マンダレーの操り人形
はじめに
ミャンマーの操り人形の品質は世界一だ、とかねがね自分は考えている。この人形達にはじめて出会ったのはタイのチャトチャック市場をさまよい歩いている時だった。今まで見たことのない精密な人形がところせましと山積みされている店に突如でくわしたのだ。その手足はもちろん、目玉、口、指の間接の一つ一つが動くものもあり、日本の江戸期の細工人形の精密さを彷佛とさせるものがあった。いわば「お土産」とか「玩具」といったレベルには当てはまらない本格的な造形物で、そういったものが無造作に低価格で山積みされていたのである。なんの知識もなくそれに直面した自分はタイというのはなかなか奥が深い所だと感激した。ほどなくしてそれらがタイではなく、となりのミャンマーで作られたものだと解ってきた。操り人形に限らず、その時買った質の高い品々、例えば刺繍壁飾りなども全てミャンマー産だったと後で気付く。タイとミャンマーは隣合っていながらなんとかけ離れていることかとつくづく驚かされた。近代化し、資本主義化したタイや日本の常識からすると、あきらかに物のつくり自体からしてまったく別物なのが見て取れる。揺るぎない伝統様式を持ち、しっかりと隅々まで心がこもった、それでいて「工芸的」な媚びはみじんもないその造形。なにしろ密度と空気感が違う。その後いろいろ類推するにつけ、ミャンマーという国は、現在なお「もの」が「つくれる」ほとんど唯一の国だという認識に到った。最貧国の一つに数えられ、物が不足し、日本のがらくた中古品や中国の安物量産品があふれるその国をして、「ものがつくれる」というのも皮肉なものである。そんなわけで少しづつミャンマーへの思いが募って行った。タイ人が「ブーマー」とちょっと嫌そうに発音するビルマ。世界中から孤立し、軍人達が幅をきかせ、ノーベル平和賞受賞者を軟禁する国。それはどんなところなのだろう?
1999年にはじめてミャンマーを訪れたのだが、残念ながら伝統文化の発信地・古都マンダレーには行けなかった。それで五年後の今回、マンダレーをふくむ上ミャンマーを重点的にまわる日程で再訪することにした。ビルマ族由来の人芸品のルーツはほとんどこの地域に端を発し、今なお沢山の工房が点在している所である。
憧れの地マンダレーはビルマ最後の王朝があったところで、バガン朝以来のビルマ族の栄光と遺産を受け継いできた街である。しかし最近、国状により中国資本と中国人と中国製品が怒濤のごとく流れ込んで、ミャンマーらしさが薄れ、とても騒々しい場所に変貌しているとして評判が悪いようだ。確かに街に入った最初の印象はあまり良いものではなかった。ちぐはぐな町並み、騒々しく、ホコリっぽく、殺風景で雑然とした雰囲気。旅行者に近づいてくる人々も他の地域に比べ相当しつこく、俗化しているように感じられた。
うわさのとおり道はだらっと広く、どこまでも平に広がり、町並みは碁盤の目上に整然とし、均質で、一度迷ったら最後どこにいるのか解らなくなる。そしてヤンゴンにはなかった人力車がいまなお主力として活躍している。インドネシアのジョグジャカルタを思い出したが、ここにはクーラーのかかったデパートもファーストフード店もタクシーもない。電燈も少なく夜は真っ暗になる。しかししばらくしてなれてくると、近代化した都市とは違った本来のアジア的都市の趣を多少とも感じる様になる。迫力あるセジョーマーケットや路上市場の活気、壮大な王宮、いくつもの美しい寺院。この街はヤンゴンやクアラルンプールよりもはるかに貧しく、高い鉄筋建造物も少ないが、本来の意味において正真正銘の「都会」なのだ。
