カンボジアいろいろ

2006年夏

 ベトナム・ホーチミンから約1時間。カンボジア・シェムリアップに入る。

 さっそくチャーターしたタクシー(三輪オートバイ)で、アンコ−ル遺跡地区をのんびり観光。

 運転手は、オールドマーケット近辺でてきとうに声を掛けた二人目(初っ端の一人目は、うるさそうな男だったのでパス)。大変もの静かで実直な青年だった。結果的に滞在中ずうと彼に乗せてもらうことになる。おかげで今回のカンボジア観光ではほとんどストレスを感じないですんだ。これはなによりも得難いことである。行き先は彼との相談の中でそのつど臨機応変に決めていった。誰にも邪魔されず、未見の遺跡群を、数日にわたって巡り続けられるのは、何にもましてうれしい。あまりの幸福感に、あの世へ来たよう。フワフワとした現実感のない日々を送る。自分はつくづく遺跡好きなのだ。

 「次」に何があるのか?という興味と期待の連続。適度な運動と休息。日ざしのさえぎられるタクシー内では、あたたかい東南アジアの風に包まれるようでとても気持ちが良い。柔らかいクッションに程よい振動。十分な量のミネラルウオーター。野鳥の鳴き声。ガソリンの匂い。それから運転手の実直そうな背中、、、。いっそ何処にもつかないままこのままだといいのに。死後、もしも天国に行くとすれば、こんな感じに違いない。頭と目がボウとかすんでくる。

 長い間、アンコールワットは、自分にとって最も行ってみたいとっておきの場所だった。今までここに来るのを我慢してきた(ちょっと前まで治安に不安があったということもあるのだが)。それが自分もいよいよゴッホの自殺した年令に達し(38才というのは、ゴッホのみならず多くの人物が命を絶ち、あるいはピークを越える年令である)、ある種の人生における曲り角に来てしまったかのようで、もう待つ必要はないと感じた。今まさに頂点に、世界の中心に、人生のまん中にいるという感覚。同時に鋭い郷愁が胸をつく。「この次どこへ行ったらいいんだろう?」と。

 クメールの体質

 ベトナムから直接このカンボジアに入ってくると、よく言われることだが、かなりの変化に驚かされる。どこか湿り気の多いホーチミンとうって変わり、ほっかりとした和んだ空気、色彩の芳醇な大地。ゆったりとした人間。昔のタイのような、、いやそれ以上に、東南アジア的土着体質をもっともっと煮詰めたような、、。

 まずシェムリアップの空港に着いてタクシーに乗った瞬間にその空気の激変を実感する。運転手は運転しながら後ろを向きつつ、どこか間の抜けた、英語と日本語のチャンポンで陽気にいろいろ話しかけてくる。目の前に展開する景色のものごとに関する解説、こちら側のこれからの予定に関する質問、売り込み等。それにくらべるとホーチミンの運転手はクールで、ほとんど余計なことは話しかけてこなかった。くどくどと売り込みなどせず、かせぐ−ダマス時は一瞬に鮮やかにやってのける(田舎と都会の違いもあるのだろうが)。

 遺跡廻りをしてくれた運転手の青年は、自分が遺跡観光から戻ってくるのをボンヤリと何時間でも待っていてくれる人物だった。例えば物凄い数の観光客とタクシー等の運転手が入り乱れているアンコールワット正門前でも、自分が所定の場所に戻ってこなかったら?とか別の運転手に乗り換えてしまうのでは?等とゆめゆめ疑っていない様子だった。他国の運転手達のように疑心暗鬼と欲得で目をギラつかせながら、こちらが出てくるのを監視しているといったふうは微塵も無く、常にどこか遠くの木陰かなにかへ行っているようで、こちらの方で彼を探さなければならないことがしばしばだった(約束の日当は後払いなので未払いのままなのに)。そういうゆったりとした様子が各所で垣間見え、やはりクメ−ル人は凄いと痛感させられた。「芸術と戦争が得意」と自称?する彼等は、ひとたび怒らせると恐いと言うが、どうも近現代人的尺度が当てはまらない、底知れぬ不気味さを持っている。

