上ミャンマー古都めぐり
赤シャツの男
マンダレーを中心とするイラワジ河流域には沢山の遺構が点在している。それはビルマ王朝が地震や戦争で何度も遷都をくり返してくれたおかげでもある。マンダレーの前はアマラプラ。その前はインワ、短期でサガインといずれも車で一時間以内の範囲に、旧王宮、付属の寺院等の遺跡が数多く残されている。これらの地域をまわるのが今回の旅行の最大の楽しみの一つだった。しかし思わぬ妨害が入りペースを乱されてしまうことになった。
マンダレー観光初日、疲れてホテルの部屋にもどり、天井の扇風機と効きのよくないクーラーのスイッチを押し、シャワーを浴びようとしていると、ドアをノックする音がした。従業員の服を着た男が、バスタオルを持って部屋に入って来る。チェックイン時にバスタオルはすでにもらっていたので変だと思う。男は案の定明日からの観光のこと等日本語でいろいろとたずねてきた。Aung kyaw と名乗り、『地球の歩き方』の後ろに資料提供者として自分の名前が出ていると言う。調べると確かにその名前が載っていた。『地球の歩き方』の女性記者を案内したのがかく言う自分だと言う。そう言えばこのボナンザホテルが不相応にとても良く書かれていて、ゆえに今、こうして自分がここに泊まっているわけなのだった。妻が日本人でNGO活動をしていて、こないだ生まれたばかりの子供を育てながら、現在日本の大学に通っているとのこと。だから自分もパスポートを持っているとのこと。明日見せてくれると言う。別に見たくはないがここまでまくしたてられると信じるしかない。明日一日でインワ、サガイン、アマラプラをまわってくれるタクシーをチャーターしてもらうことにする。値段はなぜか『地球の歩き方』にのっている相場の上限よりも高い値段が提示された。「これはあなたの情報だろう?なぜこれよりも高い?」と聞くと、あわてて『地球の歩き方』を覗き込み、「うーんガソリンが今高いねー」と述べた。「あーアメリカのせいねー」とあえて今回のイラク侵攻を揶揄し二人で笑う。「明日は仕事がちょうどないので僕も一緒に行きます。日本語もっと勉強したいから。大丈夫。」と、頼みもしないのに彼も同乗することになる。別れ際に「ところでナイロン・ホテルってひどいらしいですね」と言ってあえて防御線を引いておくことにする。ナイロン・ホテルのフロント、従業員の悪評をネット上でチェックしてきていたのだ。こう言って釘を刺しておけばこの男もバカな真似はしないだろうと思ったからだ。「ああーナイロン・ホテルはひどいね。みんなブローカーみたいね。インターネットでみんな書いてる。見た?」と聞くので、「見た」と述べる。なぜか彼の表情がひどく引きつった。嫌な予感がした。
翌朝なぜか頼みもしていないのに7時にモーニングコールが鳴る。8時に起きるつもりだったので調子が狂う。1階のレストランでトーストとオムレツとコーヒーのまずい朝食をとる。その後待ち合わせの9時にフロントへ。「こっち!」という声のする方向に昨夜の男を発見。ソファーにどっかりとあぐらをかき、真っ赤なシャツにロンジー姿で手招きしている。昨夜の印象と違ってすこぶる態度がでかい。これが本性なのだろう。この瞬間にこの男に任せたことが誤りだったとさとった。予定していたタクシーは待っても来ない。あげくに自分のバイクに相乗りして行こう?と言い出すので断る。あわてて外に出て見つけてきた車がタクシーではなく小型トラックだった。これはこの地での一般的な乗り物であるが、外に露出した荷台にこの男と顔を突き合わせて、一日中ゆられ続けると思うとうんざりした。それでも、男は奥さんやNGO関係の写真、パスポートなどを見せてくれ、和気あいあいとしたムードでスタートする。しかしそれもはじめだけだった。「日本人がわざわざこんな国に来るなんて気が知れないよ、、。」