鳴子追想

 少年時代、父から「音楽はバッハにはじまりバッハに終わる」と言われ、ブランデンブルグ協奏曲のカセットテープをもらった。他に聞くものがないので、そのテープばかり1000回ぐらい聞き、心のよりどころとして育ってしまった。だからと言うわけではないが、実際のところバッハにはじまりバッハで終わるという文句はよく理解できるような気がしている。

 こけしの世界にも「こけしは鳴子に始まり鳴子に終わる」(深沢要)という有名な言葉がある。
 こちらの方は残念ながら理解できない。というか理解はできるが賛成はできない。
 確かにおそらく一般的に最もなじみやすく、同時にその上品さから静かな深い味わい秘めている(に違いない)
。最もバランス良く洗練され、ある意味かわいらしくもあり、胴体はがっしりしているし、首を回すとキュッキュと音が「鳴る」。工芸品としての完成度は一番だろう。工人の数も一番多く、最大の勢力を誇っている。ただ、そのバリエーションの幅は全ての産地の中で最もせまく均質であり、自分としてははじめも今もそれほど心がゆすぶられることなく今日に至っている。鳴子こけしはいかにもこけしの代名詞で、だからこそもっとも先入観が刷り込まれており客体視しにくいこけしでもある。

 自分にとって鳴子と言えば、小学校時代の遠足が最初であった。社会見学で、鳴子ダムを観て(雨だったでバスの窓から眺めて終わり)、間欠泉のある熱帯植物園を見学し弁当を食べて帰ってくるもので、子供心に退屈なものであったと記憶している。
 大学時代になると、家庭教師のバイトで鳴子にちょくちょく来るようになった。仙台にある自分の母校へ入ろうとしていた老舗旅館の一人息子を、毎月2〜3回ほど新幹線と陸羽東線を使いはるばる1時間半かけて教えに通っていた。ぽこぽこっとした山が窓から見えてきて硫黄のにおいが立ち込めると鳴子到着。駅の改札を出ると旅館の送迎車が待っていてくれ、そのまま勉強部屋へ直行する。指導後は旅館のまかないを夕食にいただき帰路につく。毎回1万円ほど奮発していただく有難いアルバイトだったと記憶する(その教え子もイギリス等に留学したのち今では鳴子に戻り、自分の旅館や観光組合関係などの役割を担っていると聞く)。何かの度にこけしをもらうので、鳴子のこけしばかりごろごろと家に増えてくる。

 そんな感じで、自分にとって鳴子温泉や鳴子こけしに対し長い間特に有難味を感じてこなかった。どこにでもある何時でも行ける田舎町の普通の温泉地で、東北では珍しくもないこけしがあるという程度の印象だった。
 しかし最近になって度々訪れることがあり、また町ぐるみの新たな試みなどに接するに及びしだいに自分の鳴子に対する印象を修正するようになっている。
 つまり鳴子とは「こけしの聖地」であり、極めて稀な特殊な場所であったのかもしれない。

 先日も家内の仕事を兼ねて鳴子で毎年開催される全国こけし祭りに行くことになった。一昨年も来たので2年連続となる。どちらも最近家内が知り合いになった沼田元気(写真家、著述家)さんがらみでのことだった。
 一昨年は沼田さんの催しを見学する目的で訪れた。鳴子の日本こけし館の2階で、沼田さんがツアーを組んでつれてきた20名ほどの女性達によるこけし絵付け大会が行なわれていた。審査員は沼田さんとイラストレーターの杉浦さやかさんで、その他、恐縮ながら、飛び入り参加したうちの家内も、御厚意で「青野由美子賞」ということで一本選ばせていただいた。わざわざ東京方面から鳴子にやってきた、大勢のうら若い乙女が熱心にこけしの絵付けをする会場の雰囲気は、従来のこけしや鳴子のイメージとかけ離れており、とても面白いものだった。
 沼田元気さんは最近、こけし関連のこころみがさかんで、特にこけしとマトリュ―シカを合成する、日本とロシアを舞台とした交流イベントが大きな話題となっている。そのこころみをぜひ家内の勤めるカメイ記念展示館でもできなかということで、何度か打ち合わせをかさねてきていたのだが、その折も絵付け大会終了後、近くのレストランで打ち合わせをさせていただいた。沼田さんは、光栄にも、ちょうどつれてきていたうちの娘の写真撮影をしてくれたりして、思いのほか和んだ雰囲気で、自分としてははじめての鳴子こけし祭りを楽しむことになった。