 ところで突然だが『キリング・フィールド』という映画は戦争映画の中でも地味豊かで好きな作品である。ポルポト派の恐さがよく伝わってくる。これほど恐い映画はあまりない。クメール・ルージュの恐さには何か独特のものがある。人類という存在が昆虫なみに軽く、同時に天然自然の完全体に接近していくかのような、、、近代理性がクッション無しに原始世界と合体して暴走してしまったかのような不気味さ、、(それは旧ソ連や中国を凌ぐ)。

 カンボジアの国旗には誇らし気に「アンコールワット」が描かれている。それは18@@年にはじめて国旗というものがこの国にできて以来、何段階かの推移がみられるものの基本的には現在まで変わっていない。伝統破壊で有名なポルポト時代ですらも旗のまん中にはこのアンコールワットがデザインされていた。クメール民族においてこのアンコールワットなる建造物は別格なのである。通常国旗に人工物が主役で具体的に登場してくるのは珍しい(かつての共産圏に見受けられたカマとかハンマーといった人間の「労働」を表わす「道具」のシンボル化ともその主旨においてかなり異なっている)。太陽とか星とか色とか一般的には風土や理念が抽象化され反影してくる場合がほとんどなのに、ここでは具体的なある特定の建造物が図案化されている。考え様によってそれはある意味で恐ろしい様に思える。そこでは風土や自然、人間に備わっている自然感覚や情動、理念といったレベルを、ある一時期のある特定の「人工」が超越してしまえうるからである。ポルポトの暴走はこの過去の偉大な「構築」−「人力」の裏返し・反作用に違いない。

 文化を構築する力がその文化を徹底的に否定する力として蘇る。そうでなくてはあんなに平然と、自然感情や人間性を無視して人を殺せないだろう。その平然さは遺伝子に支配される昆虫や動物的行為の様に「自然」なのだ。「人工」なのに「自然」。といった特殊で驚異的地点で彼等の革命的蛮行が遂行されたように感じる。文明放棄、宗教放棄、都市放棄、資本放棄、貨幣経済放棄、私有財産放棄、家族関係放棄、、、、。それは原始共同体ですらない幻想化された人間精神そのものの病。究極的な唯物主義。泣くことも笑うことも許されえない、最も純粋で、最も進んだ、もっとも非現実的な、人間性放棄のただ働き生き死ぬ昆虫的生(昆虫に失礼かも知れないが)を強いるものだった。それは最も近年起こった史上最悪の同民族間大量虐殺(人口の4分の1が殺されたとされる)として終結した。

 ポルポト派の破壊は徹底していておぞましい。文化遺産、金持ち、知識人にとどまらず、近代文化、民族文化の担い手達、踊り手や遺跡保存の技術者等も、時には手がきれいだという理由だけで虐殺されていったらしい。それは革命のための犠牲というよりも、まるでそういったものたちの抹殺、破壊そのものこそが革命ででもあったかのように(数えきれない処刑者のポートレイトを一枚一枚丁寧に記録しようとした熱意は有名である)。「我々がやろうとしていることは、世界で誰もやったことのないことだ」といったようなポルポトの言葉を思い出す。しかし結局は、東南アジア地域の中心として、長い間蓄積されてきた最も古く豊かな民族文化をたった3年間の期間で内側からズタズタにしただけだった。おそらくこの破壊と断絶は二度と復元できないだろう。