とつぶやくように、「ガイド」としてのポリシーがまったくない、というか別にガイドは頼んでいないのだが。「日本語を勉強したい」というのも嘘で、自分の気に入ったこと(金もうけに関すること)以外ほとんどしゃべらない。まるでインド人のような男だ。奥さんのNGO活動の具体的な内容に関して何度もたずねたのだがそのつどお茶を濁されただけだった。ビルマ人としては堂々たる体躯で、終始態度も大きく横柄。日本語の使い方もちょっと変で、「こっち!」とか「そう!」とまるで教官かなにかのようにしゃべる。ビルマ人にもこういうタイプがいるんだと再認識する。かつてアユタヤを徹底的に破壊強奪したシンビューシン王や、最近まで軍事政権を背後で支配してきたネ・ウィンなどはこんな感じの男だったのかも知れない。こういう男と結婚する日本人もいるわけで好きずきだろうが、自分の愛する妻の同国人を金もうけのカモにしか考えていないのには驚かされる。まあ本当に彼が言うように日本人と結婚しているかは解らないのだが、、。頼みもしないのにいつになく詳しい解説を「コットン」についてはじめたと思えば、その直後コットン衣料販売店へ引き込んだり、、、、妙なところで休憩ばかりとるかと思えば、廻るべきところも廻らない。指摘するとしぶりはじめたりする。この男いったい何を企んでるんだろう、、と類推すると一目瞭然で、明日以降のこっちの日程を標的にしているのが解る。彼からミングォンやモンユワなどへの観光も勧められていたのだが「今日一日終えてからあらためて考えたい」と保留にしていたのだ。なるべく暗くなる遅い時間にホテルにもどるようにし、こっちの足を止めておいて(夜になると明日の道程に関する新規の手配が難しくなるので)、明日以降も僕につきまとって、もっと大きく稼ごうとしているとみた。さらにあまり動き回ってガソリンを消費させ運転手に分け前を多くとられないように、なるべく動かずにだらだらと休憩ばかりとるわけだ。あまりに女々しいので、おそらく、今朝モーニングコールをかってに頼んだのもこの男のしわざだろう。こういうのはマージンを多くとられたりするのよりもたちが悪い。一日の観光が台無しにされてしまう。もう二度とここに来れないかも知れないというのに、、。この男とは絶対今日限りにしようと内心堅く決意する。この男が本当に『地球の歩き方』に関与したAung Kyawという名の男なのか微妙だが、もしも本当ならば『地球の歩き方』の責任大である。
強大なビルマ王権
ところでこの日まわったビルマ王朝の遺構の大きさに本当に驚かされた。マンダレーにある王宮の広さはほとんど悪趣味一歩手前で、真ッ平らな無限大の広がりを印象ずける。こんなに広く感じる王宮は世界でも稀だろう(ちなみにヨーロッパの城壁は都市そのものを囲むものが多く、王宮そのものは小さい)。マンダレーでは街の中に王宮があるというのではなくて、マンダレーの街とマンダレーの王宮が同じスケールでならんでいるというのが実感だ。サイカーで王宮のこっち側から反対側に抜けるだけでも、30分ちかく同じ堀にそって走り続けなければならない。あまりに広く、あまりに暑いので、恐ろしくなって王宮内には入らなかった(この王宮内部は第二次大戦時にイギリスと日本の戦いに巻き込まれほとんどが消失してしまい、その後日本の援助によって復元されている)。そこでマンダレー王朝というのは病的に肥大化しすぎて滅んだのではないかと思ったが、インワに来てみてそうではないことが解った。インワ王宮跡の城壁もそうとう広い。城壁の中がひとつの、というか複数の村になっている。その中に古式ゆかしいパゴダがいくつもならんでいる。ビルマ王朝というのはもともと大きいのだと理解した。またマンダレー市街のあきれるほど均質な碁盤の目状の区画も、バガン時代からの伝統の様だ。