<仙台という所>

 <はじめに>

 僕は生まれてこのかた30数年仙台で暮らし続けている。別に好んでそうなったわけではない。むしろこのホームページでも再三触れているように仙台という所に多くの不満を持ち続けていて、悪口を言わせれば一晩中続けることも可能だ。だが結局、それも言ってみれば愛情の裏返しで、郷土意識の一つの典型なのかもしれない。

 そこでこの文章では一念発起し、日頃の自虐を排し、あえて仙台の良い所、何らかの意味のようなものを、自分なりに抽出してみたいと考えた。我慢して読んでいただければと思う。

                 

 <ケルンとしての仙台>

 旅先から帰ってきた時など、日頃見なれた街があらためて新鮮に見える時がある。先日岩手県から特急バスで帰ってきた時もそうだった。仙台市に入る直前で大雪による事故のため高速道路を下ろされた。一般道は渋滞で、乗客はみなイライラをつのらせる。その時運転手のアナウンスが流れた。高速道路側から仙台の街に入れなかったため、終点「仙台駅」の前に止まるはずだった「広瀬通り一番町」が遠回りになってしまう。それゆえ直接終点の「仙台駅」に行きたいという申し出であった。これは当然な意見だと思った。この大雪の夜に「広瀬通り一番町」へ「まわる」ということは仙台の渋滞の真ん中に自らはまり込んで行くことにほかならず、下手をするとさらに30分近いロスになるからだ(むしろ歩いた方がはるかに早い)。乗客達は運転手の意見に黙って耳を傾け、当然だと納得している様子に見受けられた。しばらくすると後ろの方で一人の青年が沈黙をやぶった。「でも広瀬通り一番町で降りたいんですけどー」と主張しはじめる。運転手は声を詰まらせ、他の全ての乗客は「このバカが」と心の中でつぶやいた。「じゃあ、、、広瀬通り一番町にまわります」と投げやりに運転手がアナウンスし、あと3分ぐらいのところに近づいていた仙台駅を横目にバスを右折させた。案の定渋滞が続き動きがとれない。おまけに並木道の木々にイルミネーションをつけるイベント「光のページェント」をやっていて、普段にもまして凄い人込みになっている。いつになったらつくのだろうかと脳に血が登る。夜の街を窓越しに眺めやれやれとため息を着く。

 ほどなくしてバスが晩翆通りに入り定禅寺通りとの交差点にさしかかった時だ。バスの窓一面に信じられないような光景が映し出された。定禅寺並木のイルミネーションが夜の雪に乱反射し荘厳に輝いていた。並木道の向こうが雪にかすんで見えないのでまるで無限にイルミネーションが続いているように感じられる。そうしてその下を、降りしきる大粒の雪と重なるように、大勢の人々がワッサワッサとうごめいてた。「美しい」と思った。「幻想的な」とはこういうことをいうのだろう。普段見なれたお洒落で静的で人工的な「光のページェント」とは違った、荘厳さと奥行き、そして活気があった。おそらく東北中から人が押し寄せているのだろう。この光景は無敵だ。神戸や東京のイルミネーションにはおそらく真似ができまい。切実で深遠な北国ならではの自然と一体になった祝祭的輝きだ。これは仙台という街がもちうる可能性の最良のものではないかと感じる。バスはほどなく交差点をすぎ、視界からその光景はかき消えてしまった。仙台駅に着きもう一度そのイルミネーションを観てみようとペデストリアンデッキにかけだし、今度は仙台駅側から青葉通りのイルミネーションを観てみる。しかしいつもの見なれたイルミネーションにすぎなかった。ここからでは電光掲示板の看板が目立ち過ぎる。さっきの光景は幻だったのか。あれは雪の日の事故とバカな青年のおかげで偶然観ることができた奇蹟だったのか。

 仙台という街は東北中から人や物、エネルギーが流れ込む所でありながら今もってその指針が定まっていないように思われる。つねに東京を意識し、ミニ東京化し、伊達政宗がローマ法皇に使節を送ったことにあやかり、ローマ市と姉妹都市になり、洋風の街灯や電話ボックスを商店街に配している。一方でその同じ商店街の入り口に大きなハリボテの鳥居が取り付けられていたりする。やることが全てあさはかで一貫性が無く分裂している。けちな仙台商人とよそから来た転勤族や知識人達に適当に牛耳られているのだ。