 数日滞在していると、その破壊の後遺症がそこかしこに見えてくる。

 例えば、名物鍋料理専門の店で卓上にずらりとうまそうな具を並べ、給仕を侍らせながらの素晴らしいランチをとっていたことがあった。しばらくすると、美しく華やいだ自分の視界の片隅にハエのように一点何か不快なものを感じはじめる。気になるのでよくよく見てみれば、部屋の柱に地雷被害の募金をつのる類いのチラシが貼ってある。白黒のお粗末なチラシで場にまったくそぐわない。そうして、たった一枚の小さな紙切れが、今現前している美しい情景を脅かし全てを台無しにしはじめる。自分自身の立場が一転相対化され、この贅沢な食卓や肉片やフルーツや今回の旅行日程や自分という存在、これまで歩んできた人生そのものまでが、なにか間違っているような気にさせられてくるではないか。

 この旅行では終始これに似たような「蜂のひと刺し」に背後から脅かされていたように感じる。それは遺跡観光時でもかわらない。行く手に大きな仏像を見つけ、喜び勇み汗をかきかき近づいていくと「ギョッ」とさせられることしばしばであった。仏像に見えたのは石の山で、それは既に顔がなく、また一度バラバラにされた石隗が再び積み上げることで、ようやく形になっているのだということに気付かされる。亀裂とつなぎ目だらけの身体を黄色い袈裟で覆い隠して立っている。まるで現在のカンボジアを象徴しているようではないか(写真のものは頭や手はのこっているが)。あるいは広大な寺院遺跡の敷地を歩いていると、行く手の方から大変心地よい音楽が聞こえてくる。数人のカンボジア人が樹の下に座り演奏する民族音楽で、大きな木陰に風が吹き抜け夢のように気持ちの良い一時だった。しばらく聞き惚れていた後チップを渡そうと近づいていくと、冷水をかけられたような強い衝撃を受ける。演奏していた若い青年達は、みな手がなかったり足がなかったり目がなかったり、五体満足なものが一人もいないではなか!。こう言ってはなんだが楽器と身体が同化しているような印象。不自由な身体でみな苦心して楽器を奏でていたのであった。美しいもの、夢のように居心地の良いもののイメージが、突如として現実の残酷なディテールに打ち破られる。というかどこか奥底のところでその両極がつながっているかのような不気味さ。芳醇な風土とやさしげな人々の微笑みに癒されながらも、根源的な暴力と残虐さがたえず頭を過る。甘い香と暗い闇の共存。もしかすると暴力や死は単に歴史的事象のうちに記録されるのではなく、この土地のあらゆる美しさの内側につねに生き生きと脈打っているような気がしてくる。しびれるほどの美しさ、戦慄するほどの魅力として、、。

