ベトナムの雑貨1
ホーチミンの街
2006年8月ベトナム・ホーチミンに向かう。ちょっとした美術展に参加するためでる。というのは口実で、ついでにカンボジアのアンコールワットに行くのが真の目的だった。もともとこの夏にアンコールワットに行こうと思っていたところに、ベトナムでの展覧会の話があり、ちょうどいいので参加することにしたというのが実状である。日程的にベトナムはホーチミン以外は回れそうもなく、ハノイやフエやチャンパの遺跡等を観ることができないのが残念だった。搬入や展示やオープニングセレモニー等でホーチミンばかり計5〜6日間ほど滞在しなければならず、その間この街のいろいろなところを歩き回った。
最初の日の朝、ホテルの窓からの景色に胸うたれる。ごちゃごちゃと雑居ビルが折り重なっていてなんというかデタラメな感じがすばらしい。かの前川健一は「ホーチミンは便所の様だ」というような形容していたが、まさしくそのとおりでどこもかしこも生暖かい微妙な匂いが立ちこめている。早々に宿を出て朝食ができそうなところを探す。最初の食事はぜひともあの有名なフランスパンとベトナムコーヒーでと固い決意をしていた。手ごろな店を探していると、オートバイやシクロ(人力自転車)の運転手が声をかけてくる。断るとそれ以上は声をかけてこない。しつこいインドとは全然違う。かなり歩いたところにフランスパンの屋台を発見。しゃがんでいるおばさんがそのままのフランスパンをくれようとする。「ちがう」とジェスチャーするととなりのおばさんがいろいろ具を入れて調理したやつをくれる。5000ドン。40円ぐらい。店の中で食べろというので中に入り席につく。コーヒーもたのむ。アジア料理研究家である前川氏をして「毎食フランスパンでもいい!」とうならせるほどたしかに美味だった。パンの表面はかりりと香ばしく(火でちょっとあぶるらしい)中は腰がある。具は味も歯ごたえも変化に富むように工夫されながらトッピングされている。本場パリでも食べたがそれよりもあらゆる面で凌駕している。ベトナムコーヒーもなかなかうまい(コーヒーと思わなければだが)。アルミ製のフィルターごとわたされて下にポタポタと落ちるのを待って飲む。下に入っている練乳とまぜると化学変化がうまれ、キャラメル的な香ばしい旨味になる。お土産などで日本で飲むとまずいのだが現地で飲むと妙にうまいのは何故だろう。ついでに後日なんどもお世話になるベトナム独特の「チェ」という食べ物(飲み物?)についても書いておく。かき氷とパフェと何かを合わせたようなもので、街のそこかしこで食することができる。専門店も多い。写真はチェ専門の人気店の店員達(どのチェ店も少女達がつくる。なぜだろう?)。様々な具(果物、寒天類、白玉?、ナタデココ?マメ類、木の実類、練乳、、等がいろいろまぜられている)があり選ぶことができる。暑いこの国では本当に有り難く一服の清涼剤以上のものである。
さて生まれてはじめてのベトナム・フランスパン、コーヒーの朝食をとっていると、前テーブルの男がふりむきながら自分に話しかけてくる。嫌な予感がしたので適当に対応し、ひたすら自分が今どこにいるのか外の標識と手持ちの地図をすりあわせる。店員の愛想もよくコーヒーもタダなのだとか。とても気分良く席を立つ。しばらく歩くと、「わすれた?」と日本語で声をかけてくるバイクの男がいる。ようく見るとさっき自分の前に座っていた男である。いろいろ案内したいという。ことわりながら問答をしていると、すごいスコールが降ってきた。急遽側の軒先きに入り雨宿りする。その男も一緒に入ってきて問答も継続される。雨はやむどころか凄みを増して軒先き程度ではしのげなくなる。男にうながされながらその建物(喫茶店裏)内に逃げ込む。雨が室内に入るので店のおばさんがドアを閉めてしまう。やがて雨宿りの二人のために椅子まで持ってきてくれる。もちろん二人分だ。間が悪いことはなはだしく、最初の散歩でこの手の男に「監禁」されるはめになった。