マンダレーでは意外にも食べ物に恵まれ、気に入った店がいくつもできた。ビルマ料理は一部にうまいと評する者もいるが、基本的にあまり評判が良くない。自分もこれはというものになかなかめぐりあうことができなかった。それなりにうまいのだが、いかんせんインドほどではないにしろ様々な意味でバリエーションの幅がせまいように感じていた。隣のタイに比べれば格段に見劣りしてしまう。しかしそれはそれとして、ここマンダレ−で食べた川魚や鳥のカレーや一緒についてくる様々な付け合わせ料理のことごとくが実にうまかった。この街に来てようやくビルマ料理のうまさが解ってきた。ぼったりともられたビルマ産の米に、ここの料理につきもののぬったりとしてまろやかな(?)油分が良く馴染み、この乾燥した過酷な大地にあってはしばし救われるような気分を味わえる。
人形劇を観る
その夜も暗い夜道を汗をながしつつ夕食に向かう。今夜はどの店にしようか考える。「:::はうまいけど蚊が沢山いるし、、、:::は清潔だけど冷えたビールがないし、、、」などと思案する。食後はきまって有名な「ナイロンコールドドリンク」というカフェでデザートを食べる。この店の品揃えや質ははこの地にあってなぜか数段階ぬきんでている。どれも20〜30円前後で食べられとてもうまい。その夜はとても混んでいたので、道路に突き出たはじっこのテーブルに腰掛けて、「タピオカ入りミルクアイス」をたのむ。夜の電燈や樹液に虫達が集まるように、仕事を終えた現地人や歩き疲れた旅行者がやってきて、それをめあてに乞食達もよってくる。自分のテーブルにも赤ん坊を抱いた女が張り付いてくる。小銭をやろうとポケットに手を入れるがこまかいのがないので首を振る。それでも乞食女はじーとたたずみ続ける。それを無視して汗を流しつつタピオカアイスをほおばる。乞食の女と赤ん坊を横目に一さじ一さじタピオカを口に運ぶのもなかなかおつなものである。本当にうまい。「今日のもうまかったあ」と満足し支払いをすませ、金がくずれるのを辛抱強く待っていた乞食女に釣り銭を渡し暗い夜道を歩き出す。
これから人形のショーを見に行こうと思い立ち、王宮のはしっこまで行ってくれる人力車を探すことにした。誰にしようか考えながらうろうろする。停車している人力車の上で本を読んでいる少年を見つけ、即座に頼むことにきめる。暗い夜道の街灯をたよりにして人力車の運転手が読書をしているなどというのは、さすがはミャンマーである。とても澄んだ目をした年端も行かぬ少年で、満面に笑みを浮かべてくれた。まだこの仕事をはじめてまがないようでとても初々しい。まわりの車夫達にはやされ、はにかんでいた。「ガーデン・ヴィラ・シアター」と行き先を告げ、「いくらか?」と問うとしばらく間があって「1500チャット」と少年が答えた。目が真剣で表情が少々こわばっている。いっぱしの人力車マンとして少々背伸びをしているような感じがした。少年の様子から判断するに相場が1000で500が上乗せ分だと判断したが、少年の意気込みとその前途に免じて二つ返事で承諾した。500を上乗せしているからか少年は終始上機嫌だった。
マンダレ−の人力車は、かならずといっていいほどに、帰り道はどうするか?ホテルはどこに宿泊しているのか?明日はどうするか?明後日はどうするのか?とたてつづけに質問してくる。目的地につくまでひたすらつっつかれ続け辟易するので、「明日は飛行機でバガンに行く」と嘘を言って黙らせることにしていた。それでも「明日飛行場に行くタクシーを紹介したい」とか、「バガンではどのホテルに宿泊するつもりなのか?」などとどこまでもしつこく食らい付いてくる者もいる。このしつこさはインドに近いが、目的地、料金などの約束はしっかり守ってくれる。この夜乗った少年も同様の質問をなげかけてきたので、帰り道だけお願いして、「今夜が最後のマンダレーだ」と嘘をついた。少年は残念そうにあきらめて、日本語の勉強に切り替えはじめた。向学心というか向上心の強い子である。ビルマ語と英語と日本語をチャンポンに簡単な挨拶をレッスンしてやるはめになる。ペダルをこぎつつ「アリガトゴザイマス」「コンニチワ」「オハヨウゴザイマス」「ドコニイキマスカ」を熱心に暗唱した。この少年はこれからどうなっていくのだろうか。人力車の運転手などというのは若いうちは元気で威勢がよく、日によっては手っ取り早く稼げもするだろうが、いずれは老いて、消耗し、ぼろ雑巾のようにみじめになってしまう。