 しぶとく生き続ける民族の伝統

 この土地を旅していると確かに破壊変形しまったものも多いのだが、一方で依然として生き続ける強靱な民族的エッセンスをひしひしと感じることもできる。その感覚は、ある意味でタイやベトナム以上であるかも知れない。例えば民間の祈りの場での、様々な形、作法等は他の東南アジア諸国等よりも古式ゆかしいものを感じることがある。写真の供物類などの作法はまさにそれを物語っている。様々ないままで見たことのないパターンの供物や飾りをそこかしこで散見できた。他にも特に、しばしば遭遇する彼等の強烈な色彩感覚にもいにしえの民族的美意識を強く感じさせられた。赤オレンジの大地と濃い木々の緑、黄色い袈裟の色をベースに、濃厚な色彩がいまなお息づいていてつねに魅了される。それは、表層部分が消え、グレー一色の基礎部材ばかりになってしまっている現在のアンコールワット等の遺跡群を、本や雑誌で眺めていても解らない感覚である。それで言えば、例えば、頭にのせたり、首にまいたりする手ぬぐいのような布(クローマー)や腰巻き(サンポット)あるいは今ではテーブルクロスにさえ使われている、オレンジや赤色、白色、ブルー等の民族模様(特に細かいチェックの格子模様)は特に印象深いものがあった。衣類が黒一色に強制されるポルポト時代でさえも、この伝統的手拭いだけは、色鮮やかに首や頭にまかれながら用いられていたようだ。当のポルポト本人もそののこされている写真で見る限り、この伝統的な民族模様の色布を首に巻いていた。伝統的文化もろもろを破壊したポルポトをしても、この庶民的な手拭い文化は否定しなかったように思われ興味深い。とはいってもこの伝統的機織り技法はかなり廃れてしまい、現在ようやくその復興事業が振興してきているらしい。シェムリアップの市場でも化繊やコットン製などだが、そういう新規の伝統的布製品が多く店頭をにぎわしていた。どこか見覚えのあるそういった民族的色模様の布を手にすると、あのクメール・ルージュの兵士達を思い出し、妙にドキドキさせられるのも皮肉なものである。おそらく「クメール・ルージュ」の「赤」も単なる共産主義の赤ではなくて、カンボジアの伝統色として大地につながってくるもので、よけいに問題がややこしくなってくるもののように感じられる(以前フランスのクリニュ−中世期博物館で、色鮮やかな中世のステンドグラスや写本を観いて、いわゆるトリコロール(三色旗)の白、赤、青は、単なる概念的なものではなく、深い民族的な伝統の中から抽出されてきているものなのだと確信した。以後三色旗の色彩はステンドグラスのように響いて見えていき、同時にマティスの赤色は中世のタペストリーにつながるようになった。同じように日の丸の「赤」は日本人にとってただの「レッド」ではないのであり、見る人が見ればただの色もただの色ではすまされないオーラを放つものではないだろうか?)。また、暗黒のポルポト派を象徴するような、マックルアーという木の実から染められるらしい黒色も、基本的にはカンボジア、ベトナムの伝統的農民服の色だったという。それゆえクメール・ルージュのいでたちは、庶民的で伝統的な意匠にもどるというものであり、ポルポト本人もそういう自分を見せたかったのだろう。が、同時にその意匠を全ての国民に強いるというのはやはり無理があり、彼等の革命は頓挫することを運命付けられていたようにも自分などは感じる。だいたいにおいて「黒」という色は、否定、禁欲を象徴しており、それは時として、強さや一途さや高貴さを反影させもするが、長期的全般的には、現実的、人間的、社会的日常感覚から乖離せざるをえないのを常としているのも事実である。現代のタリバンの教条主義や黒シャツ隊のファシズムが長期的には国民の指示が得られえないように、壮絶な戦いが日常になり変わることができないように、、「黒」一色が日常世界を被い尽くすことは、古来あり得ないのである。その上でポルポト派の意匠のうち紅一点の感のある伝統的な「手拭い」の存在はとても微妙な位置にあったと考えられる。それは共産主義のインターナショナルとカンボジアの具体を結び付け、組織と私を結び付ける極めて両義的な絆だったと考えるのはいささか深読みが過ぎるというものであろうか、、、、。

 ということで話が脇道にそれたが、ポルポト以後も、このクメール人は、その豊穣な、中国ともインドともあきらかに異なる独自な(「派手な」といっても過言ではないように思える)伝統的色彩感覚が生きていてるように強く感じたわけである。これは今日ではなかなか貴重なことだと思う。例えばとなりのタイ等では、一度も植民地にならなかったのに、やや怪しくなっているように感じる。伝統色がかなりの程度観念化されパターン化し、実際の現実から遊離し硬化しはじめているようだ。我が国日本にいたっては、ほとんど壊滅してしまっている。韓国に行った時も日本と同じくらい「壊れている」と感じた。以前芸術新潮でイタリア人現代美術作家のクッキが、「太平洋戦争で日本人はアメリカに伝統的な象徴体系を破壊された」というようなことを語っていて、「ゲッ」と思ったのだが、ことこの色彩感覚に関しての美意識体系はそのとおり、完全に壊れているとしか言いようがない。おそらく幼児期に最初にあたえられる絵具、折り紙 教育が悪い。光りにもとずく科学的根拠に基づく体系的学習は、民族の感性や表現において無関係である。素材−物質と色彩が遊離してしまっている。

