バガン再訪
はじめに
バガンの飛行場に降り立ってすぐ、同乗していた日本人から声をかけられた。「日本の方でしょ。すぐ解りますよ。学術関係かなんかで来てるんですか?」。半袖半ズボンに大きなリック、禿げ上がった頭にバンダナの元気な老人だ。「イエイエイエ、、、、ただ来てるだけで、、」とどぎまぎする自分。日本の個人旅行者は何所に行っても学生か、ちょいその上か、年寄りがほとんどなので、自分のような中途半端な年令の者は少ない。また、この日の自分のいでたちは、めぐりあわせか上下とも黒系の長袖長ズボン。一昨年インドネシアで日に焼けすぎて以来、強い日ざしを腕に浴びると、すぐに赤く腫れ上がるようになり、なるべく外回りの多い日は長袖にすることにしていた。「ちょっと写真撮ってもらいたいんだけど。イヤ−独りでまわってると自分が写らなくてさあ」と、今降りたばかりの小型プロペラ機へ逆戻り。デジカメのボタンを押してやると、じっくりとその出来栄を確認し「ウン」と独りうなずく。「ホテルまでいっしょにタクシー、シェアしません?。その方が経済的でしょ。イヤーずっとこっちにいると金銭感覚が狂ってきちゃって、、。ところで今晩のホテル、何所にするか決めました?僕はねイ−デン・モーテルにしようかと思って。ニャンウイーのマーケットにも近いし、値段も安いし、、」と、老人のペースに巻き込まれそうになり、すかさず「一応僕はゴールデン・ビレッジ・インにしようかと思ってたんですが、、」。「エッ!何?何所?」と、あわてて『地球の歩き方』をむさぼる老人。「フ−ン、、、まあとにかく方向は同じだからタクシーに乗りましょう。タクシー代の相場は3000チャットらしいから」。と、正面に待ち構えるタクシーに直進。タクシー運転手の言い値は当然の様に相場通り。やはりミャンマーは楽ちんだ。と思ったら運転手の他に助手席に別な男が乗り込む。助手席の男は終始後ろを向き、これからのバガン観光の行程についてあれやこれやと勧誘してくる。「バガンははじめてですか?」と日本語でたずねてくるので「二度目」と答える。助手席の男も老人も一瞬黙り込む。「あーあなた見たことあるよ、前は川から来たでしょ」。「い−え、人違いですね。」と否定する私。すると隣の老人が「イヤー僕はタアウンヂ−の方をズ−と廻ってきたんだけど、あっちは凄い良かったよ!」と唐突に無関係な話しをはじめる。それから彼は降りるまでの間マシンガンの様に自分のこれまでの道程について自慢話を続けた。助手席の男は圧倒されビジネスの話ができず顔を引きつらせる。おかげで自分はのんびりすることができた。老人が目的のホテルで先に降りてしまうと、助手席の男はターゲットを私にしぼりこみ、あれやこれやと熱心に勧誘してくる。一応バガン−ヤンゴン間の航空チケットの値段をチェックすると「98ドルだけど、自分に任せてもらえれば95ドルで手に入れられる」と言う。「もし必要になったら連絡するとして、電話番号かなんかは?」と聞くと、「無い」と言いう。それじゃあどうするんだろうと思ったが自分の知ったことではない。その話はそこで尻つぼみになる。やっぱりミャンマーだ。
目的のゴールデン・ビレッジ・インに到着。支配人からコテージスタイルの部屋(4ドル)に案内してもらう。申し分のない部屋だったが入り口ゲート正面の部屋なので、まだ残っていた助手席の男と目が合う。部屋の位置を覚えられ毎日押しかけられても困るので、別な部屋にしてくれと頼む。すると奥まったスペースにならぶ新品のコテージに案内される。部屋代は8ドルだが広くて綺麗で助かる。クーラーの効きもすこぶる良い。一人では勿体ないほどの広さで、大きなダブルベットが二つある。さらにあと三つぐらい入りそうな程余裕がある。衛星放送完備で世界中の番組が入る。アメリカ、イタリア、フランス、インド、中華系(冬のソナタを中国語でやっていた)、日本のチャンネルにするとNHKの有動キャスターがアップで映し出された。「これが日本の顔か」と感慨入る。最近椎名誠が「ミャンマー人は9、11のテロも知らない」と言うような文章を書いて、ひんしゅくを受けていると聞くがもっともなことである(何処に行っても建物の屋根という屋根にはおびただしい数のアンテナが乱立している)。