人形劇の小劇場ガーデン・ヴィラ・シアターに到着しチケットを購入。自由に席を選べるが前列は全てうまっていた。まだ時間があったので隣の人形ショップを物色していると、劇団員の青年達に声をかけられる。意外なことにみんな日本語がうまい。この劇団は世界中で公演しているらしく、日本にも来たことがあり、今年も予定があるとかないとかいっていた。彼らは日本ではじめて海や雪を見たそうだ。乾いて平たい大地が広がる上ミャンマーの風土からすると、山あり谷あり海ありの日本の景色は珍しかったらしい。その後昨日見てきたインワの木造建築と日本の木造建築の比較に話がおよぶ。「やはり奈良のお寺の大きさにはかないません」と彼らが言うので、「東大寺の柱は複数の木の合成だから、インワのバガヤー僧院の柱の方が太かった」と答え、彼らを喜ばせる。バカン遺跡のレンガ建築ばかりが印象深いが、実はミャンマーには脈々と大規模な木造構築物の系譜があるようだ。マンダレーヒルの大仏達も一本の木から造られているらしいし、シェーナンドー寺院に代表される精密な木彫、レリーフも受け継がれてきた。惜しいことにそれらは運良く今日まで残ったわずかな例にすぎない。多くは厳しい風土ゆえ既に失われてしまった。、、などとひさしぶりに「文化的?」な会話に夢中になっているとパペットショーが始まる時刻になっている。慌てて席につく。
自分は5年前ヤンゴンとバガンでこのビルマ人形劇を観ている。特にバガンで観た時は客が他に無くて、ルードビッヒ王さながら全てを一人で独占することができた。今回はいよいよ本場マンダレーの、しかもミャンマー随一と言われる名人率いる劇団だけに期待で胸膨らむ。
ショーは実にすばらしいものだった。演奏も伝統楽器の生演奏で、部屋の規模といい、照明といいベストにちかいものだ。人形使いの掛け声、人形の動き、女性の歌声等申し分ない。特に日本の文楽を彷佛とさせる演出が光る。人形と生身の女性の共演はすごかった。「本物」の人形は糸で人形使いと結ばれ、「にせもの」の人形−生身の人間の方は見えない糸で人形使いと結ばれていると言う設定だ。合計4人(人間3人と人形一つ)の共演である。この不思議な逆転した掛け合いは大変官能的なものだった。まさに「今、ここに、ビルマがある!」という実感がこみ上げてきた。その後70歳を超える老名人の独演や、合計8人(4人の人形使いと4つの人形による)掛け合い劇(写真)などありどれもすばらしかった。背景には実際にこの劇場のすぐ脇にあるマンダレー王宮の門の絵などが描かれていて、まさにこれが正真正銘本家本元マンダレーにおけるマンダレーの文化なのだという臨場感におそわれる(ただしビルマ人形劇を観ていつも思うのだが、これらの背景の絵が下手すぎるのと色が悪すぎて演じる人形を殺してしまうような気がして、ちょちょちょっと自分が描いてやりたい気にさせられるのだが、、)。最後は老名人自ら客一人一人に、各々の母国語で挨拶し握手してくれる。このような名人ともなると、手付きや間接が進化していて全身これパペット人形の様で、特殊なオーラを発しているから不思議である。翌日も観に行き、同じメニューを堪能し、劇団の青年達と再会を約束しそこをあとにした。
ビルマの操り人形はインワ時代の宮廷で興隆し極められ、民衆にも広がっていたが、イギリスがこの国を植民地支配するにおよびこれを禁じたためすっかり衰えてしまったらしい。今日では主に観光客相手だが、かつての担い手達が中心になって復興しようとしているようだ。こんなに面白いものが現在の民衆の生活から消えてしまったのは本当に残念だ。題材はラマーヤナなどのインド系の神話や仏教系の説話、土着の民話等が混じりあっているらしい。インドネシアのワヤン・クリが単なる遊びや気晴らしでないように、ビルマの操り人形もビルマ王朝、しいてはこの国の芸能文化を代表する芸術である。人形劇が人間の動きを模倣しているのではなく、逆に生身の人間の踊りに、人形の奇妙な動きが取り入れられたりしてきているというのでその影響はそうとう大きいようだ。
