イタリアブリ・テラコッタ
イタリア滞在の最終日、アッピア街道のカタコンベヘ行こうとしてバスに乗り遅れた。しょうがないので妻とローマ市内をうろつき、天気も良く見晴しも良いので路上のテーブルでカツサンドとカプチーノを頼む。とても高い。目の前にサンタ・マジョレー教会があるからだろう。名所近くでの飲み食い、席代になると劇的にはねあがる。
世界の芸術の半分はイタリアにあると豪語するこの国では、国家そのものの価値が、名所旧跡宝物のおかげではねあがってきた。道路などのインフラ整備で、土地の価値が増加するというレベルではなく、建築や美術という、もう一つ別種の「公共性」回路へ、富と熱意と創造性が長年向けられ続けてきたのだ。その宝は、世界中から人を集め、自国の物産ブランドを高め、カプチーノの値段を挙げてきた。無駄づかいを戒めるわりに、他国の二流品を買い漁ったり、「公共性」のない「(小)金持ちの道楽」的散財と蓄財、商店街還元型の一時的イベントヘの誘導、恣意的な定期的モード切り替わりとその買い替え、といった日本的「無駄遣い」と雲泥の差がある。溜め込んだ富は使わなければ公共性が生まれない。だからといって、一時的な景気対策として現金やモノを流通させるための使い方ではなく、一つの歴史に残る造形物をつくる。それはどんな貧しい人でも、他国の人でも、未来の人間達も「見る」ことができる。「見る」ことでそれは未来永劫、富みを産出し、共有し続けることができる。こんな有効な富の活用の仕方はない。金色に輝く大きな仏塔とか教会の威容も同様の根がある。そこでは「宗教的公共性」と「富みの共有」と「富みの増殖」と「見る」ことが重なっている。世界最古の観光地ローマはおそらく史上はじめてそのようなことに自覚的に、道路や橋、競技場、水道などの「使う」ことで共有する「聖なる」インフラを大々的に構築してきた。「見る」造形芸術造営もそういう栄えある伝統にのっているためか、ケチなお飾り程度のものではない。
そのようなことを考えながら、のんびりとカプチーノを飲む。カップの中にちゃんとしたハート型の紋が浮かんでいると言って妻が喜ぶ。重厚堅固な石の構築と、泡ブクで作られたハートは、心地よい対比を奏でる。散歩を続け、市場の横の露店でイラストの品を発見。陶器の壁掛けでチープな土産物品。中国ででもつくられているのかも知れない。しかし全体の趣は悪くない。酒の神ヴァッカスだろうか、「イタリアブリ」が一応ある。1個買って、しばらく行ってから、レモンの他にブドウのもあったと思い出し、またもどって二つ目を購入。芸術大国イタリアは、そこかしこに優れた彫像、レリーフがころがっていながら、現在手軽に買えるものは、いわゆる「キッチュ」なものばかり。だからこの程度のものでもうれしい。
「イタリアブリ」
噴水や水道の蛇口、家の門、街角のそこかしこに見られるイタリアの造形であるが、もともとはアートとして造られたわけではない。民族文化そのものとしてそれらはあり、親しまれてきている。芸術品として博物館や美術館に保存されるものはそのわずかな例外にすぎない。それら名作を下支えする膨大な数の造形を忘れてはならない。いくつかの人気あるモチーフが、形を変えながら日常生活の隅々に応用され、くり返し時代ごとにコピーされてきた。古代ギリシャ・ローマ時代の遺品のほとんどもそうしたコピーのかたわれである。たとえそれがコピーであっても各々の「型」が「生きている」ものは、それはそれで、なかなか良いものだ。
飯田善國というなぜ有名なのか解らない彫刻家がいる。彼がフランスに留学している時、裸婦を前にデッサンをしていて、なぜか先生から何回も駄目だしをくらったというエピソードがある。彼のデッサンは、まわりの生徒に比してすこぶる正確な描写だったらしい。いくら精度を増して行っても、どういうわけか飯田のデッサンばかりやり直しを命ぜられたという。結局後でみっちりフランス式アカデミックともいえるある種の伝統的「型」へ、モデルをデフォルメし当てはめて行く指導を受けたとか受けなかったとか、、(記憶がはっきりしないので、この話の結末がどうだったかあいまいだが、、)。
