庄内のミイラ、人面魚、土人形
先日アルケッチャーノというイタリア料理店に行きたいと妻が言うので、わざわざ山形県鶴岡市まで行くことになった。開店11時45分には満席になるということなので予約を入れつつ朝6時に起きて出発。途中寒河江の慈恩寺、即身仏ミイラのある朝日村注連寺、大日坊、独特な家屋がならぶ多麦俣村などに寄ろうと思ったが、今回は時間のため大日坊のみとする。このあたりは本当に見どころが多いので全てを語り尽くすのは不可能だ。学生のころからよく通い、自分自身の中ではもっともコアとなり、エネルギーをもらい続けてきたスポットである。
以前ある祈祷師に高野山、出羽三山に深く関わる毋方三代前が僕の守護霊になっていると指摘され、湯殿山にお参りするように言われた。もともと出羽三山が好きで、月山登山等をしてきていた自分は妙に納得させられる話だった。しかもその祈祷師の言葉は当たっていて、三代前の曾おばあさんは山形の出で、東京へ嫁ぎつつも度々出羽三山参りをして長寿を全うしていた。
2年ぶりに訪れる大日坊はあいかわらず鐘、太鼓、お経の声をあたり一面に鳴り響かせていた。朝日村にある注連寺と大日坊は同じ真言密教。同じように即身仏ミイラを持つ一種のライバル関係に位置しているようである。注連寺は立派な本殿が残り、鉄門海上人の上方を向いた指(死んだまま指や姿勢が崩れないでミイラになったということ)が自慢。大日坊は明治の廃物希釈で被害を受けつつも、今もって気魄みなぎる湯殿山総本山。僕はよりエキセントリックな大日坊が大好きである。雨の朝ということもあり駐車場には我々の車が一台しかない。他の参拝客が居ないようでちょっと気が重くなる。なぜかと言えば、このままではここの住職とマンツーマンで対さなければならなくなるからだ。大日坊の住職は絵に描いたような巨漢で「大狸」の様なものすごい迫力を持っている。しかし世代が変わりつつあるのかお経をあげたりお払いをしてくれたのは住職の子供らしき人物だった。前に来たことがあるということで「説明」もいらないということになり、自由見学になった。ここの数え切れないほどある泥臭い神仏の独特な造形が大好きなので、のんびりと見学できることに内心ホッとする。以前寒河江の慈恩寺(ここも真言宗)でうろうろしていた時、「仏像が三度の飯より好きだ」という自称「真言坊主」の初老のおじさんに軽く仏像の講釈を受けたことがある。「食べ物が食べられない時代の仏像はやっぱり違います」。「時代が下るにつれ切実感が無くなるんです」ということだった。だからなのだろうか真言密教系ということもあるだろうがこのあたりの雪深い山岳地域の仏像、神像はたとえそれが江戸時代のものであったとしても独特な凄みがある。そんなことを思い出しながら「変化百体観音」というのをながめていた。すると後ろからノシノシと大日坊住職がやってきてあっけなく捕まってしまう。「ここにはもともともっと仏像があったんだけど全部燃やされたんです。京都の三十三間堂より多い四十四間堂っていうのがあったんだから。明治政府の岩倉とか大久保ってのは本当にひどいことしたんだから。湯殿山総本山だから徹底的に弾圧されて私の12代前なんか殺されたんだからね。慈恩寺に一時期隠れてたんだけど捕まってね。出羽三山も蜂子王子が開山したなんて明治になってからの嘘言ってるけど、弘法大師だからさあ。ホントは。蜂子王子なんて近江の人間なんだからさ。」とものすごい剣幕で捲し立てる。まるで昨日の出来事のようだ。そうして「加山勇三の母方は岩倉具視の子孫の出だからね。」などとどんどん話がずれて行く。ここ大日坊はとにかく逆境や弾圧をはねのける煮えたぎった反骨精神が満ちあふれていて大好きな所だ。修験道の中心地として、ミイラもあり、東北一古い仏像もある。しかもここは「官軍」と最後まで戦った庄内藩の地でもある。明治政府から見てもっとも怪し気な場所とされてきて、よほどひどい仕打ちをされてきたらしい。いまだに何ものかと激しく戦っているようだ。ミイラになった真如海上人を拝んでお堂を後にする。
