである。だから当時の会津軍には白虎隊の他に青龍隊、玄武隊、朱雀隊もあったらしい。それならば青龍張り子や玄武張り子、朱雀張り子も作ってほしいものである。
<京都でゆるせるもの>
京都で許せるものは意外に少ない。というと誤解を招くかも知れないが、何度か「人芸品」を物色してみた正直な感想である。日本全国がダメなのだから別に京都のみが特別というわけでもないが、土産物の量から比較すると良いものの割り合いは恐ろしく少なくなる。もちろん高価な骨董、伝統工芸の類いは除外してだが(この手の骨董、古ものの類いはやはり良いものが多い)。
千年の都として「大和文化=日本文化」を列島各地に発進してきた京都は、まさに文化で満ち満ちているといっても過言ではないだろう。かつて画家岸田劉生が身を持ち崩した様に、教養と金のある人間にとって、京都の味わいは際限のない深さを持っているらしい。しかし教養も金もない人間(自分も入る)にとっては「とりつくしまのない」ところがある。実際おびただしい土産物としての現在の品々のひどさは日本屈指であり、「観光客」を欺けるための虚飾にかけては最先端を走り続けている。「一般の人」、「庶民」(自分も入る)が歩き、見つけることができ、買うことのできるものの多くは、いわゆる「お土産化」し、上品を装い、オトメチックに可愛らしく、小さくまとめられていて、いつ来ても買うものがない。現在の「京風」、「雅び」とはこういうことを言うらしい。自分としては最も退屈で非創造的なつぼにハマっていると感じている。10年以上前鞍馬の方でやっと見つけた「許せるもの」(虎張り子)が、後で見ると会津の張り子を可愛らしくしただけのものだと解りがっくりしたことがあった。土人形も伏見がそのルーツであるが、「魚は頭から腐る」の諺のごとく、現在のそれは上品を装った生硬で退屈で高価な代物になっている。この資本主義の世の中、本来安価であるべき品々まで余分な手間、飾り、可愛らしい変形、、、つまり「京風」の味付けが加えられおとしめられているのだ。
京都の自然、山や木々の枝振り、景観も自分のような北国の野蛮人からすると物足りない。世の中には「秘仏」とか「奥の院」とかというものがあって人の目をわざと遠ざけその霊性を保存する習俗がある。長い間人の目に触れ続けると失うものがあり、エネルギーも低下してくる。千年以上も人の眼にさらされ、手が加え続けられてきた京都の自然はもはや自然ではないと思う。そこにある種の調和的な美しさ、理念的な世界観のようなものを感じたとしても、東北の森が持っている超人間的な奥深い宇宙的神秘感を感じることは難しい。都市化が進み自然の力が弱まり、自然を飼いならすようになると文化は洗練し繊細に弱々しくなる傾向があるが、京文化とは世界でも例がないほどそれを長い間突き詰めてきた文化だろうと思う。そういうことと今日の土産物の「オトメチック」な感じが、どういうふうにつながるのか解らないがやはりどこかでつながっているのだろう。
イラストの馬とウサギの張り子は京都駅近辺で偶然見つけたものである。本当は十二支あるはずが二つだけ売れ残っていた。店員の女性に聞くと、今はもう無くなった古いタイプの売れ残りだという。さかんに新しくて、十二支そろったやつを勧められた。その全てがひどいものでどうしようもなかったのでこの二つのみを買うことにした。店員はすまなそうに有り合わせの箱にこれらを詰めてくれた。とても小さい素朴な張り子で表面にちゃんと凹凸もある。一つ380円。ふたつで760円。結局今回の京都旅行で、僕が出会うことのできた「ゆるせるもの」はこれだけだった。