スコールは凄い勢いで、みんな全身カッパで身を包んでいる。無意味な傘を持っている人間は皆無だ。5秒外に出れば全てがずぶぬれになるだろう。「やれやれ」とこの男とマッタリと問答を続けるほかない。この男は3ヶ月前に結婚して夜はレストランで復業しているとのこと。これまでガイドした日本人の感謝状のような手紙を次々と見せられる。一目見ればそれが日本人が書いた文字ではなく、彼らが引き写して書いたものだとわかるしろものだ。今まで読んだベトナム関係の本の知識では、特にこの手のシクロ(現在はほとんどいなくなりバイクタクシーに様変わりしている)系の人物とのトラブルに注意が必要で、彼らは約束重視で非常にシビアで徹底しているということである。であるのでここでいっさいのあいまいな返事、約束は是が非でも避けなければならないと感じた。頑強に断りながら、思いつきで数日後に開催予定の美術展の案内状をわたした。自分も出品すること。そのために今自分はここにいるのだということ。会場はこの近くの美術館で、オープニングパーティーもやるのでよければどうぞ、、というニュアンスで。男は案内状を受け取ると顔を曇らせ、クシャリとそれを二つに折り曲げる。わかりやすい男である。以後彼のプッシュは格段に弱まった。そうこう30分程雨宿りするとようやく小降りになったので外に出て歩き始める。「バイバイー」と言うともうこの男はついてこなかった。前川健一の言うとおりクールすぎもせず、親切でいろいろ教えてくれるが、あるところで距離をわきまえていて、サクッとしていてプライドもある。いまのところベトナム人の印象はいい。日本人の良識と通じるところがある。この日はベンタイン市場や骨董通り、展覧会場の美術博物館、旧市場、チャイナタウン(チョロン)等をまわった。終始雨模様でズボンやサンダルが水浸しになり、足の底の皮が危なかった。
水上人形劇
翌日朝食に牛肉のフォ−を食べ博物館へタクシーで向かう。ベトナム名物の水上人形劇を観るためである。9時から博物館内の中庭で公演が行われるはずになっていたので、8時半ごろに到着。はじまるまでベトナム歴代の展示品を急いで観てまわる。9時5分前に会場に行くと、受付のおばさんが「ブッキング」とかなんとか言う。9時の公演は中止。10時公演からスタートということだ。人が少ないので適当にそうなったようだ。失礼な話だ。時間までもう一度展示品を観たり、固い木の椅子に座ったり、売店を物色したり(市場で売っていた同じ焼き物が10倍の値段で売られていた。社会主義で国営のはずなのにどうしてこうなるのだろうか?)、ゴキブリの死骸をデジカメで撮影したりして時間を潰すが、なにしろクーラーはなくて暑いので大変だ。15分前に会場へ。椅子はすべてバンブー製で涼し気だ。となりが動物園のせいか匂いがたちこめ、これからアシカのショーが始まりそうな感じ。客は自分の他白人の親子3人と日本系?の大人4人で計8人のみ。ベトナムには、インドネシアやビルマやインドに見られるような操り人形の文化とはちょっと系統の異なる、このユニークな水上人形劇がある。本場はやはり北の都ハノイ方面で、かの英雄ホーチミンも好み、子供達のために常設の劇場をつくらせたとか。現在では政府が組織する劇団等多数の各地域劇団が存在しているらしい。約1000年程の歴史を持ち、当初の農民による水田での民間芸能から宮廷文化にまで発展してきたという。題目は民話や神話を題材にしたもので短時間にいくつも演じられて行く。様々な顔、格好をした人間、動物、鳥、竜、虎、亀等が登場してくる。人形達を動かす原理は背景の建物の簾のうしろから棒状の仕掛けで操られている。当初人間が水中に潜りながら下方から操るのかと思っていたので軽い落胆を感じた。資料によれば本場ハノイ方面では、生演奏、生歌に熟練した技術で大変豪華に演じられているようだ。この南の果てのホーチミンでは、写真でも解るようにどこか気抜けしたような阿呆らしさが拭い得なかった。暑い気候の中涼し気に水をパシャパシャさせて遊んでいるといった趣だ。音楽も録音テープだし、人形の動きもせわしなく動くわりに、せっかく水上でやることの意義を生かし切れていないように感じた。その点アイガモの親子や船に乗って漁をする人間等の動きは面白かった。いずれにせよこれは本場のハノイに行って観なければ全然解らないように感じる。またベトナムにこなければいけない。