飛行機で空から見ると荒漠とした大地の中に漢字の「田」の様な「碁盤」型の村がこつ然といくつも浮かび上がってくる。首都ヤンゴンの整然とした町並みはイギリスの都市計画によるものだというが、元来ビルマ族というのは整然とした、碁盤状で幾何学的な、それでいてスケールの大きな構築的美意識を持っているらしい。パゴダや寺院の建築様式にもその美意識が強く出ている。東南アジアで唯一アーチ構造を活用し、巨大で単一の構造物を実現していった(カンボジアのアンコールワットは複数の構造物を回廊と中庭でつなげてできたもの)。写真上はマンダレー王宮の掘り。下はミングォンの巨大パゴダ(世界一の大きさを目指しながら未完に終ったもの)。ミングォンパゴダの尋常ならざる量感と巨大さはさながら山そのものである。巨大で明るい内部空間と強度との葛藤、克服としての西洋的建築史観から言えば、なんともおぞましいものであり、ビルマ建築をまがいものと断定する学者も多いと聞く。巨大さを支えるために内部空間はしばしば入り組んでいて狭くて暗い(特にこのミングォンパゴダは基本的にパゴダなのでほとんど内部空間がなく、いわばレンガの塊となっている)。しかしこの様な重苦しいほどの圧倒的量感はあきらかに一つの人間の欲望にかなっていて、大変感動的であるように思える。一つの場所にこれだけのレンガや岩を集め積み重ねるという単純な凄さがある。現代の鉄とコンクリとガラスの建築にはこれが欠落している。
過去においてビルマは侵略者大英帝国と3度戦い3度とも敗北し植民地化されてしまった。その結果これほどの強大な権力であったビルマ王家がまるごと消滅してしまった(最後の王はインドに追放)。ビルマ王権は宿敵モン族に競り勝ち、隣国タイ王朝を打負かした王権である。タイはそれ以前にラオス、カンボジアなどを従えていたわけであるから、ビルマ王権というのはインドシナの覇者だったはずである。そればかりか当時の彼らの認識においては、インド、中国ですでに仏教が下火であったことから、地上世界の最強で最後の仏教擁護国家としての自負があったと推測される。それゆえイギリスがこの強大な権力と自負をビルマから葬り去ってしまった後の空白もまた強大であっただろうことは容易に察しがつく。おそらく周辺部族を押さえ込み、この国を引っ張って行くだけのポリシーと勢力を維持できるものは、旧日本軍からつちかったビルマ国軍しかなかったのだろう。現在の混迷の種はイギリスがまいたのであると言える。皮肉なことに今日世界から孤立するアジアの二つの国、北朝鮮とミャンマーの指導層はどちらも旧日本軍を起原とし関係が極めて深い。そうして世界中がグローバル化・アメリカ化する中で、今なお欧米勢力を拒絶し続けているのもアジアにおいてはこの二カ国なのである。
片手あげプゥーア
サガイン・ヒルを息を切らして降りた頃にはすでに日が傾いていた。この丘もかなり上まで車で上がれるはずなのに、当然の様に下から徒歩で登山させられとても疲れた。車にもどると例の男が「本当にオッパイパゴダ見たいの?」と嫌な言い方をする。「オッパイパゴダ」とはカウンムードーパゴダのことで、巨大なお椀をふせたようなパゴダでサガイン随一の名所である。「せっかくサガインに来て見ないで帰るわけにはいかない」と再三にわたり主張する私。「でも、あそこは熱くて足の裏が大変よ。それに少し離れているね。ここから40分ぐらいかかるよ。モンユワに行く途中の道だから明日の朝にでも寄ればいい。」と彼は答える。明日この男とモンユワに行く気はない。その手にのるものかと主張をくり返す。実際カウンムードーパゴダへは15分ほどで到着してしまった。夕方ということもあってか足の裏もまったく熱くはない。男は嘘が完璧にバレてはずかしくなったのか、はじめて同行せずに門前で運転手と待つと言う。おかげで久しぶりにのんびりと土産物等を物色する。