しばらくのんびりしていると、「御機嫌だなあ」と1950年代風の独り言が口からもれる。なぜかミャンマーを旅しているとついつい出てしまうセリフだ。裏を返せば「御機嫌じゃない」ことに囲まれているので、稀に居心地が良かったり、気分が良かったりすると出てしまう。おそらく日本の経済成長期の『若大将』もそうだったんだろう。
シャワーを浴び、フロントに行って、バガン−ヤンゴン航空チケット代金をたずねる。85ドルで、明日には手に入ると言うので頼むことにする。さらに国際電話を頼む。隣のホテル・ロビーにつれていかれ、呼び出された初老のミャンマー人男性の携帯電話で日本に繋げてくれた。近くに食事するところはないかと訪ねると、すぐそこに新しくレストランができたと、わざわざそこまで案内してもらう。日も落ちて暗い野外にテーブルがならぶ。ロウソクが灯され、足下には蚊取り線香もたかれる。うっすらと照らし出される客は全て白人ばかり。ようやく涼し気な風が吹きはじめ、BGMに流されているボブ・ディランに虫達の声が交じり暗闇の草原にこだまする。マンダレービールを飲みつつ、やっとひと心地ついて「御機嫌だなあ」と思う。しばらくして「ガキッ」と、口の中に違和感が走る。さっきから口にしているヴェジタブル・チキンライスがひどく不味いのに気付く。急に酔いが醒めた。暗すぎてまともに料理も見えない。砂まじりの風が吹き抜けていく。地べたに置かれたテーブルはちょっと傾いている。こんな所で自分はいったい何してるんだろう?5年前も思ったがバガンの料理は不味い。
翌日はチャーターした馬車でバガン遺跡群を廻る。以前から親しんできたパゴダや寺院内の仏像の顔が、一様に乱暴に塗り込められていてショックを受ける。写真集等に大きく掲載され広く知られてきた仏像までも、新たに金や銀、漆などによって、無機質に塗りつぶされてしまった。長年周囲の住民によって形づくられ、受け継がれてきたはずの精妙な表情、ハーモニーというものが、ここで一気に破壊されている。上座部仏教での定期的なメンテナンスでは、風化や染み、色褪せ、渋み、、など容赦なく取り除こうとするらしいが、今回のこれはそれにしても変である。汚れや破損というレベルではなく、固有の「表情」までをも消しさってしまった。あの美しかった内部空間のもっとも重要なコアに土足で侵入し、それらをことごとく粉砕してしまっている。この一様さ、粗暴さは個々の人間の仕業ではなく、大きな冷たい力の存在を暗示しているように思う(ヤンゴンのシェタゴンパゴダもだいぶ以前から同様の破壊的メンテナンス?を受けている)。はじめて具体的にミャンマー軍事政権への憎悪が自分の心に沸き上がった。
翌々日、遺跡巡りに失望した自分は、「買い物巡り」に切り替えることにする。朝早くレンタル自転車で出発。暑さが最高潮になる昼過ぎまでが勝負だ。昨日廻っている時に偶然目にし、買うのに躊躇してしまった木彫りの猫が第一のターゲットである。30〜40センチはある古びた物で、目玉にルビーの様な赤いガラスがはまっている。昨晩からにわかにその猫の存在が気になってしょうがない。ただ何処で目にしたか今一つはっきりしない。しょうがないので昨日馬車で廻った寺院を一つづつ廻る。ティ−ロ−ミインロ−、アーナンダー、タビイニュ、ダマヤンヂ−、ゴドーパリイン、マハ−ボディ−、、、としらみつぶしに廻るが、どうしても、小さな即席の台を一つ置いただけで商売をしていたあの青年が見つからない。そのうち砂に車輪がとられ、日が高く登り、汗が吹き出す。諦めるしかない。このままだと熱中症になってしまう。
あいかわらずバガンの主な寺院やパゴダの前や参道では、沢山の物売りが観光客を待ちかまえている。5年前にくらべて良いものの割り合いがとても少なくなったようだ。例えば木彫りでも長年コピーを重ねた結果か、相当精度が悪くなっている。昔の売れ残りも底をつきはじめたようだ。宿に帰る前にシェーズィーゴンパゴダへ寄ることにする。
シェーズィーゴンパゴダの参道で