この水上人形だが現在は完全に観光資源になっているようで、人形が独立した商品になって量産されている。方々の土産物屋や市場に大量に並びベトナムの顔となっているようだ。ホーチミンでの人形劇は北に劣るようだったが、人形そのものは写真で比べる限りそれほど変わりはない。というよりもおそらく北でつくられたものも多くこちらに運ばれているに違いない。種類も表情も豊富で大きさも様々なヴァリエーションがある。亀や竜の様な動物もあるし、人間の手が動くようになっているものも多い。水にやられないようにもともと防水のため漆を下地に塗り、着彩されていたらしいが、そのためかどの人形も少々安っぽくテカテカ光っていて好ましくはない。加えてメタリック気味な着色になっているものも多い。つくりは大変大雑把である。自分としては当初買っていいものかどうか迷っていたのだが、ギリギリの線でルビコン河を渡ることにした。しかし一旦渡ってしまえば「サイは投げられた!」である。次から次へと見つける度に買いまくることになった(イラスト参照)。ベトナム的な意味での人形・ひとがた的な土産物が、現在他にほとんど無いだけに、この人形達は大変貴重なポジションにあるように見受けられる。
ベトナム戦争
公演が終わると外に出てすぐにタクシーを拾う。次に「戦争証跡博物館」に行こうとする。ベトナムのタクシー運転手はほとんど話しかけてこないので楽なのだが、この運転手は違った。さかんに市内観光やチョロン(チャイナタウン)を勧めてくる。そうこうしているうちにそれらしい建物の前に車を停める。「ここが戦争証跡博物館だけど今閉まっている。あと二時間待たないと開かない。どうする?チョロンでも行かないか?」。確かに建物の入口は閉ざされている。外は大雨で、一度車の外に出れば傘を出しても30秒でずぶぬれになるだろう。それにしてもあまりにもタイミングが良すぎる(悪すぎる)。ガイドブックにもこの時間閉まっているという記述は無い。一か八かここで降りることにする。「エッ本当に?」と運転手に薄ら笑いされながら車の外に出る。そうしてすぐに駆け出す。ちょうど駆け出した方向の角向かいに別な大きな建物があり、何となく華やか感じがする。ただ眼前の広めの道はバイクや車が走り抜け、なかなか横断できない。さらにあまりの雨の勢いで身動きがとれず木陰にうずくまる。ジッとしていてもずぶ濡れになるし、歩いてもずぶ濡れになる。まるでノルマンディ上陸作戦のアメリカ兵みたいだ。困ったなあと思っているとすぐ横の屋台をかたずけている男が、「あっちだ。目の前がミュージアムだ!がんばって早くこの道をわたれ!」とうながしてくれる。ものすごい雨とバイクの砲撃の中、決死の覚悟で突き抜けて向側の建造物の軒下に潜り込む。すると同じく雨宿りでそこを占拠しているブヨブヨッとした白人観光客達にはじき出される。軒下を点々渡り歩きながらなんとか切符を買い、展示場に入ってひと心地つくこころにはびしょ濡れになっていた。
最初の展示場はベトナム戦争の資料館になっていて、アメリカのどの部隊がどの地域で闘ったか等が精細に記され、それを見入る観光客も多くが退役軍人等をはじめとした直接的間接的な関係者のようだった。その次の部屋はいわゆる戦場写真展示場で、有名なピューリッツアー賞の写真や、戦場で亡くなった日本人カメラマン沢田教一などを紹介する展示になっていた。これらの写真をあらためて見ると、このベトナム戦争というものが歴史上大変特殊な戦争であったことに気付かされる。これほど戦争のまん中にカメラが入り込み、その写真がどれもこれも「古典的な」風格と、そして誤解を恐れずにいえばある種の至極真っ当な「美しさ」を持っていることに感動する。ジャーナリスティックな貴重さと写真としての美が同居しえている。おそらく人類はこのような写真はもう撮れないし、このような戦争ももうありえないだろう。次に本館に向かう。本館では被害者側の痛ましい写真がならぶ。その中に混じって枯れ葉剤によって奇形化した子供のフォルマリン漬けが展示されている。白人達(ほとんどアメリカ人)は気の毒になる程の神妙な表情で見入っている。