ミイラを拝んだ数十分後、我々は羽黒の仔羊のカルパッチョ、四種類チーズのフジッリ、庄内米はえぬきのリゾット、ティラミスの月山の山くるみかけ等を予定通りたいらげいたく満足し、午後の鶴岡市内観光を楽しんだ。鶴岡は庄内藩の城下町。酒井家は徳川家の親戚筋でその創業以前から中核をにない、日本屈指の武士団「三河衆」を束ね、老中を何人も出してきた名門中の名門(老中や大老を輩出したのは弟筋の姫路藩酒井家の方)。戊辰戦争も直接的には庄内藩が薩摩藩邸を焼き討ちしたことから始まった。もっとも強固に戦った長岡藩牧野家、会津松平家、庄内酒井家というのはいずれも徳川家の身内中の身内である。外様の仙台、米沢、南部などに同じように戦えと言うのも無理な話であるかも知れない。賊軍として敗戦したこれら北の大地から、大変魅力的な人物が生まれてきている。スケールが大きく、進歩主義でリベラル、理想主義という特徴がある。庄内出身では石原莞爾などその典型であろう。幕末の清川八朗、最近では政変で沈没した加藤宏一など。この三人に限って言えば、みんな頭が良すぎて、目先の実利やしがらみから外れすぎ、理解されないで撃墜されてしまうところに共通項があるようだ。
話がずれたが、この鶴岡という街も本当に見どころが多い。例えば竜神を祀っていると言う善宝寺はなかなか立派で驚かされる。昔ながらの五重塔をはじめ巨大で質の高い仏像、如来像などが沢山揃っている。昔は日本海側が「裏」でななく「表」だったと言う人がいるのが理解できるほど立派だ。宮城県でこの規模で残っている寺といえば松島の瑞巌寺ぐらいである。しかし瑞巌寺には五重塔は無いし、巨大で派手な彫像群の記憶も無い。山形には他に羽黒山もあるし山寺立石寺もある。ところでこの善宝寺の池には「人面魚」がいる。はじめて行った時がちょうど評判の時期で、そこで撮られた写真が売店で沢山売られていた。池は神秘的で確かに何かいそうであたったが、あっけないほど簡単にその人面魚が目の前に現れ、夢でも見ているようだった。それは「人面」というよりも虎かライオンに似ていたので、「獅子面魚」と呼ぶ方がふさわしいように思った。
今回は300年以上の歴史を誇るという小さな菓子屋でハッカ味の氷り砂糖、狐顔のラクガン、焼酎が入った飴、「かつおぶし」というきな粉の菓子などを買いだめする。どれも本当にうまい。その後、致道物産館を見てまわる。鶴岡の名物はいろいろあって、絵ロウソク、いづめこ人形、あねさま人形、そして鶴岡土人形など。どれも上方からの北前舟の影響かどことなく京風の趣で女性的である。リバイバルした土人形が2000円前後の値段から売られていた。まっとうな値段だったがいかんせん質が悪く買う気が起きない。そうしているうちに以前1000円ほどでこれと同じタイプ(イラスト参)の明治期の土人形を骨董屋から買ったのを思い出し、むずむずとまた買いたくなる。骨董屋の場所を思い出しながら行ってみた。すると驚いたことに自分の記憶と同じ棚、同じ位置に、予想通りの土人形を発見する。値段も1000円。もうかれこれ十年近くたっているはずだが何も変わっていないのに喜んで購入。店の人は娘さんだろうか若い女性に変わっていて代替りしている節がある。この値札に限りそのままになっていたのだろう。かなりの値段に跳ね上がっていた土人形も多かった。以前鶴岡の別な骨董屋の主人が「土人形も今や博物館に入ったりしてるから、なかなか数が少なくなって、こんな小遣い賃(5000円だった)みたいな値段はもうつけられないんだけど」と愚痴っていたのを思い出す。この土人形は中に土玉が入っていてふるとからからと音が鳴る。だから「からから人形」とも言うと昔誰かに教わった。このタイプはそうとう量産されたのだろうが、無駄なものが無くこきみよい。表情もあっさりしていてかえって味わいがある。髪の毛だけは後付けでリアルになっている。色彩の朱色もなかなか美しい。リバイバルした良くない新品よりも本物の方がずうと安く買えたわけだが、土人形に限ってはこういうことがよくあるようだ。なにしろ今つくられる「伝統工芸品」は本当に高いので。