本当に凄いアンコール遺跡群

 さてせっかくなので世界屈指の大建築群の印象を少々記しておく。「アンコール・ワット」というものが、突如偶然にできたものではなく、クメール人の長い歴史の積み重ねから、様々な試作、探究の結果として、ほぼ理想的な水準とスケールで生み出されるべくして生み出されてきたものであることが、実際ここに来てみてはじめて実感することができた。このような進化・完成へのプロセスの各段階が、このせまい地域にきれいに残されているという例は世界でもあまり例がないだろう。古い建築物を壊し新しいものを作るというのではなく、各々残しつつ、別に新しいものを別な近くに作るという習慣による賜物である。ゆえにスタイルと工夫の進歩発展の跡を具体的にたどることができるのだ。例えばピラミッド状の「重層基段」の形成、各々の「建築物の連結」、周囲を巡る「回廊の形成」と水の利用、長くて建築的な「参道」の形成、、、、ドラマティックなパースペクティブと雄大な空間、重厚な量感、繊細な表面加工の融合。しかもその各々の特質が各個にクメール人のオリジナルであり、各々が内発的に進化してきているということ。そしてその全てがこのアンコールワットに集約され統合されていること。しかもそのスケール・物量もその統合にみあった、至上最高の頂点で達成されていること(通常形式的進化が煮詰まってもそれを支える社会の規模やパワーが低下している例は多い。あるいはパワーのみがあり空虚な巨大化をとげる建築も多い)。なにしろ全てが頂点で統合されているというのが凄いのである。クメール人のその後がひたすら冴えないのもしょうがないかもしれない。弱い貧しい国家に成り下がって久しいクメールは、だからこそ逆にこのアンコールワット1点で世界に起立してくる凄みがある。これはインド起源の宗教表現の最高の開花であり(同じ浄土教として平泉で最終的に煮詰まることに)、その後の東南アジア建築の指標となり、ついに比較し得るものはうまれなかった。

 ところで王都「アンコール・トム」の中心にある「バイヨン」も凄い建築である。大きな顔がいきなり塔に付いている様式は世界でも例がないだろう。しかもこの顔は抽象化されたものとか装飾的な付属品と言ったものではなく、自然主義的な肉付きを持った巨大な彫刻的顔面(観世御菩薩)なのである(4面に各々セットで取り付けられている)。さらにいえば、巨大な彫刻、神像が立っているのではない。大きな塔と顔が突如合体しているのである。比較するものがなくて絶句するしかないほどの特異なスタイルである。またそのスタイルのバリエーションだろうか、王都への入り口のデザインでも同様にこの強大な顔面が門の上部にとりつけられていてすばらしい。「乳海撹拌」のインド起源の神話テーマが王都の門へ至る橋に取り入れられているのもユニークである。手すりとしての「ナーガ」を引っ張る巨大な神像(阿修羅像?)が道の両側にずらりと並ぶ景色は圧巻で、これほど豪華な王都入り口もまた世界屈指であろう。ソウルに残っていた南大門も悠然としてすばらしいものだったが(こないだ焼けてしまった)、クメールの「南大門」はまたっく異なる趣で、まさに東洋文化南北の振幅の大きさを感じる。この王都入り口の「乳海撹拌」の先きっぽ部分(巨大なナーガの無数の顔とそれを掴む巨大な神像)と同じタイプのものが1ピース、パリにあるギメ博物館に収奪・展示されており、博物館全体のメインになっている。以前それを観て、あまりの巨大さとその量感に感激したものだが、カンボジアの現場に来るとその同様のものが、王都や寺院入り口の前座として頻繁にあらわれてきて有り難みが薄れる。ギメ博物館ではその切り取られたパーツに彫刻としての芸術的感動を覚えたのだが、実際こうやって来てみれば、それは多くのユニットの一つとして作動する建築物の1部分でしかない。フランスやイギリスでは、こうしてなにもかもが切り取られて運ばれ展示されるので、彫刻や絵画の形態に近付いて行くにちがいない。それにしてもこのパーツをまるごと盗み出すフランスもひどいが、たったひとつで広い博物館全体を圧してしまうのもまた凄い。