人形が人間の様に、人間が人形の様に、死するものが生くるものの様に、生き物が死するものの様に、あるいは男が女に、女が男に、、、このような逆転した不可思議な官能美がここには感じられる。それはおそらく日常を超えたあの世的な聖域へ、つかのまの間近づくための何かなのかもしれない。誤解を恐れずに言えばミャンマー人の好きな「タナカ」という、顔にクリーム色の木の液体を塗る習俗も、一種の死化粧を連想することがある。地肌の色と薄い黄ばんだ白い粉が重層してなにやら不思議な美しさがある(それは例えば全身を白く塗りたくる日本の舞踏家の様な下品なものではない)。まるで本来外側に発散してくるはずのギトギトした健全で動物的な生命力を、人為的にあるいは植物的に抑制し内側に抱え込もうとでもしているような観がある。抱え込みつつそのせめぎ合いから一種奇妙な、というか人為的−文化的に変換された、ある種精妙な艶かしさをにじみ出そうとする。
ところでこのパペット人形の品質であるが、ミャンマーに5年ぶりに再訪してみて、その質が低下してきているのを確認しひどくショックを受けた。例えばバリ島の様にアンティーク調に、くすんだ上薬が塗られていたりしているものが多くなった。新製品の割り合いが高い生産の中心地マンダレーが一番ひどかった。最近は日本のエスニックショップでもちらほら出回るようになっているので、「商品化」が進んだ結果なのだろう。また早いうちに良品をキープしにミャンマーへ行かなければと決意新たにする今日この頃である。
岩手・花巻人形
はじめに
仙台の北は田尻、瀬峰、若柳、金成などとのどかで単調な景色が続く。岡本太郎は岩手県論の冒頭で、この広々としたのどかな景観に驚き、この景色を「岩手・馬」文化の最初のキーワードとしているくだりがある。前後関係から言って、宮城県北部について述べたのものであって、けっして岩手県ではなかった様に思う。どうでもいいようだがこの違いはとても大きい。一関をすぎ平泉あたりから周囲の景色、山のかたち、空気、地名の響き等が変わってくる。ドン臭い単調さからどこか清々しい風雅の香りが漂いはじめる。岩手県がしみてくる瞬間だ。この辺りから盛岡周辺までは、奥州藤原家の拠点である平泉、アテルイや阿倍貞任、義経などの史跡、水沢の黒石寺、成島毘沙門天、萬鉄五郎ゆかりの土沢、宮沢賢治ゆかりの花巻、雄大な岩手山を背景に啄木ゆかりの地にして松本俊介、船越保武等の作品が待つ城下町盛岡、、、と、もうキラ星の様に重要ポイントが点在する。なんと創造性豊かな地帯なのだろうか。
黒石寺
例えば黒石寺にはじめて行った時のことを思い出す。道に迷いながらようやくその寺へ辿り着いた時にはすでに夕方になっていた。お堂もしまっていてうろうろしていると、境内で土いじりをしていた初老の御婦人に呼び止められた。実はこの方が黒石寺の主人の奥様であった。さっきからうろうろしている自分に免じて、もう遅い時刻だったのだが、お堂と本尊を保存する倉庫の双方を特別に開けてくれることになった。黒石寺本尊の薬師如来像は胴体に貞観四年(863年)の年号が残る平安初期貞観仏で国の重要文化財。なぜ国宝にならないのか解らないが、自分の中では日本というか世界でもっとも大切で好きな仏像である。東北の貞観仏はエミシ対ヤマトの最戦線に点々と残されているのが特徴で、どれも都の仏像とは趣を異にし厳しく力強い。その中でもこの黒石寺の薬師如来は際立っていて、日本離れした峻厳で崇高な精神性が漂っている。仏像と言うよりは東北の山や森の神という趣で、エミシ的エキスが「仏像」という型を借りて顕在化したものだろう。これが自分の中の造形の「クラシック」となってきた。