パリのアスパラガスとアフリカ仮面
パリの最初の印象は最悪なものだった。なにしろ3月の冷たい雨粒を数時間浴び続けながら、重い荷物とともにセーヌ河畔を右往左往するはめになったのだから。前日ローマからシャルルドゴール空港に到着し、予約していたゴンコート地区にある一泊ツイン3000円ほどの宿に辿り着いたのは夜もかなりふけてのことだった。だからその夜は近くのアラブ系の店でケバブを買った以外パリの街には出なかった。翌日は展覧会の搬入日で朝の9時に会場に集合ということになっていた。僕以外は全員日本から同一行動をとっていて数日前からパリで共同生活に入っていたはずだった。翌朝午前8時半ごろ地下鉄シャトレ駅から地上に出てくると大粒の雨と水浸しの敷石が視界を覆う。そんなに遠くない前方に、雨にけぶる大きなシルエットがそびえ立つ。あれがノートルダムか?と心踊らせながら川岸の方へ歩き出す。雨の粒が身体を突き刺すように冷たい。周囲の建物は全て巨大で整然としている。道幅も広い。ひさしも何も無い。水を染み込ませた薄暗い石ばかりがひろがりとりつくしまがない。ひたすら雨に打たれるばかりである。セーヌ河畔に面した「シテ・デザール」という会場は、その位置関係から言ってすぐ見つかるはずだったのだがなかなかその建物の入り口が見つからない。橋を頼りに芸術橋、ポン・ヌフ、両替橋、マリー橋、、と何度もいったり来たりするが見つからない。道ゆく人、アフリカ彫刻ギャラリーの人、最後は当のシテ・デザールの職員にまで聞いてもはっきりしなかった。下着までズブズブに濡れてしまい、昨日までのナポリやローマの暖かさとのあまりのギャップに身も心も凍り付いた。結局3時間近く遅れてみんなのひんしゅくをかう。まあ仙台駅前で待ち合わせしてるんじゃないわけだしこのくらいはしょうがないんじゃないかと自分は思うが。
この初日の印象が僕の「パリ観」を決定付けてしまった。19世紀に大改造したパリの街は真直ぐな太い道が放射状にのび、主な建築物もスタイルが統一され、ポイントごとにモニュメントが立ち、それらが遠くからキチット見える様に計算され配置されている。確かに合理的な整合性が強く感じられる。しかし実際の人間達はそのような合理性だけで生きているわけではない。だからどうしても冷たく退屈なところがある。間が抜けた感じとか過剰な片寄りとか神秘性とか意外性とかがあまり感じられない。視覚的に秩序立って見えるように、認識されるように全てが配置されているので、隠れるところ、混ざりあう感覚に乏しい(カフェなどに入るしかない)。ずぶ濡れの僕はさながら整然と配された水道管にさまよう異物、ゴミのような存在だ。パリの街はそういう疎外感が自ずと芽生える様にできている。先日まで歩き回ってきたイタリアの街とは大違いである。このように合理性というのは人間性とか現実性からかけ離れて行くものだ。
それとは別に、現在のパリは黒人やアラブ系の人々が大変多いのに驚かされた。ほとんど多国籍・無国籍地帯になりつつある。多くの黒人がワッサワッサと身体を動かし(明らかにフランス人とは動きそのものが異なる)、袖で鼻を啜り、大きな咳をし(季節がら風邪がはやっている?)、ところかまわず唾を吐く。地下鉄の切符を買うことなく機械の改札をがんがん飛び越えて行く。まるで跳び箱を飛ぶように。いつからパリがアメリカの様になったのか知らないが、彼らのかもし出す空気が充満している。友人達が滞在したベルビル地区もアラブ街で、生っ粋のパリ人は少ない。彼らの借りたキッチン付きの部屋はベトナム系のオーナーで、「為平」(ためへい?)というベトナム料理店が一階に入り、ベトナム人のたまり場になっていた。フランス料理、カフェも観光地やこのようなエリアにいるかぎり、なかなか満足の行く店に巡り合えなかった(あくまで安価なレベルでだが)。フランス通の同行者に言わせると「でも*****の店は凄いうまいよ」と答える。だから「うまい店がうまいのはあたりまえださ」と言い返す。普通の所、その辺の店がどこでもうまいイタリアやタイに比べれば、ばらつきがあり平均レベルが低下しているように思われる。苦労して高いフランス料理を食べるなら、その辺の安くて量の多いはずれの少ないアラブ料理やベトナム料理を食べた方が良い。聞くところによるとフランスは現在食文化を守るために様々な手を打ち始めているらしいがそうとうに空洞化現象が進んでいるように感じた。