 カンボジアの今の土産物

 最近ではかつて栄えた伝統芸能の数々も少しずつ再生されようとしてきているらしい。シェムリアップの町ではそこかしこでダンスやショーを見ることができる。昼の間遺跡めぐりをする観光客は、夜になるとこの田舎町では特にやることがない。ホテルマンに勧められるままこの種の劇場兼レストランへでも行くほかない。これらのショーのほとんどはまだまだ質が低い、最近急増する観光客目当ての急場しのぎのものだったように思える。お粗末すぎて時に笑える程、あっけらかんとただ伝統をなぞっているようなしろものだった。伝統を受け継ぐ者がほとんど殺されしっかりと復元できないまま、にわかじこみで営業活動に入ってしまったという趣だ。もちろんビュッフェ形式の食事もそれほどうまいわけではない。また、人の事は言えないけれども、したり顔の日本人などと目が合ったりするとさらに興醒めである。随分前に日本に公演に来たタイ王家系列という伝統舞踏をみたことがあったが、その緊張感と洗練度に心奪われた。カンボジアに発するこれらのスタイルは、主にタイが受け継ぎ、その後一度も途切れることなくシャム人の文化としてタイで洗練の極みに達し現在に至っている。かえってクメール人が後年タイの影響を受け立場が逆転したと聞く。

 ところで、いくつか観たショ−の中でも、とりわけ「人形劇」はひどいものだったと記憶する。大きなスクリーンの下で影絵的な操り人形がちょこちょこ同じような動きをくり返すのみ。使用される人形もお粗末なものだった。そもそもこの国ににこういった影絵で動かす人形劇の文化がどれほど根をはっていたものかさえ検討が付かない。隣国タイやベトナムではあまり聞かない。インドネシアのそれとは比ぶべくもない、マレーシアの一部に伝わるそれにむしろ近いようだが、、。人形劇のスクリーンの裏側に行くと、操っているのはみんな子供ばかりで驚かされた。大勢でだらだらとやっている(それを大勢の観光客がだらだらと観ている)。夜の9時をすぎても子供が働いていて、もしかするとこの子達は孤児か何かなのだろうか、、。

 シェムリアップという西部開拓時代のほったて小屋を大きくしたような町には、観光客目当てのマーケットがいくつもある。中でも「オールドマーケット」はこの国の伝統物産品の集積所である。ポルポトの破壊でろくなモノがないのではないかと危惧していたのだが、いろいろと興味深いものを発見することができた。張り子の踊り用の面、手の込んだ細工のお香入れ、布製品、大きな黒々とした木彫り(象や亀や昆虫が興味深い)。特に同様に黒々とした金属製の器状の置き物はなかなかのものだった(冒頭イラスト)。他の国では見かけないもののように思えたし、かつてのクメールの壷のように堂々とした塊感があった。タイ・チェンマイの銀製品を想起させるが、もちろん銀ではなく値段も安い。細工はチェンマイのそれに決して劣るものではない。象、ウサギ、牛、カボチャ、獅子、、、など多数購入する。やはりこのような「型」を要する鋳物などには、やや昔の作風が残されていて助かる。昔の「型」さえ残っていれば良いものはまだ生み出せるのである。木彫り等はそうはいかずどんどんと世相を反映して悪化して行くのはバリ島と同様である。これからどうなっていくのだろうか、、、。伝統文化がとりあえずの産業として再生され、一度はいろいろと人芸品が復活してくるかも知れないが、早晩良いものは消えて行くことだろう。