見終わって外に出ると雨があがっている。敷地内には沢山のアメリカ軍の兵器が展示されているのだが、目の前に有名な陸上攻撃用ヘリのアパッチがあった。しかも窓から機関銃が見えるではないか!当然「地獄の黙示録」の虐殺場面を連想し、その機関銃の銃口目指してふらふらとタイルばりの階段を降りようとする。その時雨で濡れたタイルにツルリと足を滑らせてしまう。ベチャッと仰向けに倒れ、ものすごい痛みが尾てい骨に走る。しばらく起きあがれずに痙攣していると、遠くから巨体の白人男性が駆けつけてきて手を差し伸べてくれた。「サンキュ−、サンキュー」となんとか起き上がる自分。見下ろす彼の表情は慈愛に溢れ、さながら甘ったるいホットミルクの様だ。彼の周りにいる彼の家族達も、みんなそろって自分の「生還」を祝福してくれている。哀れみと善意と満足に満ちた熱烈な歓迎ぶり。たった今、アメリカ軍の徹底的な残虐行為を見せられた彼らが、みすぼらしく転んだ東洋人に暖かく手を差し伸べる。博愛精神。人類皆兄弟。良いことをした。良いことをさせてあげた。罪滅ぼしだ。乞食の気持ちももしかしたらこんな感じなのかもしれない。尾てい骨の痛みはその後一ヶ月ぐらいぬけなかった。もしかするとヒビでも入っていたのかもしれない。
ベトナムの雑貨2
ベトナムと韓国
今回展覧会会場となったのは、ホーチミン市中心部にある美術博物館内の画廊スペースだった。この建物は中国系の金持ちが贅を尽くして建てた美しい建造物で、広い中庭がある。展覧会会場はこの中庭に面していたので、オープニングパーティーもその中庭で盛大に行われた(写真参照)。この展覧会は日韓交流展という形態をとっているため、写真に映っている人間の多くはベトナム在住韓国人である。実はこの国には多くの韓国人が住んでいるらしい。顔見せ会などでは韓国料理ばかり食べさせられた。韓国料理は嫌いではないので美味しく食べたのだが、ベトナムに来てなんで?と思わないわけではなかった。さすがにオープニングでの食べ物はベトナム系、インターナショナルな料理だったが、韓国人はイタリア人やインド人の様に自国料理以外食べないのか?と思わせるほどこだわりが強いように見受けられた。空港でも韓国便の多くの乗客が、各々キムチや激辛と書いてある段ボール箱を大量に持ち込んでいるのを眼にした。そういうわけで、このユニークな展覧会では、ベトナム韓国人会の強力なバックアップを受け、ホーチミン市市長をはじめ現地の多くの人がオープニングに参加してくれることになった。
韓国人のベトナムへの思い入れは相当なものがある。ベトナム戦争では南ベトナム政府(アメリカ側)に味方、参戦し、多くの犠牲を出したのだが、そういうことだけではなく、歴史的にもこの韓国(朝鮮)とベトナムはとても似ているところが多い。なによりもあの広大な中国の脅威と常に対峙してこなければならなかった。それも陸続きで。何度も戦争し何度も占領され何度もそれをはねかえし現在の独立を勝ち取ってきた。ちなみに中国の雲南省系、ウイグル系、チベット系、満州系等は現在のところ中国漢民族系の支配下にある。ベトナムや韓国の博物館に行くとほとんど戦争・祖国防衛戦争の歴史になっているのがわかる。蒙古軍を海岸線沿いで撃退した時の杭の実物が、戦場パノラマ模型とともに生々しく展示されているのを眼にした。冷戦時代にはこの両民族ともに、社会主義陣営と資本主義陣営に国家が分断され激しく殺しあいをしてきている。ベトナムは北ベトナムによる統一をはたしたが、朝鮮半島は未だに分断したままである。位置といい歴史といい規模といい、ベトナムと韓国は本当に近似しているのだ。