 前方後円墳の北限は仙台平野の北の大崎地方である。東北経営の中心が多賀城に置かれたように、古来からこの地は二つの文化、民族がぶつかりあう所だという点こそが重要である様に思う。すなわちエミシとヤマト、縄文と弥生、狩猟と稲作、東北と中央文化が、大自然と都市文化が交わる場所がこの「宮城野」なのであるととらえるべきだろう。ゆえに仙台の規範となるべきは東京やローマ、あるいはニューヨークなどではない。むしろローマ文明とゲルマンが交わる地、帝国の前線基地にしてその要だった都市−「ケルン」の様な位置にあると考えられる。古代のケルンがロ−マ人の入植と土着化、混血から生まれたように、宮城野にも関東、関西などから多くの入植が行われたことが考古学的にも裏ずけられている。北ユーラシア、北海道、東北、北米大陸という広大な領域に広がる北方モンゴロイド文化の最南端。大和朝廷−平安京文化、もしくは中国文明の最北端ないしは最東端。その両者の中間、橋渡しとしての重要な位置をになってきたという自覚が仙台に欲しい。あの日偶然目にした荘厳な雪のイルミネーションはまさにそういう仙台という都市にふさわしい光景だったように思う。

<島崎藤村と仙台と近代性>

 ここでまたもう一つ別な可能性を探って行こうと思う。

 仙台は普段雪が少ない。ここの冬はがらんとしていて風が強く寒いだけで寂し気である。凍てつく冬の早朝「シャン、シャン、シャン」とチェーンを鳴らしながら、整然とした並木道やビルの谷間を通る時、ここはハルピンかユジノサハリンスクかと思えてくることがある(行ったことはないけれども)。いわゆる「冬枯れ」という言葉が最もふさわしい。

 明治29年9月に島崎藤村が東北学院(僕の母校であり職場でもある)の作文教師として仙台に赴任してきた。翌年7月に東京に戻る間の短い期間ではあったけれども、藤村にとって極めて決定的な時間をおくった。この時期、日本近代詩の記念碑的出発点となる『若菜集』を書き、まとめている。仙台に来る前の藤村は生活でも、仕事でも、人間関係でもどん底の状態にいきづまり、いわば「都落ち」同然で白河の関を越えてきたらしい。

「あの時は寂しい思いで東北の空へ向いました。着物なぞも母の丹精で見苦しくない程度に洗い張したもので間に合せ、教師としての袴は古着屋から買って来たもので間に合せました。荷物といっても柳行李一つで、それも自分があつめた本を大事にいれて行くぐらいなものでした。上野から汽車で出かけて、雨の深い白河あたりを車窓から見て行ったときの自分の気持は、未だに胸に浮んで来ます。そんなに寂しい旅でしたけれども、あの仙台へついてからというものは、自分の一生の夜明けがそこではじまって来たような心持を味いました」。

 「夜明け」とは『夜明け前』の作者として意味深長である。この藤村の言葉をよく高校時代に先生から誇らし気に聞かされたものであるが、今になっていろいろと考えさせられるところがある。

 若菜集の中の「草枕」の一節に次のような部分がある。

心の宿の宮城野よ
乱れて熱き吾身には
日影も薄く草枯れて
荒れたる野こそうれしけれ
 
ひとりさみしき吾耳は
吹く北風を琴と聴き
悲しみ深き吾目には
色彩なき石も花と見き
 
あゝ孤独の悲痛を
味ひ知れる人ならで
誰にかたらん冬の日の
かくもわびしき野のけしき

 最初の4行は石碑に刻まれ八木山におかれていたらしい。八木山はかつて伊達家の狩猟場。仙台の中心部でもっとも見晴しが良く「宮城野」を一望できる場所である。僕も25歳までずうと実家のある八木山で暮らし、毎日宮城野と大平洋を眺めて成長した。そういう自分をしてこの詩句を読むと、まさに仙台そのものであるように感じられる。

 いわゆる風光明美な魅力をうたう詩であったならば仙台−宮城野である必要はなく、また「近代詩」の先駆にはならなかった。誤解を覚悟で簡単にいってしまえば、どん底の作者がどうしようもないどん底の風景に触れ、底の底に辿り着き、自覚し、癒される。さらにその底から若菜が萌え出るように春の到来を予感するといった案配である。