シェーズィーゴンパゴダはバガンのみならずミャンマーを代表するパゴダの一つである。宿に近いのでいつでも行けると思い最後まで行かないで取っておいた。長い長い参道には沢山の土産物屋がたむろっている。5年前にはいくつか良いものが手に入った。この日も幾人かから面白いものが買えた。この参道の売り子はどういうわけか相当しつこい。粗末な屋台(?)の品々を見ていると、かならず腕を捕まれ、ちびたイスに座らせられる。腰を据えさせられると何か買わなければならないような気になる。ごちゃごちゃとほこりのかぶった品々の中から許せるものを探すには時間がかかるのでしょうがない。何もいいのが無い場合でもがんばれば蒟醤(キンマ)を入れる漆容器(1〜3ドルほど)ぐらいは見つかるので、なんとかお茶を濁して隣の屋台に移るのを許してもらうことができる。イラストの赤い漆の猫の置き物もこの時5ドルで購入した。
ところでミャンマー寺院の構造を把握するにおよび、一つの期待を抱くようになっていた。自分の知っている大通り沿いのこの長い参道以外に、まだ他に参道があるのではないだろうか?という期待である。5年前は慌てていてそれに気付かなかったが、これだけ大きな聖地であり、シンメトリックな感覚の強いミャンマー建築のことでるから当然あり得ることだ。参道の発見は大量の土産品の発見に直結する。
その期待は見事に適中した。反対方向にもう1本の参道が口を開いているではないか。まるで今まで知っていた世界の他にもう一つパラレルワールドを発見したような驚きだ。実際にその参道を歩いてみると予想を上回る濃密な土産物群だった(写真はその参道の終わり際にあった張り子屋)。先の参道が観光客様だとすると、こちらは完全に現地人のためのものだ。そのバロメーターはなによりも様々な供物(花や造花、ロウソク、線香、鈴、金箔、仏像など)の店が軒を列ねているところであり、さらに言えば様々な張り子を扱う店があることだ。これらの物品の有無は、その寺院やパゴダがどれだけ現在の人々の信仰を集めているかをものがたる。バガンの数千のパゴダや寺院群の中でもこのような物品が売られるところはこのシェーズィーゴンパゴダの他いくらも無い(川辺にあるブ−パヤ−パゴダには土着神ナッ神の張り子が沢山売られていた。ちなみにヤンゴンではシュエダゴォンパゴダ、ボウタタウンパゴダ、チャウッタ−ヂ−パゴダで。マンダレ−ではマハムニパゴダ、マンダレーヒルで。パゴーではシュエモードパゴダ。ザガインではカウンムードパゴダで確認したにとどまる)。店や人の数は先の参道の10倍近くある。案の定今まで見たこともない張り子を多数確認する。達磨の張り子などをとりあえず購入。驚かされたのは子供が実際乗れるほどの大きさの馬やトラの張り子が多く見られたことである。模様や形態も独特なものだった。今回の旅も後半に来ていてもはや荷物が限界に達し諦めるほかない。
いつの間にか両手が土産物の包みで埋まって来たので、かんじんのパゴダへもどりゆっくりと参拝する。中心エリアがドーナッツ状になっているのでだらだらと一周する。すると突然現地の女性に呼び止められた。顔中タナカが塗り込められていて白い饅頭の様になっているおばさんだ。「さっき自分から漆の猫を買ったでしょ」と私の手荷物を指差す。するとなれなれしく寄って来て、「プレゼント」と言いながら何かをカメラのヒモに括り付ける。1秒ぐらいの出来事だった。よく見ると小さなミミズク人形だ。「OKーOK−」と言いつついなくなる。
帰路最初通った大通り側の参道へ引き返す。案の定、観光客ズレした土産物屋達が手ぐすね引いて待ち構えている。沢山の女達に腕をつかまれる。その中にさっきの白い饅頭の様なおばさんが混じっている。「さあそのミミズクをやったんだからあたしの店で買いなさい」とは言わないが、そういう目つきでがっちり腕を捕まれ椅子に座らせられる。ミミズクで呪文を掛けられたように抵抗できない。しょうがないのでまた何か買おうとするがめぼしいものが見つからない。荷物が膨れ上がっていて資金も少なくなっているので、小さくて値のはらないゆるせるものを探す。これは5ドル、そっちのは8ドル、となりのは、、、と矢継ぎ早に提示されるが、どうしても見つけることができない。まわりの店の人々が集まって来て目をギラつかせている。汗が吹き出て目眩をもよおす。タダほど恐いもには無い。やっと見つけた機織り機の部品である孔雀の木彫り(二つ一組)を値切って購入。ホッとする間もなく「さあ次はこっちだ」と別な店の女に引き立たせられる。今度はまったく買うものが無い。「いででっ!」。パスして立ち去ろうとすると左腕にものすごい激痛が走る。女がつねってきた。顔を見るとすごい形相で冗談というわけではないようだ。同じ店にばかり金を落として不公平だというのか。