自然に目に見えるように対象を描写しようとする、世界でも稀なギリシャ以来の伝統・「自然主義」的表現でも、単なる写真的なリアリズムではなく、ある伝統的な比例とプロポーションを持った「型」を前提にしなくてはならない。というよりも「型」を通して世の中を観、「型」の様に見えてしまうようになることが要請される。それが生きた伝統というものでもある。その点に関してはエジプトやメソポタミアと大差はない。一口に「型」、それも「自然主義」的形式範疇に留められるべき「型」に限ったとしても、国や地域、時代、工房ごとに様々である。古代ギリシャの型とそれをモデルにしたはずのイタリア的古典主義、フランス式の新古典主義の型は、各々あくまでも異る。古代ギリシャでさえも時代、産地でかなりの違いがある。キリスト教伝播後のロマネスク・ゴシック期では、教会造営にともない様々な造形がつくられて行ったが、それらはさらに大きな差がある。時に数百年単位の時間を要する教会造営では、部分によって造形のスタイル・「型」が異なってしまう場合も多い。各々の街が誇るカテドラル造営では、それぞれの地域に根ざした材料と技術者が動員される。よって各々のカテドラルには、そこ独自の「型」が刻印されている。その「型」は工房に由来するもの、もう少し広範囲にその時期、地域に共通するものなど様々だ。それらは稚拙なもの、後に「ゴシック」と蔑視されるほどのアンバランスなものもあるが、大変独特な調和を実現したすばらしいものも多い。それらのほとんどは、北ヨーロッパのルネッサンス受容と絶対王政下でのアカデミーの組織化により、古き未熟な「ゴッシック」(ゲルマン)風として断絶し、忘れ去られてしまった。二度と再びこの地上に現れることのない、失われてしまった「型」、美感がなんと多いことだろう。画面上の「え」は、パリのクリニュー博物館地下の遺跡に展示されていたもので、独特な「型」を伝える遺跡群の一つをラフスケッチしたもの。こういう丸顔の細く長い目と口の優美な顔は、実際のフランス人とかなりかけ離れているようでもあり、どこからこういうスタイルが形成されてくるのか不思議なものである。フランス流古典主義よりもはるかにすばらしい。
一般にローマ美術は、ギリシャの模倣にすぎないと言われる。しかしギリシャ様式伝来以前からイタリア半島には、様々な民族と独特な「型」があった。ローマの古い時代の造形には、例えば「ローマの休日」で有名な「真実の口」の様な泥臭い剛胆なものが多い。バッカス神等のローマ固有のモチーフには、ギリシャ化以後も土着的なエキスが色濃く流れ込んでいるように感じる。
そして、なによりもイタリア半島で常にローマと雌雄を決してきたエトルリアの影響を忘れることはできない。エトルリア人は、ローマより早くから広範囲にイタリア半島に住み着いた先住民族だが、ローマとの抗争の結果、消滅、吸収されて行った謎の民族である。伝えられるところによれば、ローマ人はエトルリア文化を意図的に根絶やし、撲滅しようと躍起となってきた。フエニキア人の都・カルタゴに対したような(男は全員処刑、女、子供は全員奴隷。街を焼き払い、廃材までも粉々にし、最後に塩をまいた)徹底さを発揮したかは解らないが、さいわいエトルリア産の多くの遺物が出土し後世に伝えられている。それらはどれも大変奇妙なプロポーションをしている。顔だけが異常に大きかったり、やたらと全身が細長かったり、顔がやたらと小さかったり、異常にリアルな部分とデフォルメされた部分が共存していたりと、とにかく何でも有りという感じだ。これらの像に一種の不気味さすら感じるのは自分だけではないだろう。