正面参道に土産物屋がつらなり、マンダレーとはまた少し趣きを変えたものがあって興味深い。黄色い上薬のかかった焼き物の鳩笛を大小2つ購入。巨大な張り子人形「プォーア」を購入。ここマンダレー周辺のは片手を挙げたタイプが多くて面白い。同じ種類の張り子でも地域や作り手によってかなりの差異がある。その一つづつを総べてコレクションし体系的に考察できたらさぞかしすばらしいだろうと思う。「プォーア」という名のこの赤ん坊人形はけっして女の子ではないという。大きなおしめを付けミャンマーきっての伝統的人気キャラクターになっている。巨大な王宮、巨大なパゴダ、巨大な仏像、そして巨大な張り子人形。この剛直さがこの国の文化である。待っていた男は僕がぶら下げてきた巨大な張り子を見て顔を引きつらせる。そして「うん、いいよ」と言ってひとつうなずいた。いったい何が「うん」なのだろうか?何が「いいよ」のだろうか?「なにさまのつもりだ」とその時思う。
ホテルに着いたのはやはりどっぷりと日がくれた後だった。帰り道は終始無言の気まずい雰囲気。つくづく商売の下手な男である。彼は「まだ終わりじゃないよ」と意味不明な言葉で僕をフロントにつれて行く。3人ソファーに座る。間髪おかずにお世辞もこめながら「いやー今日は楽しかった。まあ疲れたので明日は一人でゆっくり廻ることにした。」と約束の金額を彼に渡し立ち上がる。すると「これは運転手のお金ね。、、僕も小遣い欲しいよ」と本性を出してきた。「小遣いくれ」とはヤクザのチンピラが使うような日本語である。「あなたにガイドを頼んだおぼえはないんだけど!」と睨みながら1000チャット札一枚(約130円)をわたし、ワナワナと怒りにまかせて荷物を引っ付かみ無言で席を後にする。二度と振り向かなかった。背中越しに「少ないな、、」という男の声が聞こえた。後味の悪い最後だ。彼はこのホテルの従業員ではなかったらしく、その後見かけなかったが、一度暗い夜道の雑踏で偶然すれ違ったことがあった。オートバイにまたがり、旧知の友の様になれなれしく声をかけてきたが、冷ややかに受け流しすぐに別れた。
マラッカの葬式人形
マーレシアヘの苦情
テロへの警戒は最近ますますエスカレートするばかりだ。成田空港で搭乗手続きをしていたら引き止められた。「あなたの荷物の中にハサミの様なものはありませんか?」と言う。「まさか」と思ったが思い当たる物が無いわけではない。お子様用の先の丸い小さなハサミだ。ミャンマーの張り子に穴をあけるために持ってきていたものだ(がさばるので大きな張り子内部に入れ子状に荷物を詰めるつもりだった)。「こんなのもだめなんですか?」と聞くと、「どこの航空会社ですか?」と逆に問われる。「マレーシアエアラインです」。「、、、それでは申しわけありませんが、こちらでお預かりするか、没収させていただきます」。ということで透明なケースを差し出される。中にはハサミとかカッターらしきものがいくつか転がっていた。どれもくたびれていてとても凶器にはなりようがない。この中に自分の手でハサミを入れろと言う。とにかく早くここを通過したいので従うことにする。かくして自分のお子様ハサミも見せしめ「展示品」の仲間に。「やれやれ、、マレーシアってのはやっぱり嫌なところなんじゃないか」と出鼻を挫れる思いになる。
日本びいきのマハティール氏が率いてきたマレーシアという国は、近々先進国入りを目指しているほど躍進目覚ましい。首都クアラルンプールには世界一高いという国旗塔やビルディングがあり最新鋭の鉄道網が縦横無尽に完備されている。国家の威信をかけて造られたマレーシア国際空港は世界で二番目の敷地面積だそうだ。設計は日本人の黒川紀章。今回初めてこの空港に降り立ったのだが、飛行機の窓越しに見る空港建築の様子は、とても綺麗で無駄が無くスッキリしていて緊張感があった。