今日の一家の糧を稼ぐのだから切実感が違う。自分の顔から薄ら笑いが消えて行くのが解った。すり抜けようとすると今度は大きな男が立ちふさがる。両手に木彫りのカエルを持っている。さっき来た時にカエルの木彫りを買った男だ。「また買え」と言う。さっき買ったカエルにくらべ品質が悪い。重いし絶対に買いたくない。「いらない。いらないといったらいらない。ノーノ−ノ−オ」と徹底して断るが、「なんで?なぜ買わない?さっきのを買ってなぜこれを買わない?さっきのより安くしてるのに??」としつこくついてくる。この男も必死の形相である。参道の外まで追いかけて来た。彼にしてみればあのカエルを買って、これを買わない理由が解らないのだろう。単なる金持ちの気まぐれにしか思わない。こっちにしてみればさっきのカエルとこのカエルの間には「ルビコン河」が流れているのが見える。断じて渡るわけには行かないのである。
ヘトヘトになりながら宿に戻る。自転車を返し荷物を置いて、昼を食べに再び外へ出る。昨日馬車の運転手に「うまい」と教えてもらった店に行く。味の方は昨日も試してみたが少々首をかしげざるを得なかった。しかし現地の人々が常にたむろっている現地人推薦の店であることは確かなので今一度確かめることにした。ここでカレーを頼むとチキンカレー、川魚のカレー、マトンのカレー、様々な付け合わせ、山盛りの生野菜、お代わり自由の米、数種類のデザート(果物、お菓子)等がセットになって運ばれてくる。これで150円ほど。こういう形はミャンマーの伝統的習慣らしい。「この店は毎朝新しくカレーを作るので新鮮でうまい。フレッシュ!グット!」と馬車の男は言っていた。そのためなのかどうなのかカレーの中の大きな肉隗がどう考えてもナマ臭くて食べれない。煮込みが足りないように思える。前回大量に残したので、今日は特にチキンカレーのみを頼む。しかし通じなくてまたフルコースが運ばれてくる。同じようにナマ臭いので大量に残してしまった。やっぱりバガンの食べ物は不味いと思う。
こけしの発見
発見
「おまえには文化がない!」と師匠の高山登氏から恫喝されたのはもう17年以上前。まだ僕が大学1年生だったころのコンパでのことだ。「おまえには○○がない」とか「おまえは○○だ」という「お叱り」は日常茶半だったが、その中でも今振り返るとこの言葉はその後の学生生活を何割か決定付けてしまったように思える。
当時の軽薄な日本回帰やポストモダン的文化流用を嫌い、様式や色彩、フォルムといったものは自分の中にしっかりと「所有」しなければならず、所有できなければ安易に作品に使用してはならない、という師匠の暗黙の教えは未だに自分の中に根を張っている。
新興住宅、核家族に生まれ育った自分が、いかに内発的な造形力を身に付けられるのか、もちろん欧米や各種伝統などもろもろの模倣は論外である。あてのない模索がはじまる。ただ一縷の望みが無いわけではなかった。
が、長くなるのでここで述べるつもりはない。
ただこのころからうろうろと「何か」を探す目線で身辺をうろつく様になった。そんな学生だった頃のある日、僕は突然「こけし」を発見したわけだ。 近所の仙台青葉城趾をぶらついていた時だ。
路上の人だかりをかき分けると一人の男が轆轤をひいていた。伝統こけしの実演会である。見たことのない色鮮やかな色調、無造作で味のある手早い筆致、ズレた表情、、。「むむむ、、こけしもやるじゃないか!」と眼からウロコが落ちて衝動的に購入した。イラストのこけしがそれだ。宮城県白石鎌先温泉地域に発する「弥次郎系」の典型的なものだと知るのは後のこと。手早くつくってあるので、ろう引きもされず、通常底に書されるサインもない(おそらく作者は國分栄一だろう)。何も知らずに買ったものだが今見てもなかなかのものだと思う。弥次郎ならではの派手な色調、フォルム、実演会という特殊な状況下での即興的ものづくり等が微妙に作用し、自分の心の琴線に触れたのだろう。普段見慣れたはずだったこけし的先入観をはみだし、何か「得体の知れないもの」を垣間見せてくれた。