奥さんが言うには、重要文化財になったので、役所の指導がはいり、もとの古い本殿に置けなくなってしまったのだと言う。現在はこの像のためにわざわざ作られた安全で不粋な鉄筋コンクリート製倉庫に安置されている。この像はもとは秘仏として誰にも見えなくされていたらしく、奥さんも子供の時分は一度も観たことがなかったそうだ。高橋富雄氏が調査に来て初めてこの像を目にした時の感動の様子等感慨深気に話していただいた。本殿の光と空気の中、いくつもの守護神像に守られながら鎮座していたこの薬師如来の姿はさぞすばらしかったことだろう。おそらくヤマトの侵略に際して入植者が中央からもたらした仏像ではなく、エミシ−東北人自身がヤマト・仏教に触れながら新しい刺激を受けて生み出した仏像に違いないと自分は考える。まさに東北の宝である。
盛岡の骨董屋
ところで僕がもう一度学生時代をおくるとしたら、京都か盛岡辺りが良いとかねがね思っている。この街は風情があり、熱気もあり、どこかしら心のあたたまるところである。人間も良い人が多いように思える。この街にいたとしたら今とはまったく別な性向の人間になっていたかもしれない。
居心地の良さはそういうことだけではない。以前「盛岡に冬期オリンピックを!」とか「平泉を世界遺産に!」などというポスターに混ざって「盛岡を日本のバリ島に!」という信じ難いポスターを見かけたことがあった。同じ東北でも仙台では100回死んでもでてこない発言だ。ここはなんといってもエミシの中心地。誇り高い歴史と血が流れている。ここに居れば自分の身の治まりがいい。東京や仙台の様にアイロニックで分裂的になる必要はない。自分の居場所の歴史や精神を素直に愛することができるだろう。だいたいにして良識ある(?)人間ならば、あの戦略家で小賢しい伊達政宗とか都の出先機関でしかない宮城野・多賀城とかの歴史を本気で愛せるはずはないのである。
さて盛岡には骨董屋とか土産物屋が多いが、とりわけ浅沼骨董店にはよく行く。品揃えが雑多で面白い。釜神、土人形、よく解らない人形、茶わん類、ガラス類、戦時中の訓練で使ったライフル型の木、生菓子の型などなど。またこの店は価格がとても庶民的で有り難い。さらにこの店の主人が朴訥な感じで、いつも店奥でのんびりテレビを観ていて客に干渉してこなくて助かる。店に入っても緊張させない店である。
ある時土人形を観ていたら、主人が「ちょうど昨日みかん箱二つ分東京に送ってやったとこでさあ、、、。共産党の書記長の奥さんに頼まれて、、、家に帰ればまだあるんだけどね、、。」とすまなそうに話しかけてきた。そう言えば不破前共産党書記長の趣味は土人形集めだったのを思い出した。何かの雑誌で「土人形は庶民の文化」と熱く語っていて、なるほどいかにも共産党らしいと好感を持ったことがあった。おそらく奥さん名義で方々から土人形を買い漁っているのだろう。一つ一つ自分で確かめないで段ボールごと買うとは荒っぽい。金持ちはやはり買い方が違うのである。ところで同じ政治家でも橋本龍太郎の趣味は靴磨き。小沢一郎は和鳥や柴犬の飼育。石波前防衛庁長官はミリタリー系の模型。亀井静香は自分で下品な油絵を描いている。各々のキャラクターが微妙に反映していて面白い。
イラストの土人形はこの店で購入した花巻人形の一つ。明治期のもので日本の軍人が「支那人」を虐待しているモチーフである。馬乗りになって、当時の中国人のトレードマークだった「弁髪」を引っ張りあげている。今日では問題になるようなあからさまな図であるが、当時はこういうものが沢山作られたようだ。他にも軍人ものが沢山ある。主人はこれらを「グウンジンさん」と南部訛りで一括して呼んでいた。共産党前書記長の不破さんのコレクションにもこれらが入っているのだろうか?「庶民の文化」である土人形のバラエティーの広さ、時代に対するリアリティー、泥臭い感性にあらためて驚かされる。当然のことながら「庶民の味方」インテリ共産党のイデオロギーや倫理観など軽々と凌駕してしまっている。