そうはいってもやはりパリ。ところどころに「パリらしい」香りが漂っている。しかしこの「パリらしい」が何なのか実に曲者である。例えば地下鉄でこんな光景を眼にした。ある黒人青年が線路向こう側に立つ白人女性に「煙草をくれ!」と大きな声で要求する。見たところ見ず知らずの他人同士である。白人女性は軽い笑みを浮かべつつ首を振って断る。しかしなおも黒人青年は要求を繰り返す。女性は首を振りつつ「線路が間にあるから無理でしょう」とあきれ顔で断る。確かに二人の間には2車線以上の線路幅があって無理である。男は「こっちにめがけて投げればいい」と身ぶりをまじえて主張する。「とどくはずがない」となんども首を振る女。しかしプラットホームで待つ多くの人々の視線を気にしてか、ついに意を決して一本の煙草を投げる。煙草ははるか手前の線路にポトリと落ちる。黒人青年は線路に降りてその一本の煙草を拾い再び這い上がる。その顔はとてもうれしそうだった。「こいつらみんな阿呆だ」とその時思った。このかったるい茶番を理解するにはやはり「パリ」という特有の場が放つオーラを顧慮しなければ無理だろう。「この国は滅ぶ」と僕は直感する。
そういえば同行の友人の一人が「黒人に煙草くれって言われてさあ。いっしょに吸ったりしてさあ」と悦に入って語っていたのを思い出す。こういうのは「友愛の都パリ」の当然の「たしなみ」の一つらしい。
パリの広場、街角、地下鉄などのそこかしこでは様々な芸人達が活躍していた。まるで「絵に描いたような」売絵を観光客にみせつける「画家」をはじめ、オーケストラから抜け出てきたようなチェロ演奏あり、フォークギターあり、聖歌隊あり、東欧系民族音楽あり、手品あり、、。各々それなりにおもしろく展覧会や観光に忙しくなければのんびり見ていても良かった。「ここ」では許されるといった祝祭的な空気は確かに良いもので、ここで青春をおくった同行の友人にしてみればそれはそれでたまらないものであろう。しかしその彼らのことごとくが、その観衆と供にかもし出す「パリらしさ」が鼻についてしかたがなかった。みんながみんな「パリ」という幻影に浸り、それを共有し、演出し、そうして悦に入る。
こういう自分のひねくれた印象は、やはり初日に冷たい雨にあたりすぎたためかも知れないが、美術館めぐりをしてさらに強化されるところがあった。この時の旅はイタリアを経由していったので古代ローマ、エトルリア、ポンペイの遺跡、中世キリスト教モザイク、ロマネスク、ゴシック、ルネッサンス、マニエリスム、バロック、、、足を棒にし目から血が出るほど見てまわった。フランスに入り、クリニュー中世博物館、シャルトル、ロワール地方、そしてルーブル美術館をへて自ずとフランスの位置が明らかになる。ルーブルに行くといかにこの国の文化が劣っていたものだったかが良く解る。ここでフランス自身が生み出したものとして重要なものはようやく19世紀になってからのものだろう。やはりフランスで本当に重要なものはオルセー美術館の方である。だからオルセーの上階に上がった時の印象はいつまでもわすれられない。それまでの数週間、厳粛で威圧的、厳かで神秘的、圧倒的で豪華な作品群に対してきた自分の気負った気持ちが一気に和らいで行ったのだ。そこには明るく親密でナチュラルな空間が広がっていた。マネ、モネ、ピサロ、ルノワール、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンなどのタブローがならんでいる。例えばマネの「アスパラガス」の絵はかつてゴッホが「健康的だ」と言った率直さと輝きを失っていなかった。ただのアスパラされどアスパラである。圧倒的なバロック絵画やサロン絵画の大作の魅力とは違う何かが確かにそこにはあった。否定しようもない自らの血肉としてその何かを共有し感動することができる。この何かこそ我々が生きる、我々の時代の原点、近代精神そのものにちがいない。そこには現在のパリに漂う演出されたノスタルジックな「パリらしさ」はない。ただアスパラが、というかアスパラの「絵」が生き生きとあるだけである。これこそパリが生み出した真性の芸術。オルセーの上階こそパリでもっとも重要な場所だ。たとえパリの全てが消滅したとしてもここが残ればパリはパリでいられる。
アスパラや林檎が真性の芸術になったのに比べ、パリならではの民芸品、工芸品はあまりほめられたものではない。おそらくパリの良質な人芸品とは、民芸品、工芸品ではなく、真正のファインアートそのものであるからだろう(そうしてそのパリにおけるファインアートも戦後衰退し、ニューヨークやロンドン、ベルリン等に追いこされてしまった)。民芸、工芸がなくてアートしかないとすれば、現在のパリで我々が買えるもの、買うべきものはほとんど無いことになる。かつてのアート作品を美術館で見て、せいぜいそのレプリカを買うぐらいしかできない。
しかたがないのでクイニャンクールの「のみの市」に行く。ここの広さはルーブルをはるかに凌駕するほどで、高級店から屋台や露店売りまではばがあり、カフェやちょっとした広場、トイレなどがいくつもあって一つの街を構成している。アンティーク家具、人形、食器、服飾、土産小物、アクセサリー、ガラクタ等なんでもある。中でもフィギュアの店が沢山あることに驚いた。ローマ時代の兵隊、中世騎士、ナポレオン時代の騎馬兵など色々ある。日本のフィギュアはやはりプラモデルの延長上で盛んになっている観があるが、こっちのそれは木彫りなどからつながってくる長い伝統を感じることができた。宗教用品の店もあり、十字架キリスト像の小さな壁掛けが欲しくなったがやめた。他に古いガラス製の灰皿も欲しくなったが煙草を吸わないのでやめた。そうして、「やっぱりアフリカの仮面を買って帰ろうかな」と思った。
パリに来てアフリカの仮面を買うのも変な話だが、この手のものを売る店が大変多い。というかここもやはり黒人だらけなのである。仮面や木彫りを売る店だけでなく、マメを炒る屋台やチープなアクセサリーを並べる屋台、シャツやカバンを売る店等の多くも黒人系だ。日本で有名なサンコン氏のファミリーだと称する店まである。白い歯をこれみよがしにむき出して「サンコン」「サンコン」と我々日本人に呼び掛ける。仮面や木彫りはいわゆるアンティークからやや古いもの、新しいものなど色々ならんでいる。古いものは売りたくないらしく、新しいものから売りつけようとする。料金はやはり日本の半分から4分の1程度。同行の友人の一人は:::族の布を大金を叩いて購入する。博物館にあってもおかしくない代物だった。僕も何度か通いながら仮面5つと木彫り人形1つを購入する。長旅のため資金が底をついていて残念だ。どれもこれも本来の木材の材質、風味を生かし、基本的には黒々とした光沢のある部分、木材の色彩部、白色系のマットな塗部分などの限られた要素でできている。普通木材を生かすと木地の色の面積が増え、簡素で無彩色なものになりがちである(ニスをぬればテカテカに光る)。逆に木材にへたな彩色をすると材質感は消え、軽い感じになってしまう。アフリカの仮面はそのどれにも当てはまらず、材質感がありながら、同時に強烈なコントラスト、色彩、ハーモニーを感じさせる優れたものである。
それにしても美術館でアスパラガスの絵を観て、ノミの市でアフリカの仮面を買うというのは、変な取り合わせだがよくよく後で考えてみれば、いかにもパリらしい行為だったように思える。そもそもパリとはそういう場所であり、近代とはそういう時代だったのだから。