「こりゃあ、アフリカやニューギニアに負けないな」というのがその時の実感だった。「赤ベコ」のところでも触れたように、近現代日本美術で満足に色彩を使えた人はほとんどいない。近代以前でも日本の伝統は地味なものか、金箔に覆われたもの、漆で光ったものが多い。さらにこの「人形・ひとがた」のたたずまい、顔はまさに日本人、しかも東北人そのものの様に思える。高村光太郎などがあれほど苦労してつくる脱西欧的日本人像の貧相な感じや、船越や佐藤忠良のバタ臭さを軽々と凌駕している。それをこんな自分の足下で発見するとは。しかもその感覚は自分の内側にしっかりとつながるもので、つまりそれは自分自身の再発見でもある。ロダンは「明暗で見なさい」と言うが、それはグローバルスタンダードではないのだ。
その後こけしの魅力の虜になった自分は、猛然とこけし収集にのめり込む、、と言うことにはならなかった。よく見かけるリック一杯にこけしを買いまくるおじさん達の様にだけはならないよう用心してきたということもあるが、今つくられているこけしのほとんどが買うに値しないしろものに成り下がったことに起因する。
そもそもこけしとは
よく「こけし」と聞くと「グフフ」と小さく笑う人がいる。半分馬鹿にしているのかも知れない。しかし「人形王国」日本において、昔から「郷土玩具の王様」とされ、その質、量、バリエーションともに世界屈指の郷土人形であることには疑う余地がない。同時にそれは世界でもっともシンプルな人形でもある(手と足が自立していない人形は世界でも稀である)。江戸の粋と東北的体質が融合したこけしはまた、シンプルなだけではない深い味わいを持つ。西洋の人形が「愛らしさ」に終始するのにくらべ、その趣が驚くほど幅広い。渋さ、枯淡、華麗、甘美、野趣、グロテスク、、、様々なこけしがある。
このような「こけし」には造形文化のあらゆる問題がみっしりと凝縮していていろいろと勉強させてもらった。
例えば以前東京のある画廊でのオープニングパーティーでこんなことがあった。美術展にもかかわらずなぜか「こけし」の話題になり、最近の「こけし」の堕落について喋っていた時である。ある女性ギャラリストが「でも今には今のこけしならではの良さがあるはずでしょ?美意識ってその時代々によって変わるんだから。」とあびせかけてきた。確信めいた口調である。そこで僕は「いや、いや、今のこけしには「デロリの美」がなくなってるの。」ととっさに分けの解らないことを口走った。相当酔いがまわっていたようだ。「?デロリって何?!」といぶかしがる彼女に、横に居た誰かが岸田劉生が主張した美意識であるうんぬんと説明してくれた。「デロリの美」も知らないでギャラリストやってるのも困ったものだが、彼女の様な思い込みは、こけしの実体を知らないからと言うよりも、背景に相当根深いものがあると推察できる。それはまがりなりにもギャラリストという「業界」内的発想に起因していると視た。例えば「ファッション」業界が良い例であるが、そこではつねにその時その時の流行が設定され、それを中心に業界が半永久的にまわって行く。その流行が数十年前の焼き直しであるとか、なんら根拠がないとか言っても無意味である。ファッションは十年前に総べて完成し、あとは堕落一直線であるなどと主張してしまっては「今」売るものが無くなってしまう。日本の美術も「ファッション」と変わらないので(事実ギャラリーとは名ばかりで元ブティックスペースを改造したものが多い)、美術が終焉して「新しい」ものが無くなっては困るのである。作品は「ネタ」と同じで、次から次へととぎれなく目の前を流れて行くことが望まれ、「ネタ」そのものの「質」的優劣は問題にされない。唯一「新鮮」さのみが問題となる。「業界」の論理と歴史的真実はまったく食い違わざるをえない。
永遠に回転する農耕民族的周期に対し、歴史という概念、芸術文化というもののあり方、これは全く双反せざるを得ない。ある事象を具体的につぶさに観察してみると、その歴史、あるいは分布状況において大きなムラ、断層、そして「進化」、「衰退」と呼ぶことができる連続性が存在することに気付かされるに違いない。素朴で泥臭い創成期をへて、段階的な発展期、そしていわゆるピークと呼ぶに相応しい時期、その後の成熟、熟成、洗練、過剰、形式化、空洞化、衰退という経過が確かに存在する。またそれとは別にその文化形式が適している、盛んな地域と、適していない、希薄な、あるいは存在できない地域があるのも目にするだろう。そのような「ムラ」はいわゆる高度化された文化、芸術などでは顕著である。逆に例えば人類の「歩き方」や「話し方」などという普遍性のある基本文化では、差異はあっても、進化とか衰退という言葉があてはまらないだろうが、、。