 断っておくがここで言う「どん底」の風景とは、単純に「最果て」とか「田舎」とか「僻地」とかという意味では無い。そういう負のイメージすら無いということであり、したがってそういうものに特有の郷愁とか反逆性とか野性とか土俗的なニュアンスもここでは当てはまらない。なかなか説明は難しいがそれが仙台という場所の奇妙なところであるように思われる。確かにここの風物、自然、冬景色というものはどこかしら寒々としている。いわゆる情緒とか人情とか旅情とか風情とかをかきたてられない。演歌のもっとも似合わない街といわれるくらいだ。「日影も薄く草枯れて 」、「色彩なき石」などまさに仙台の普通の風景を象徴しているように思う。

 重要なのはどん底の最後の極限で臨界点を突破し一気に逆噴射するという構造である。癒されると同時に全面否定が全面肯定に反転して行く。「草枕」という題は二重の含みがある。古代以来の風雅の伝統である様々な「草枕」(「宮城野」もその一つ)。この草枕の乗り越えがここで試みられている。情緒とか旅情とかそういった伝統としての草枕・宮城野ではなくて、今、目にしているリアルな冬枯れの荒れ野こそが心にしみるといっているのだ。「道なき吾」である作者が「道なき野」を「慕う」と別なところでうたっているように、伝統も価値も意味も失った裸の自分が、同じく何もない荒れ野に共感しているのである。何もないということは何も失うものがないということであり、何もないということにおいて、あらゆる無名の事物、草花、石、人間、自分自身の存在を再発見するのである。そうして「何か」とはこれから失うものではなく、つねに、これから新しく生み出されうる「何か」として未来に向けて現出されるものとなっていく。若菜、春、夜明けの延長線上に「近代性」が生成して行く。いわば絶対零度としての仙台が、藤村の近代性の母体となった。その藤村を母体として日本の近代詩が「夜明け」を迎えた。

 このような構造は誤解を恐れずにいえばヨーロッパ近代の様々なディテールを想起させずにはおかない。例えばフローベルの「ボヴァリー夫人」でのエンマの嘆き。ルノワールはフローベルがよくあんな退屈な小説が書けたものだと皮肉ったのであるが、結果的にルノワール自身、パターン化した観念的な裸婦を量産しもっとも退屈な後半生をおくった様に思える。神の国や神話世界や美の王国、宮廷世界、社交界からの追放。そういった近代という時代は、やるせない一地方都市の現実、どこにでもいる女のどこにでもある嘆き、どこにでもある浜辺、どこにでもある積み藁からはじまったのである(それはゾラやドーミエやクールベの様にことさら人間社会の「負」−貧困、わい雑さ、虐げられた労働者達などを強調し対象化したり、あるいはミレーの様に逆にそれを理念化してしまうのともちょっと違うような気がする)。追放と絶望から、ある臨界点を越えた時、実際に目の前に生きている人間を、実際に目にしている光の中で描くと言ったマネの態度、あるいは小鳥のように描くと言ったモネの態度へ一気に反転して行く。その反転の母体となった底の底にはエンマ・ボヴァリーが生きたノルマンディーの一地方都市があり、誤解を恐れずに言えば新興ブルジョワジーやマネが好んだ「色彩の女王」であるところの「黒」があった。この絶対零度としての「黒」を母体として印象派の現象世界の全面肯定。色彩の発見が実現されたのである。

 そうして実は地方都市仙台ほどこの「黒」に縁の深いところはないのである。後述したい。

<仙台空襲>

 先日妻の職場に、戦前の仙台一番町で郷土玩具の同人誌を作っていたらしい「青野フミオ」という人物に関する問い合わせがあった。私事で恐縮だが、僕の性である青野性はもともと仙台一番町の柳町に多く、それ以外はほとんど皆無である。まだ一件だけ柳町に残っている父の兄に連絡してたずねたところ「ああーフミチャンねー」という感じで、確かに昔そういう人物がいたらしい。僕自身子供のころ「フミチャン」と呼ばれて育っているので気持ちが悪い。過去に同じような趣味を持った親戚がおなじ「フミチャン」と呼ばれて存在していたとは。血はあらそえぬもの。まるで自分がその生まれ変わりでもあるかのようだ。

 柳町は立町、大町、荒町、肴町、南町などとともに伊達家にくっついて米沢、岩出山と移動してきた御譜代町だ。一方で伊達に従属させられたもともとの千代−仙台の主人である国分家関係者は現在の国分町に集まっていたらしい。戦前の柳町は一種の職人街で、青野性はブリキ職人として4、5件いた。ブリキは火を扱うので一番町の消防隊にも入っていた。「仙台の職人で火消し」というのが僕の先祖達で、仙台空襲がなければ自分もその流れに沿う人生を歩んだ可能性が高い。こういった事実を知ったのも最近のことで、実はそれぐらい仙台空襲での破壊と断絶が凄かったということかも知れない。