さらに、これまで両民族が生み出してきた造形文化にもある類似点を強く感じる。両国ともやはり軸は中国文明なのであるが、その中国文明の咀嚼のしかたが大変似ているのである。両民族とももともとそのルーツは大変古い。古代の大変土着的な文化(ベトナムでも紀元前に既に高度な銅鼓を生み出したドンソン文化があった)。そして中国文化の支配と接触をへて、しだいにブレンドが進行し生み出される民族創成期の生き生きとした段階。その後中国文化の摂取と、洗練化、内面化につとめる段階。あるいは脱中国化を試行する段階。フランスや日本の植民地時代。両国とも焼物に優れ、漆、螺鈿工芸も盛んで、仏像も多い。仏教も大乗仏教である。
そのうえでこの両国の造形文化に共通している最大のポイントは、中国の様な力と技術と余裕がなかったという点だろう。それゆえに中国的な様式、意匠を取り入れたとしても同様にはなりようがなく、しだいに崩れて行く。その崩れ方が双方大変似ているように見受けられた。木材や石材などのハードな材質による建物、家具、仏像等では中国的豪華絢爛さ、流動感、緻密さはなくなり、単純無骨なセンスに置き換わる。逆に焼物や書画の様な加工のしやすい素材では中国的な骨格、構造が文字どおり柔らかく柔難に崩されて行く。ゆえに見かけ上もこの両民族の造形で似ているものは数多い。例えば上述の「水上人形」の無骨な(稚拙な)姿や顔つきは、日本の人形やこけし等にくらべると解るように、様式化・洗練化以前の特徴を示しており、明確な「型」、「作法」が十分に確立されていないように見受けられる。その点で言えば例えば朝鮮半島の民衆レベルでつくられてきた、木製の「葬式人形」(棺桶の中に死者と一緒に入れる)の趣きに近いものがあり、泥臭い野性味と率直な魅力に富むものだ。この様な特徴はかつて日本の「民芸運動」関係の人々が好んだところでもあり、何でも力技の威圧的な中国文化と違って、それ自体十分優れたものであることにはかわりはない。しかしそれは言ってみれば中国文化の辺境番、中央に対するローカルな典型的展開とも言えてしまうものである。そうした観点であらためて日本文化も観なおしてみると、この両国とやはり少し違っているような気がしてくる。島国だったということや、社会構造や支配階級の推移が大変緩やかであったこと、民族の母体がより複雑多岐にわたっていることなど、基本的条件が異なっているからかもしれない。一言で言えば日本の歴代の造形の方が、より余裕があり、多様な幅があるように思えることは事実である。中国的な構造の崩され方も少々異なっていて、単純無骨になるのではなく、より洗練流麗に技工が屈指されて行く場合も多い。時にそれは悪い意味での技工細工的な工芸化に向かい、あるいは洗練を極めた「型」に完結してしまう。一方うまく行けば端麗、幽玄な日本的精神性を開示して行くことができる。つまり朝鮮における高麗青磁のような進化が、あるいは別種に分岐・発展した造形が、日本の造形文化の様々な場所で垣間見ることができるのではないだろうか?その点ベトナムでその水準に達しているものがあるのか?と考えるとまだ自分はそのようなものを観たことがないとしか言い様がない。あの素晴らしいベトナムのフランスパンの様な、独自な進化がどこかにもっとありそうではあるのだが。
ベトナムの中国文化
世界中にいる華僑だが、ごたぶんにもれずベトナムにも大変多い。ベトナム人と華僑、ベトナム文化と中国文化はとても似ているので見分けが付かないことが多い。ハシを使ったり、線香を立てたり、ソバを食べたり、漢字系の文字を使ったり、、、、。どこからどこまでがベトナムで、どこからが中華なのかはっきりできない。混在していて先述したのと同様に、中国南部のとある地方、中華亜種といった感が拭いきれない。先にベトナムと似ていると述べた韓国では、ハングル語の看板しかないし、色使いが独特だし、食べ物が唐辛子で真っ赤なのでそういう気持ちにはなりようがないのだが。