いわゆる「こけし」という小さなジャンル、江戸後期から昭和にかけて、日本の東北地方という大変限られた範囲に、高密度に凝縮限定される文化形態を観ていると、そのような芸術文化が持つ生理のような原理を俯瞰することができてしまう。中世イタリアの諸都市、特にトスカーナ地方の群小都市国家各職人工房が競い合うようにして発展して行く西洋美術の有り様のアナロジーともなる。進化と衰退以外にも例えば、形式と個人、工房と個、伝統と創意、時代と個人、風土と造形、共同体と作り手、、、様々な普遍的問題、葛藤、試行がここにはっきりと凝縮して見出し得る(例えばここで詳しく触れられないが、こけしをつくっていた「木地師」という特殊な人々の存在のしかたは、いわゆる近代以後の「アーティスト」の存在とある種の相同関係が感じられたりする)。その認識は西洋美術史上の概念や通念に先立つものであり、だからこそそそれらをを他の文化、日本の土壌に当てはめようとするものではむろんない。あくまでも身近な文物に接する中で自然に培われざるを得ない認識としてそれはあるのだ。このような「こけし」文化の体系的観察は、自分に美術、外来の概念をそのまま受容させるのではなく、それを批判的に受けとめ、推し量る、あるいはろ過するためのもう一つの物差を実体として自分自身の中に形成させてくれたように思える(例えばそこで西洋美術の持つ特殊性、ゆがみが逆照射されてもくる)。それはいわゆる西洋美術の模倣、反美術、アイロニー、日常、自然逃避、、、以外の何ものかを自分に与え続けてくれている。
ルーツ
そのような「こけし」であるが、そのルーツは今なお明らかにされてはいない。ここでそれに触れるつもりはないが、自分として一番不思議に思うのは、江戸、明治期と確定されるこけしがほとんど遺されていないという点だ。例えば同じ郷土玩具とされる土人形や張り子では江戸期のものはざらに転がっている。それらよりも丈夫で壊れようがない木寓・こけしがなぜ遺っていないのか?もちろん様々な証拠から、江戸後期から沢山つくられ受容されていたことは確実なのだが。一つの推理は、わざと故意に遺さなかったという線だ。ある種の習俗として定期的にそれが捨てられ、あるいは燃やされていたのではないか?例えば正月に毎年聖火で焼かれる前年の縁起物、お札、達磨、恵比須人形のように。そもそも子供の成長を見守るという「ほうこ」人形のベースには、成長とともに葬られるというニュアンスがセットされていたのではないだろうか?時代が下るにつれそのような習俗が希薄化し忘れ去られたのか?それにしてもおびただしい研究者達の聞き取り調査にそのような話がほとんどあがってきていないのは不思議だ。いずれにせよ一般的に言われる温泉地のお土産、お祝人形という意味合いにその初期段階から終始してしまうものとは思えない。もしそうならば古い遺品が土人形程度には遺されているはずで、この一点からしても今日同じ「郷土玩具」というジャンルに入れられている両者が本来異なる意味合いにあったのではと予想される。
ところで江戸後期からつくられてきたというこけしだが、そのもっとも古い資料として近年宮城県作並から発見された「岩松文書」が有名である。そこには既に「こけし」(こけしという名称はない)が大きさ、料金の面で、細かく何段階かに規格化されていたことが印されている。現在の作並系はもともと山形系の小林一家をルーツとしている比較的新しいものである。であるので、現在のとは別に消滅した「古作並」系というものがあったということが予想されてくる。そしてその「古作並」系は山形系の小林一族、仙台の高橋胞吉などのルーツではないかと推測が進む。全国屈指の大名である伊達家の奥座敷・作並温泉境で世界屈指の「人形・木寓」が発祥し、伊達領および奥羽山系を中心に伝播して行ったというのはある意味で至極もっともな可能性ではないか(これまで三大こけし発祥地とされてきた土湯以外の鳴子、遠刈田は伊達・奥羽山系にある)。
さてその作並という土地。現在の宮城県と山形県の県境、仙台平野に流れる広瀬川の源流域、奥羽の懐こそ、我々「青亀堂」が起動する場所でもあるのだ。これも何かの縁に違いない。