 昭和20年7月10日の仙台大空襲は多くの人間の命と人生(その子孫の人生までも)変えてしまった。仙台中心部はほとんど焼け野原にされた。柳町も父の実家も全て無くなり、一家離散に追い込まれた。町内の防空壕に入った人は多くが焼け死んだそうで、父は幸い御霊屋から大年寺山の方へ逃げて助かったらしい。その後まだ子供だった父は遠縁の農家に預けられ、ドジョウをとって売り歩いていたという。仙台市民は新石器時代の生活に追い込まれたわけだ。両親は空襲をまるで天災の様にしか語らないのでピンとこなかったのだが、共同体と家と家庭と家業を一夜のうちに根こそぎにされたのはなかなか大きなことだったと思う。僕自身とても平凡な家庭に平凡に育ってきたと信じ込まされてきたのだが、実は多くの隠蔽と忘却が隠されていて、その歪みがまわりまわってその子供の代まで波及していたのに今頃になって気付きはじめている。どこにでもある新興住宅街で無根拠に生まれ育ったようでありながら、その希求され装おわれた平凡さや無根拠性自体において、しっかりと仙台という街や空襲、一家離散という傷跡にからめとられていたのかもしれない。今は逆に、失われた仙台職人の末裔としての問題設定を自分なりに持つことの方が何らかの意義を生じさせてくれるようにも感じる。

 戦後再び仙台の街は復興をはたしたが、二度と戻らなかったものの方が多い。伊達62万石の城下町的風情もさることながらその居城である青葉城(明治の段階で既に本丸は壊されていたのだが、全国で江戸城に次いで2番目に広い敷地面積を誇っていた)、大手門(安土桃山様式の豪華なものだったそうだ)、伊達家の霊廟である瑞鳳殿をはじめ、多くの国宝級の文化遺産が一度に消滅している。島崎藤村が訪れた時代以上に戦後の仙台は無味乾燥で何も無い街になっている。それなのに昨今の仙台はジャズフェスティバル(当初聞いた話の一つでは占領軍時代の流行にあやかったという)などに精を出し情けなくて涙も出ない。

<仙台・黒の街>

 そういう仙台で、空襲を逃れることができた最高級な宝が一つだけある。仙台藩総鎮守・大崎八幡宮だ。この建築物は仙台で唯一の国宝建築物であるばかりか、現存する我が国最古の純然な安土桃山式建築物とされている。僕も学生のころからスケッチブック片手に境内をブラからして親しんできた。由来は坂上田村磨呂か源義家(八幡太郎義家)のエミシ討伐の先勝祈願にあるらしい。その後仙台平野に来た大崎氏が管理し、続いてやってきた伊達氏が米沢以来の成島八幡と合わせて仙台総鎮守として現在の仙台市中心部に移転させたと言うことだ。「八幡神」は言ってみれば武士、とりわけ源氏の守護神で、東北にとってみればつねに仇である。アテルイと戦った坂上田村磨呂、阿部家や清原家と戦った源義家(八幡太郎義家)、平泉と戦った源頼朝という3人に限らず、大崎も葛西も伊達も南部も佐竹も芦名みんなもとはと言えば侵略してきた関東武士団の末裔である。東北侵略の軍功として「領地」を手にしてきたわけで、侵略者が新手の侵略者に侵略されるといったことがくりかえされてきたのが東北の歴史だ。その中で出羽地方の秋田家やその流れを組む三春の田村家のみが阿部、安東家の末裔としてエミシ以来の土着の血筋を残している。伊達政宗はこの田村家から嫁をもらっている(愛姫)。宿敵相馬を牽制するためだけでなく、土着の名門と結ばれ奥州の覇者たろうとしたことがうかがわれる。平泉政権の祖である藤原清ひらも母方が阿部家だった。武田信玄も土着の諏訪家の娘(こい姫)を娶っている。外来の侵略者達もこのようにして長い年月の間少しづつ土着化しその土地に根を張って力を貯えて行った。