ある統一されたスタイル、比例、型が無く、あいまいだというならば話はわかる(例えば古代ギリシャのスタイル確立以前のエーゲ海周辺地域の様々な像)。しかしエトルリアの場合、あまりにも極端で、異様である。これでもかと言わぬばかりに奇形的で不自然とも言えるデフォルメが試みられている。一種の「視覚の暴走、錯乱」が起こっている。厳格で秩序だったことが何よりも好きだった古代ローマ人がこれを許すわけはない。おそらく生理的に嫌悪し、可能な限り徹底的に根絶やしにしようとしたことは理解できる。この対立は、世界史上もっとも秩序好きの民族と、「型」にはめられないもっとも不可思議な民族との避けられない戦いであったと言える。
しかし別な見方もできる。このエトルリアに出会い、対することで、はじめて後のローマ的アイデンティティーが形成されたのではないか。ゆえにローマ的、古典的、イタリア的「秩序愛」の根底には、常にエトルリア的とも言える、脱秩序的な無法領域への欲望と恐怖が塗り込められているのではないか。皮肉なことに、エトルリア人の根拠地となってきたのは、後にルネッサンスが花開くトスカーナ地方である。ルネッサンスの担い手達は少なからずローマとエトルリアの混血であったはずだ。ルネッサンス的理想が着実な作品に結実できた時期は大変限られている(せいぜい15世紀半ばから16世紀はじめぐらいの数十年)。それはギリギリの緊張感に満ちたむしろ特異な時期であり、理念が揺らぐや否や、マニエリスム、バロックへ移行して行く。だからマニエリスムやバロックの(あるいはそれ以前の後期ゴシック期の)歪み、デフォルメ、浮遊感の方が、「ナチュラル」な「常態」であったとも言える(逆に言えば、特殊に過剰化し自立してきてしまった造形芸術創造を、恒常的に支えることができなくなる「非常事態」に突入した)。そこではもはや、本来的に無根拠な視覚や創意を統御できる理念や型が崩壊してしまったのである。このマニエリスムと言われる時代の作品は、エトルリアほどの極端さはないものの、同様な不気味さ、リアリティがある(さらに近現代でもマリーニ、マンズー、モジリアーニー、あるいはジャコメッティなどのフォルムにもそのエトルリア的影響が見られる)。そもそもローマ帝国が衰退し、「型」が揺らいでからというもの、あるいはキリスト教的な規範が緩み、感情や感覚が暴走しはじめた時(キリスト教義の規範自体も「自然主義」や今日の視覚からすれば一種の歪みとデフォルメをともなっているのだが)、常に同様な混乱が起こり、「型やぶり」が進行する。そのように常に脅かされ、繰り替えされる無法領域化による「歪み」の原点には、あの不可思議なエトルリアの悪夢が刻まれているに違いない。
「ポンペイ」
ベスヴィオ火山から掘り出された古代ローマの地方都市ポンペイに行くと、ある種、奇妙な感慨を覚える。一見良く知られた古代ギリシャ・ローマ的様式を随所に示しつつ、同時に極彩色な、南国的、土俗的、エスニック的とも言える怪しさが漂っている。この街は後世にヨーロッパ中を覆い尽くすことになるキリスト教、あるいは啓蒙主義などを経験する前に土砂に埋まったためだろうか、ありのままの「古代」がむき出しになっている奇跡的空間になっている。そうとう風化が激しいのだが、かつてあっただろう色とりどりのモザイクや赤や黄色などの極彩色の壁面、ほとんど「偶像」と言ってしまいそうな奇妙な怪物的図像達がそこかしこに垣間見える。それは地中海的な明朗さがあるとしても、まるでヒンズー教のインドか何かのような雰囲気が漂っている。古代ギリシャの神殿や神像も、本来は相当派手な色彩で着色されていたというから、かつて古代世界の実情は、八百万の神々が徘徊する相当怪し気な世界だったのだろう。偶像を排し、唐草模様やコーランのタイルで装飾するイスラム世界からすれば、なんともおぞましい世界。かつてカエサルがゲルマン人に感じたようなものか?