全体の印象はけっして威圧的なものではなく、「コロニアル風熱帯植物園」とでもいったような居心地の良い雰囲気だ。敷地を照らす照明塔やちょっとした小屋までの全てが統一された美意識を持ってなかなかのものである。少なくとも成田や関空よりはかっこいい。しばらく見とれていると視界の中に数人の空港職員の姿が入ってきた。ゆらりゆらりと歩いてくる。なんというか彼らの腰の辺りのネジがちょっと緩いというか軽いというか、、、妙な感じがする。今回の旅で見る最初の東南アジア現地人である。外はやはり暑いのか、空港建築のきりりとしまった緊張感と相反していて面白い。そのチグハグさが現在のこの国そのものなのだと思う。アジアの航空拠点を隣のシンガポールと競っているらしいが、自分の感想からいえばはるかにシンガポール・チャンギ空港におよばない、どころかここは実に不快極まりない所であった。「所」というよりも空港と首都、中央駅、タクシー、ホテルといった対外国人に整備されたシステム網そのものが気に入らない。システムの背景に流れる戦略というか意志がなによりも寒々しいものだった。「サービス」というものがどういうものなのか彼ら(マハティール)は解っていない。「日本に見習え」といいながら日本のケチな管理、実利性ばかりが入ってきた感じだ。外国人へ自国の勢力を誇示し、同時にむしり取れるだけむしり取ろうという魂胆しか感じられない。そしてむしり取る価値すら無い貧乏個人旅行者の存在は冷たく無視されている。
まずこの空港の全ての冷房が効きすぎる。これはあらかじめ知っていたことであったが、機内と飛行場用のためだけにかなりしっかりした上着を用意しなければならなかった。それでもみな寒さに打ち震えながら搭乗を待っている景色は異常で、中には体調を壊す老人もいた。これは「先進国」を意識してのめいわくな過剰アピールであるにちがいない。クアラルンプール−ヤンゴン間は逆にほとんど冷房が効いていなかったので、あきらかに差別しているようだ。飛行場内は高価ブランド店ばかりが点在するが、それらを歩く距離がばかにならない。わざわざ歩かせるために点在しているようだ。出国エリアには両替所が極端に少なく(あってもはしっこに設置されている)、自国通貨をなるべく使い切らそうとする魂胆が明らかだ。行きではミャンマーまでの乗り継ぎで来ただけなのに12時間以上は荷物を預かれないということで、返される荷物を受けとるために一度出国しなければならなかった。空港内の荷物預かり賃も大変高い。寝転べるイスが極端に少ない。空港から街中のセントラルステイションまでの連絡はほとんど選択の余地なく最新のKRIAエクスプレスを利用するほかなく、これもとても高い(タクシーは距離が長いのでもっと高くつく)。駅からホテルまでのチケット制タクシーも奇妙に高い。ホテルは総じて高いが、その上税金が加算され、さらに保証金を一時的に預けなくてはならない。スチュワーデス、空港職員などのプライドも高くプロ意識は低い。機内ではなぜか自分の列だけ飲み物が渡されないということが2度続いた(これは観察するところによればうっかり忘れたのではなく、係り分担の境界線上にあったことから、確信犯的な怠慢行為だった)。また空港内の国際ターミナルの案内カウンターだというのに、片言の英語で訪ねる自分に対し、女性職員達がこれみよがしに不快な表情を作って見せてくれた。と不満はキリがないので止めておくが、いずれにせよ外国人がかならず強要される飛行場、電車、中央駅、タクシー、ホテルといったラインのみは先進国を気取り、設備も価格も先進国なみであるが、基本的にこの国は先進国ではないので、随所にボロが出ていた。何のための誰のための設備なのか解らなくなる。まるで一人の支配者の自己満足的で恣意的な仕組みに有無を言わさず参加させられているような感じになる。人間としての尊厳がいたく傷つけられる。一方ひとたびこれらのラインから外れるや否や、庶民の東南アジア的な暮らし、暑さ、安さ、手軽さ、不便さ、汚さが待ち構えている。それゆえ強要されるシステムのみが突出し余計にボラれた気になる。本来主役であったはずの庶民の暮らしが、ラインとラインの隙間、中央幹線道の脇の小道、巨大ビルディングの影に押し込められている。この国が世界中のバックパッカーから忌み嫌われる理由には、麻薬で死刑にされるだけでなくこういう部分も関係しているに違いない。