展覧会会場の美術博物館の横道に、ホーチミンで最も有名な骨董通りがある。ここに何度も通ったのだが、基本的にはほとんどが中華系のがらくた骨董で埋まっているという感じがした。実際にはベトナム産のベトナム的なものも多いのかもしれないが、その「ベトナム的」なもの自体がもともと中国的なので区別が解らない。写真は骨董通りのはしっこにあった露店。ここでいくつかの陶器を値切って購入した。大きな陶器製の「関帝」像(三国志の関羽。中国人の間ではもっとも人気のある神様になっている)もこの店で購入。写真でも解るとおり、一見すると全て中国系物産に見える。それにしてもこの骨董通りの店々は商売不熱心で、もうひとつ好感が持てなかった。不当とも言える値段がつけられ、容易に下げる気もなく、特に無理に売る気がないように見受けられた。こちらも特に無理に買いたくなるようなものがないので交渉もすぐに裁ち切れとなる。ベンタイ市場が近いのでこの通りには観光客が沢山来るのであろう。
初日、ホーチミンの中心部から、タクシーで「チョロン」(チャイナタウン)に向かう。つらつらと窓の景色を楽しんでいると、非常に目つきの悪い青年に眼が止まる。こういう嫌な表情がこの国にもあるんだなあとおぼろげに思う。と、そこが「チョロン」の入口だった。街の空気が一変したようだった。どの国にも中心部付近にチャイナタウンがあるものだが、ベトナム・ホーチミンのチャイナタウン(チョロン)も中央部からほど近いところに広がっている。大きさや、活気からいうとこっちがホーチミンの中心ではないかと感じることもある。人の顔つきも少々異なるような気がする。チョロンのビンタイ市場は中央のベンタイ市場よりも活気があり、つくりも古風で中華らしく提灯がぶら下げられている。中庭には池や植木のある中国風庭園がある。祭事用具エリアでは葬式用の紙製の模型があった。マラッカのページでも触れたが、華僑達は紙製の様々な模型を葬式で燃やす。紙製の黄色い民族衣装と赤い大きな馬を購入する。デザインから言ってもベトナム化された雰囲気を持っていて嬉しい買い物だった。
チョロンの町中には特に祭事用品を扱う専門店がならぶ通りがある。雨の中とぼとぼと探し求め何件もはしごし物色する。これらの店の中には、大きな獅子舞用のかぶり面や大黒様の様な太った人物のかぶり面を扱う店もある(写真参考)。中国に由来する獅子舞の形態は、北方系の北派獅子と南方系の南派獅子に二分される。日本の唐獅子は北方系のタイプがほとんどだ。東南アジアの華僑系の獅子は、ほとんど南方系のタイプで色彩が派手だ。この色彩は例えば三国志の英雄にちなんで、劉備獅(黄面に白ヒゲ)、関羽獅(赤面に黒ヒゲ)、張飛獅(黒面に黒ヒゲ)等と区別されているらしい。ベトナムのものも南派獅子だが、これまで観たどの国のものよりも肌理が大きいようだ。実際の大きさもそうとうある。あまりにも大きくて散漫な感じがするので買うのをあきらめる。代わりに孫悟空の様な猿のかぶり面と太った人物のかぶり面を購入する。その後天后宮(ティエンハウ廟)等の中国寺院にお参りしながらこの街を後にする。帰りのタクシーではとある学校の前で渋滞に巻き込まれ、女子学生達の大軍の中で車が立ち往生する。雨上がりの夕暮れ時、真っ白なアオザイに取り囲まれていると、ようやくベトナムに来たという実感が湧いてくる。
バチャン焼き
さてベトナムのもっとも有名な物産品の一つに、バチャン焼きという焼物がある。「ドイモイ」政策が始まったころ、日本の雑貨屋にも大量にでまわり、なかなか魅力的に思えたものだ。しだいに質を落とし、今では「ダイソー」にまで置かれていて100円で買うことができる。我が家では室内用の植木鉢に使っている。もともと北のハノイ近郊のバチャン村の特産品であるわけだが、これだけの量を本当にバチャン村だけでまかなっているのかは疑問だ。伝統的な技と型が少しづつ崩れてきている様に見受けられる。ホーチミンの広めの陶器専門店等でこのバチャン焼きをいろいろと物色していると、奥の方にある売れ残りと手前の新品の差が歴然としているのにいやがおうなく気付かされる。特に描彩は格段に甘く雑になっているようだ。観光客用の国営デパートにならぶバチャン焼きにいたっては、ほとんど別物になりかかっている。やはり本場のバチャン村に行かなくてはだめだなあと思った。