 平泉政権が京都文化の模倣をしたにとどまらず、それ以上の豪華さと徹底さで時に京都を凌駕し、場合によってはさらにその先を行く独自な地平を切り開くものだったらしいことが最近の研究でわかってきている(高橋富雄氏によれば古代以来の天皇政権に対してはじめて分離独立できた政権で、平家や源氏(鎌倉)の武家政権にはるかに先んじ、その見本となったと解釈している)。同様に伊達政宗もまた、当時絶頂を極めていた安土桃山様式を模倣したに止まらなかった。

 先日大崎八幡宮が解体修理を終え創建当時の状態が蘇り3年ぶりに一般公開された。久しぶりなので見に行ったらとても驚かされた。「こうだったのか!」「まさに安土桃山だ」「まさに伊達だ」とひどく納得させられる思いをした。社殿の大部分を覆う黒い色はただの黒ではなくて、漆塗でぎらぎらと輝いていた。土台の礎石や小石もただの石ころではなくて、真っ白い特殊な石が使われていた。おかげで落ち着いた趣の屋根、極彩色の屋根裏と支える梁部、黒漆の壁面と柱、純白の土台と各々が極限的な対比を造り出し、強烈な香気を放っていた(一方で外壁の壁画のいくつかはすっかり台無しにされていた。どこかの若い修復師の仕事なのだろうが顔の表情が全然変わっていてダメになっていて驚いた。こういうのは修復ではなく破壊である)。建造物そのものが一つの宝物の様に完結して隙がない。この美しさのどこからどこまでがいわゆる安土桃山式に由来し、どこからが伊達政宗のオリジナルなのかそのへんが良くわからない。そもそも安土桃山建築の重要な遺産のほとんどがすでに失われていて解らないのでどうしようもない。ただいえることはこの様な強烈で粋な建造物は他に観たことがないと言うことだ。日光東照宮にしても徳川時代のものであるし、確かに凄いもので豪華であるけれども、趣味や美意識の観点から観るに、大崎八幡の方が優れていると言うほかない。日光が安土桃山の豪華さ、過剰さの最終局面だとすれば、大崎八幡の方は安土桃山の内的純化、洗練化とも言えるような気がする。それは艶やかで生き生きとしつつも日光のようなごてごてと膨張したものではない。あくまで仏教や貴族的美意識と異なる、戦国を戦い抜いた武士としての強靱な精神性がつややかに輝いている(政宗が再生させた松島・瑞岸寺の「黒っぽい」デザインにもそれが見える)。これは誇りにして良いのではないか。

 伊達政宗ゆかりの遺品にはこれと同様な趣味が感じられる。例えば仙台市博物館にある政宗の鎧などがその良い例である。「黒漆五枚胴具足」(重要文化財)と呼ばれるこの品はスターウオーズのダースベーダ−のデザインに影響を与えたことでも知られる。全体がやはり黒漆なのだがなぜか地味には見えない。強烈でとてもエレガントなのだ。これは全体のフォルムの美しさにも関係しているのだろう。

  そのような伊達政宗個人に関係深い品以外にも同質な「黒」がある。ちょっと意外な感じだが「仙台張り子」の黒がそれだ。仙台城下の武士の内職から生まれたと言うのでやはり伊達家と関係が深い。東京にある民芸品の老舗・備後屋などで、日本中の張り子を一同に観てまわると、仙台張り子の黒色が異彩を放っているのに感銘する(冒頭イラスト参)。とりわけ全面黒色の鬼の面や馬の張り子の鮮やかさは目を見張るものがある。ここでも黒は渋みやクスミとしてではなく、ギラギラと輝いていて、生命力をほとばしらせている。黒いものだけでなく仙台張り子の特徴は、京風の可憐さとか、江戸の庶民性、粋、かるみとか、地方的な素朴さ、郷愁、土着性といった趣のいずれとも異なるものだ。それは強力で艶やか、のびやかで洗練の極みに達するものである。中央の模倣、中央に対する地方、いずれとも異なるもので、ここにもうひとつ別種な文化的核があったことを物語る。ここでもこの美意識を十分誇りにして良いはずだ。