そのような中にあって、惨然と輝いて見えるのがいわゆる自然主義的「イタリアブリ」の図像表現である。逆にそれがなければここがインドかアッシリアかと言われてもすぐには判別できないかも知れない。それらは中庭の彫像や家々のレリーフ、壁画等に頻繁に登場する。特に面白いのは極彩色の装飾的室内壁面にさえも、これらのイタリアブリ像がむりやり用いられている点である。幾何学模様や草花、小鳥、マーブル模様に混ざって、そのポイントとなるのはつねにこの「自然主義」的モデリングが施された「像」(キューピットや女神等様々な神)である。それらは職人によってパターン化され、簡略化され「型どおり」にほどこされたものにすぎないのだが。三次元的空間表現とは無関係な平面装飾に、一つの記号化された「象徴」として、一種「コラージュ」的に用いられている。
象徴、、、それは第一にローマ文明を享受する者としての象徴なのだ。そこではそうした古典的「型」がなによりも尊いのである。ローマ法に生き、秩序を愛し、なによりも「ヒューマニズム」を標榜する共同体の象徴。周囲の蛮族はたいがい気まぐれで、約束を破り、なによりも人間を生け贄にする人身御供の文化であった。その点はフェニキア、エトルリア、ガリア、ゲルマン、、、と全て同じで、ローマ的ヒューマニズムから観て、より野蛮な蛮族とみなされる根拠となってきた。先進文化であるギリシャでさえこの点に関しては蛮族と同族だった。そのような「野蛮」な世界に浮かぶ、唯一の「人間世界」の象徴としてその「型」は輝いていた。それはいかにコピーされた稚拙なものであっても、奇妙な伸びやかさとおおらかさがある。かつてルノアールがセザンヌの才能として「ポンペイ」的なものがあると指摘し、ついに模倣者ピカソが手に入れられなかった「なにか」がここには確かにある。
現在のポンペイには観光客向けの土産物として沢山のテラコッタが売られている。それらはこの街のそこかしこに見られるレリーフや彫像、壁画をモチーフにしている。しかしそこには古代のおおらかさ、あるいは怪しい野性味、あるいは地中海的な明朗さはない。各々のモデルの特徴を手早く真似、強調した「キッチュ」なものしか見つけることができない。もはや「型」は受け継がれず、消滅してしまったかのようだ。それはもはやギリシャ的な自然主義そのものが死に、ローマ的なヒューマニズムが形骸化してしまったからだろう。そもそも今日、明朗闊達な人体像を造りだすことなど、何処の誰にも無理な話なのだが。
宮古のお飾り
昔とても美しい光景を夢で見た。綺麗な水にさざ波が立ち、岩山の島が見え、空は青々と澄み切っていた。それを見ている自分の後方から、にぎやかなざわめきも聞こえる。「ここが極楽か!」と夢の中で自分は直感した。その後しばらくこの完璧な光景が脳裏に焼き付いてしまった。
ある日、平泉毛越寺の浄土式庭園の写真を見つけ、「あれか?」と思い見に行ったが、ちょっと違っていた。しかし妻の実家のある宮古・浄土ヶ浜にはじめて行った時、「ここだったか」としみじみ思った。できすぎるほどの美しいこの浜辺は、おそらく日本人の持っているだろう浄土観に、スッポリとはまっている。なにより名前からして「浄土ヶ浜」だ。宮古の人間は子供の時から、干したサケをかじりながら、この浜で泳いできたという。いにしえの縄文人達も、同じようにここでサケをかじり、仏教以前の「極楽浄土?」を感じてきたに違いない。彼らはこの浜をなんと呼んでいただろう。