その後カンボジアのシェムリアップに行き、オールドマーケットを物色している時、ホコリまみれの汚れた焼物を並べる店に出くわした。その焼物はなかなか魅力的に思え、特に鳥や竜などの顔の付いた急須型の品ばかり5つ程購入した(イラスト)。店の主人は「カンボジアのものだ」と言うが、「はて?カンボジアにこんな粋な焼物があったかなあ」と不思議に思う。後日ホコリを拭いてよくよく見れば、これらは全てベトナムのバチャン焼きだと解った。少し古いタイプの様で描彩も生き生きと淀みなく冴えている。白磁の様な冷たさはなく、南国らしい暖かみのあるしなやかさに満ちている。「自由闊達」という言葉があるが、中国的な文化をベトナム独特に、より柔難に、より自由なものにつくりなおしている。やはりこの店でもっと沢山買ってくれば良かったと帰国後後悔する。顔の付いていない急須があと20個はあったのだが。
ベトナムミニマリズム
ベトナムを韓国や中国と比較してきたが、実のところ日本との共通点も非常に多い。特にその人間性は日本人のキャラクターに近似しているように思える(うわべしか観てないのだが、、)。まじめで勤勉、現実主義(現在は実利主義)、約束はだいたい守り、プライドも高く、シャイで抜け目なく油断できない。こすっからく無駄なことはしない。正反対である隣国クメール人とよく対比されるところのものでもある。街を歩いてもホテルの部屋の装備品を観ても随所にその個性が垣間見れる。写真は街中の歩道段差につくられたレンガ製のオブジェであるが、自転車用のものだろう。自転車の車輪は細いのでこれで十分なのだろう。適格で最小限の造形である。工業製品ではなく手仕事のたまものだ。機械的な合理性や見てくれは度外視されている。このようなミニマムな(最小限の)所作こそベトナム的な文化かもしれない。日本文化のある局面も相当ミニマルであるとされる(例えば神社の鳥居など)が、少々質を異にしているようだ。あるいはモダニズム的な実用性ならば、ある意味でその現実的で実用的な形態を誇らし気に主張するのであるが、そういった「ゴッツイ」感じも皆無だ。、モダニズムの機能美をはるかに超えて一切の余分がない。こういうセンスをここで「ベトナムミニマリスム」と名付けてみよう。
そもそも第二次世界大戦であのドイツ軍に勝利したのが、アメリカ・ソビエト的機能主義であったはずだ。ただその機能主義は大量生産の物量主義と同義だった。不経済で小回りの効きにくくなったドイツ軍に対し、アメリカ軍は着実に生産性を増加させて行き、質に対する量の戦いで勝利した。しかしベトナム戦争では、これが何故か逆転してしまい、アメリカ的物量作戦は、しなやかで適格で執拗なベトコンの「質」に敗北した。いわば西欧型モダニズムがベトナムミニマリスムに敗北したのである。ベトナムミニマリスムは、工場における大量生産という「量」ではなく、大地と人力に根ざした「質」に立脚するものである。実際にはアメリカ軍よりもベトコンの方がずうと多くの犠牲を出しているので、アメリカの敗北とは言い切れないようにも思うのだが(あの段階の国内外状況においてはアメリカにどうすることもできなかったのは事実だ。しかしアメリカの本気度が、第二次大戦中のドイツや日本に対したような総力戦のレベルには達していなかったのもまた事実だろう)。いずれにせよこのような「ベトナムミニマリスム」は、歴史上つねに闘い続けてきたベトナム人の冷徹な精神的伝統のなせるわざである。それは彼らをして、壮大豪華絢爛なクリエイションを捨てさせるに余りあるものなのかもしれない。