「エスニック」の氾濫
以前、我が家でマレーシア製の安い籐のイスを衝動買いしてしまった。その後遅れて購入したインドネシア製のものなどと比べるにつけ、その質やデザインのひどさにうんざりさせられている。いろいろな店で色々なものを見ても総じてマレーシア製のものはひどい。アジアンテエィストの中でもっとも稀薄で空虚で値段も安い。つまりもっともアジアエキスが薄く、商業主義的匂いが濃い。最近ではやたらとバリ島系の店、商品がねつ造され、量産され、薄められながら一種の「アイテム」として日本市場に溢れているが、同様な堕落を遥か以前から、しかも国家戦略として押し進めてきているのがこのマレーシアというところである。
そういう印象があったので現地に行っても良いものは少ないだろうと予想していた。しかし広大な国であり、多民族国家でもあり、あの小さなシンガポールでさえいくつか良いものが買えたわけであるから、なにがしか千に一つは買うべきものもあるだろうと思っていた。結果は予想通りというか予想を超えてというか、万のうち一つ見つけるのも大変で、暑くて広々とした砂漠でひと粒の宝石を探し当てるような思いになった。不思議なことに、飛行場や、マレーシア全土の品を集めたクワラルンプールの広大なセントラルマーケットでは、いわゆる「伝統的民芸品」が溢れかえっていたのだが、、。
伝統の凧にしても工業製品的なけばけばしい色彩で買う気になれず、昆虫の標本類も仰々しいケースに納められ、付加価値が付けられ高額商品になっていて気が引けてしまう。このホームページでも指摘しているが品質悪化の三大要素(量産化−劣化、商品化−媚び、リアル化−逸脱)のオンパレードで、金を貰っても持ち帰りたくないものがほとんどだった。さらにこの国はもともとそれほど高度な伝統的手工芸が豊富ではなかったようで、もともとないところに、無理矢理といった感じで土産物・商品を「ねつ造」しようとしている。ゆえにこの国においてはしばしば「衰退」とか「堕落」という言葉ではなくて「ねつ造」、「でっちあげ」という言葉がより似合う。これは一つの新しい発見であった。「エスニック」というものが国際マーケティング上の重要アイテムの一つとして意識され、国家的戦略で強調され、「売り」にされる。しかし実体としては伝統産品が稀薄であるから、一生懸命ねつ造しようとし、あるいは付加価値を付けて「商品化」しようとする。「もの」があって、見い出されながら商品として売られるのではなく、あらかじめしかるべき場所にふさわしい商品として、「もの」がねつ造され、でっちあげられている。ゆえにそこには良質な人芸品が偶然まぎれこむという余地が皆無なのだ。この国ではいわゆる「エスニックのねつ造」がかなり以前から大々的に押し進められているように思える。それを阻止する伝統も良心も信仰も稀薄なのだ。今、世界では「世界のアメリカ化」と同時に、「人芸品のエスニック化・マレーシア化・ねつ造」がその対をなしながら進行しているようだ。おぞましいことである。
マラッカへ
他の東南アジア諸国と違って、マレーシアには目を見張るような遺跡や大建築が皆無である。同じマレー民族で同じイスラム教、同種の言語を話すインドネシアには世界レベルの大文化遺産がいくつも残されている。なぜマレーシアにはそういうモニュメンタルな遺構が欠落しているのだろうか?