ところではじめて宮古に来て、浄土ヶ浜を観たその日、妻の実家でとても気になるものを発見した。台所隅の壁に見なれない「絵」と思しきものが貼ってあった。白い和紙に鮮やかなお多福か何かの絵が描いてある。正月に神棚等に飾られる「祝い絵」の一種に違いない。ただその「絵」は印刷製の型どおりの量産品ではなく、手描きのようであり、絵が生き生きとしていた。宮古地方では「おかざり」と呼ばれ、正月から一年中貼られるものらしい。宮古の漁業市場で12月末に限り売り出されると言う。その時来ないと買うことができない。なかなかその機会がなかったが、今年ようやくそのチャンスがめぐってきた。
宮古到着後、さっそく買いに行こうとしていると、「文昭くん、、あした日がいいから買うのは明日にしなさいね」と義母に言われる。そういうセリフが自然に出てくるところがすごい。翌日まで待って市場へ出かける。市場の隅の方に約十件ほどの「おかざり」専門小屋が立ち上がっていた。暮れの押し迫る寒空の中、素朴な屋台が軒を列ねる姿はとても感動的だ。「市が立つ」とは、本来こういう「今・ここ」という臨場感をともないながら体感されるものなのだろう。一つ一つの屋台そのものからして美しい。だが持って帰るわけには行かない。店ごとに作者の名札がぶら下がっている。売っているものや、絵の趣が各々の店によって異なる。一口に「おかざり」と言っても、馬、牛、稲荷、鯛、山神、七福、お多福、ナスにトンビ、がま口財布、餅、イカや魚の漁業風景、、、、など様々ある。酪農関係者、漁業関係者、商業、農業、林業各々の希望に応じてそれらが選ばれる。描かれる絵は一枚一枚手描き、手塗りであるが、伝えられてきている型があるようで、それをなぞっているようなある種の硬質感がある。そのため即興的に描き散らしたものでも、版画や印刷されたものとも違う奇妙な趣がある。紙の余白の白い間と強い色彩、簡潔な描写が響き合い、象徴的な力を失っていない。普通の大きさが一枚400円。その他注連縄、松飾り等も売られる。寒風吹きすさぶ暮れに、青々とした常緑樹の葉はみずみずしく、人の気持ちを浮き立たせるものだとあらためて気付かされる。一種の枯れ草である注連縄、生命力をほとばしらせた常緑樹、白い紙、鮮やかな絵、、、これらはどこか深いところで引き合っているようだ。
売り子は、その絵を描いた家の人々で、女性が多い。寒いのでコタツには入り、ミカンを食べたりお茶を飲みながら商いしている。ちょうどコタツ一つに二人座ると屋台がいっぱいになる。まるで雪でつくる「かまくら」に入っているようで面白い。「ちょっと写真を撮らせて下さい」とカメラを向けたりすると、「エッ?」と怪訝な顔をされる。暮れの宮古ではこれがあたりまえの景色なのだろう。
何よりもうれしいのは、この「おかざり」が飛ぶように売れて行くことである。どの屋台もひっきりなしに客がやってきて、次々と様々な「絵」が買われていく。いわゆる活気がある。こういうのが本当の生きている「絵」の文化なのかもしれない。こういう光景は今まで観たことがなかった。偶然、妻の縁で知ることになったこの「おかざり」だが、こういう今に生きる「造形文化」は、「伝統工芸」、「土産物」、「郷土玩具」、「美術」、「民芸」、「骨董」いずれの範疇にもおさまらない。一種の「呪術」として棚上げされ、見失われ、無視されることが多い。しかしこういう造形が人知れず様々な地域で、近代的なジャンル分けに囲い込まれることなく、今なお生きのびているのも事実である。そう思うと豊かな気持ちになれる。まだまだ日本も捨てたものではない。