 このように仙台の底流には伊達政宗以来の「黒の美意識」が流れているように感じる。それは言ってみれば安土桃山を受け継ぎ、さらに煮詰めて磨きをかけたようなものだ。それを一つの独自な進化と言っても良い。その後の徳川幕府や日光には受け継がれづ、ついに時代から忘れ去れれてしまった美意識なのかもしれない。結局それは一つの様式、美意識として認識されることすら無かった。戦国を戦い抜いた武将のうちもっとも若く、かつ余力を残していた武将がほかならぬ伊達政宗であり、秀吉や前田利家や家康の様に桃山時代を晩年として生きたわけではなかったし、官僚化していくその後の新世代とも異なるものだったはずだ。安土桃山の気風を官僚的に縛り付け凍結してしまうのではなく、むしろその先のあるべき世界へ一歩踏み出そうとするものだったのではないか。おそらく徳川政権の中央集権化、キリスト教弾圧、鎖国制度などの反動的圧力がなければ、もう少しはっきりとした何らかの成果に花開いて行ったに違いない。安土桃山の威風堂々とした気概を煮詰めて行ったような伊達の黒い美学は、その後の徳川時代に形成されて行く「武士道」・サムライスピリットに比べ、多分に抑揚があり香り深くスケールが大きいように思える。このような美意識は今日の小市民化した仙台市民がその価値を評価し、共有できるようなものでもない。ほとんど狂っているとしか思えない現在の仙台七夕の美観、あるいはベガルタ仙台、あるいは東北楽天ゴールデンイーグルス等のセンスは、その正宗的・仙台的な神髄のまさに対極に位置すると言える。本当に残念なことだ。

 <マネの黒、近代の黒>

 ここで先の議論に再び戻ってみたい。

 一口に黒と言ってもいろいろな黒がある。スペインのゴヤの黒は甘い香りとともにデーモニッシュな戦慄が流れている。ベラスケスの黒(べラスケスではむしろ灰色に注目したいが)はゴヤのものよりもずうと伶俐でクールであるが、やはり同質の魔性が流れているように感じられる。一方オランダのハルスの黒はスペイン的な冷酷さ悪魔性がなくて、よほどマネの黒に近いように思われる。オランダはいってみれば世界でも最初期の市民国家であり、商業立国であったから、近代ブルジョワの勃興した19世紀のパリと同質な背景を持っていると言えよう。そもそもこの新興勢力ブルジョワジーは、旧勢力である貴族階級の富の誇自、虚飾、蕩尽といった美意識に鋭く逆行する存在として台頭してきている。そうしてそのまったく反対の、無駄のない、合理的、現実的、実利的、禁欲的倫理観、美意識を自負する(反対と言っても例えば修道院的な脱俗的禁欲ではないところが重要である)。その象徴の一つが彼らの着用する装飾模様の無いスーツであり、その基調色の黒だったとされる。今日世界を席巻するスーツ姿、さらに資本主義経済の発端がここにある。

 だからマネの黒はスペインのそれに比べ、神秘的ではないが、エレガントである。それは象徴的なふくみ、過剰な飾りを排除する。さらに「限定されたもの」としての人間存在、自由と競争と孤独に耐え、死すべきものとしての覚悟と誇りを合わせ持つ。そこに一種特有なリリシズムが流れ出す。マネの黒はまさにそういう黒だ。ストイックだが芳醇なダンディズムの極地。人間を神々やミューズに変えるのではなくて、あくまでもそこに生きる人間そのものとして引き立てる色彩だ。

 仙台伊達の黒にも同質のダンディズムが流れている。貴族の大和絵、武士の山水を融合するように安土桃山の狩野派が登場した。そうしてその色彩と非色彩の融合の果てに、安土桃山の果てに、仙台伊達の黒が煮詰められて行ったのではないか。仙台の黒は、山水の黒ではない。色彩−極限の色彩としての黒である。秀吉の黄金、利休のわび茶。そのどちらでもない第三の極限値としての黒。絶対的な富と権勢、それに対する脱俗的否定。そのどちらでもない第三の道。近代ブルジョワのもっとも良質な部分とこの仙台の黒は確かにつながっているようだ。その黒はしかも「若菜」の様に若々しい。

 しかし「夜明け」としての近代がいつしか殖産興業的日本近代に流れ落ち、ブルジョワの黒が資本主義的功利性を世界に蔓延させ、安土桃山から萌出した伊達の黒は徳川時代から締め出しをくらう。そうしてついに貧弱な「近代」と「現代」が生まれ、不毛な仙台という町が形成された。第三の道の母体としての「わびしき」「色彩なき」宮城野。エレガントな伊達の黒・マネの黒。今我々は再びその原点に立ち戻り、本来あったであろう可能性をもう一度しっかりとつかみなおさなくてはならない様に思う。