マレーシアの歴史的な中心地といえば古都マラッカである。マラッカ王国は15世紀初頭にはじまり海洋貿易で栄えた。東南アジアでいち早くイスラム化し、その後この地域でのイスラム拡大の一大拠点になってきた王朝として記憶される。そのマラッカでさえ巨大な遺構があるわけではない。インドネシア(ジャワ島)にある過去の巨大な遺構(ボロブドウールやプラパナン)はどれもイスラム化以前の仏教、ヒンズー教王国の遺構である(シャイレ−ンドラ朝ではボロブドゥール、プラタナンなどの巨大建築が造営され、その次のマタラム朝では影絵芝居のワヤン・クリが興隆した)。ジャワ島でもイスラム化以後はこのような強大なモニュメントは残されていない。だからイスラム化以前は人口も少なく、巨大な王権が成立していなかったらしいマレーシア(マレー半島やスマトラ島北部)では当然ながら巨大な遺構も造られなかったのだろう。マラッカのイスラム系王朝、ポルトガル、オランダなど歴代の支配者の遺構が集中する中心部もこじんまりとして貧相だ。建物が小振りなだけではなく、メインの場所だというのに、このコセコセと隣接した配置はまさにオランダ・ヨーロッパ的空間感覚だ。間延びしたマレーシア空港やクアラルンプール中心部、ミャンマー・マンダレー王宮などを歩いてきた身には新鮮でなつかしい。
僕が訪れた時、マラッカ海峡沖で海賊騒ぎがあり、ニュースが世界を駆け巡ったが、マラッカの街自体はとてものどかで、巨大な歴史公園を散策している感じだった。この街の実質的中心はやはりチャイナタウンで、今なお古い華僑の町並み、様々な寺院、モスク等が残されている。この界隈に入ってすぐ、華僑らしく愛想のない飯屋で鳥飯を食べ一服した後ゆるゆると歩き出す。やたらと土産物屋、それも伝統工芸品、骨董関係の店が多いのに驚かされた。いわゆる中華系の骨董店、世界中の仮面、人形が集まる店など様々だ。値段は日本並み。やはり現地でつくられたものを見つけるに限るが、マレーシア産のもので買いたくなるものはまずない。
しばらく歩くと現地華僑のための仏具、神具屋が軒を列ねて集まる小道に出くわした。店先には華僑が葬式で使うという様々な日常用品の模型がぶら下がっている。とても興味深い。車、靴、家、服、食器、紙幣、金の延べ棒、パスポート、扇風機、クーラー、様々な食べ物、お茶セット、そしてなぜか色とりどりの握り鮨もある。どれも紙でできていて軽いがガサばるので買う気は起きない。これらは一種の供物で、死者があの世へ一緒に持って行く物なのだという。生前死者が好きだったもの等が選ばれるのだろう。葬式ではこれらの模造品を儀礼的に焼き払うようだ。秦の始皇帝墓に埋葬された兵士、軍馬等のおびただしい数のリアルな彫像を思い出す。漢民族はあまり信心深くない現実主義者と言われるが、死者の世界にこれだけ具体的な物を持って行こうとする感覚は少々特異なことではないだろうか。
店によって置いてあるレパートリーが異なり、何件もはしごして物色する。観光土産ではないので店の主人からうさん臭い顔をされる。一件の店で紙製の小さな人形を見つけることができた。袋の中に幾重にも重なってつまっている。男と女であろうか。その中から四体ほどつかみ出して購入。車や服といった日常用品の供物とつくりがちょっと違うので、用途が異なるのだろう。どのような意味があるのかよく解らないが、ぺらぺらのこの人形の方が風情がある。一体1リギット。ボラれたように思うがこういうものは値段の検討がつかない。以前シンガポールのチャイナタウンでも紙製の人形を男女2体購入したことがあった。それはとても大きくて立体的なつくりで、購入した店も花火を売る店だったと記憶する。中国の花火は様々な形態や手の込んだ仕掛けがあって面白いが、その人形も「ひとがた」の花火の一種ではないかとも思った。未だに中身を調べてないので解らないが、空港で呼び止められなかったので火薬が入っているとは思えない。マラッカの葬式用の人形と関係があるのかどうなのか知る由もない。翌日はヒンズーの聖地・ヴァトゥー洞窟等を見物したが、結局限られた範囲しか歩かなかったこともあり、今回のマレーシア滞在で購入したものは、この華僑の葬式人形と、空港で買った変なムカデの玩具のみというお寒い結果に終る。