 今回のこけし祭りも、沼田さんから自前の「こけし神輿」を用意したから見に行かないかという誘いを家内が受けてのことだった。夕方から夜にかけて、鳴子の町を練り歩くこけし神輿や踊りのパレードは、こけし祭りのハイライトで、多くの観客でにぎわっていた。今年(2010年)の暑い夏の夜を、だらだらと散策していると、そこかしこでこけし関係者とすれちがい、家内も忙しい様子(自分は他人の様にただ傍観しているだけなのだが)。評判のこけし入門書を出版したばかりの軸原さんやイラストレーターの杉浦さやかさん、観光組合の方、こけし工人諸氏とすれちがう。喫茶店「たまごや」では沼田元気夫妻がくつろいでおり、娘と御邪魔させていただく(沼田夫人とおそろいのこけし浴衣のうちの娘。沼田さんデザインのこの浴衣も今回の東日本大震災津波で無くなってしまった)。全国からぞくぞくと集結してきたこけし愛好者が集う、鳴子ホテルの下を通ると、開け放たれた窓にずらりと宴席が設けられており大いに盛り上がっている。看板、手すり、提灯、電話ボックスの屋根もみんなこけし、こけし、、、まさにこけしづくしの異文化空間に入り込んでいる様でめまいをもよおすよう。
 翌日は、鎌倉へ帰る沼田夫妻を駅まで車でお送りした後、本会場を物色。
 あまりの暑さに体育館の中はムッとした空気。出品されているこけしをざっと見て歩いた後、様々な販売店を見学。伝統飴細工職人が来ており、子供たちが夢中になる。アンパンマンやキティーのような創作品よりも、鷹や白鳥といった伝統的なモティーフの方が俄然見事な出来栄え。やはりどんな分野でも新たな創作はなかなか大変だと思う。その後、鳴子特産のこけし木地と漆工芸を合成させた「鳴子ブランド」なるものなど拝見。まさに合成であり大変興味深く思えるが、まだ其々の掛け合いが強烈ではあるがやや唐突に思え、融合されたオリジナルとしての完成度には至っていない様に感じられた。今後どのような鳴子ならではの独特の美意識に結実していくのか楽しみではあるし、ぜひ成果を上げてほしいものである。
 昼食に老舗こけし店・高亀の横にある蕎麦屋「小花」へ入る。ちょうど今回の日本こけしコンクール審査員長の高橋五郎氏が一人でざるそばを食べ終えたところだった。自分もはじめてご挨拶させていただいた。ちょくちょく仙台で兄には会うらしい。午後から予定されている審査会・講評会前の腹ごしらえというところだろうか。高橋さんと入れ違いに「こけしぼっこ」の方々が入ってくる。狭い店内はこけし関係者でごったがえす。鳴子はどこにいってもこけしだらけ。このソバ屋は有名なんだろうか?

 ところで最近自分の中では「温泉は鳴子にはじまり鳴子に終わる」と言うことも可能ではないかと思うようになった。まあまだ「終わった」わけではないし、別府や道後温泉をはじめ南の方の温泉にまったく行ったことがないのでこんな大それたことを言えるのだろうが。ただいずれそんなことをポロリと言ってしまう時が来るような予感がするのである。いろいろな意味で近すぎてあまり気がつかなかったけれども鳴子は実に懐の深いとてもいい温泉地だと思う。
 賑やかだが俗化しすぎているわけではない密集した温泉街のたたずまい。硫黄の香り漂う山間の空気。日本にある温泉成分のほとんどが鳴子にあるというそのバリエーションの幅。もちろんその湯の質の良さ。いくつかある公衆浴場の新旧それぞれの個性。様々な宿泊施設の選択肢の豊富さ。固有な名物の有無(栗団子、紫蘇巻き、こけし、塗りものなどなど)。そして個人的な事情としては仙台から近すぎず遠からずという身近さ。そういうもろもろを合わせた総合得点はかなりのものだろう。しいていえばもう少し自分が買いたくなるようなもの・「人芸品」があるとうれしいのだが。

 さてその後も沼田さんには機会があるごとにいろいろとお声がけいただいている。
 昨年横須賀美術館でのワークショップ・こけし絵付け教室では、娘が谷内六郎の絵の子供のいでたちで「出演」させてもらう。
 さらには念願のコケーシカ企画展が、めでたく2011年初頭に開催することができた。展覧会図録までつくるという、カメイ記念展示館では破格の充実した催しとなる。沼田さんのトークショーでは、前の日から何回もリハーサルをしたかいもあり、100人を超す大入り満員の大盛況となった(参加費が1500円もかかるというのに)。その90パーセントが女性であったことも今までにない破格な出来事である。展示されたコケーシカが人気なのか、沼田さんが人気なのか微妙なところではあるが。トークショウの後は「お茶会」があったり、沼田さんが希望者一人一人に丁寧にサインを書いてくださったりで、参加した方々にはかなり満足していただけたのではないだろうか。その他、今回参加した全員へ、沼田さん直々のお土産まで用意されていた。様々な楽しい雑貨やはがきに混じって、娘がモデルを務めた沼田元気作・寒中見舞いDMも同封してある。本当に恐縮です。

 器と棒

 そういうわけで、ここのところ沼田さんがらみで、マトリュ―シカとこけし、そしてその合体であるコケーシカ、コケマトについていろいろと考えさせられている。
 そもそもマトリュ―シカは、箱根の木地業の製品であった七福神の入れ子細工の土産をロシア正教会関連の人がロシアに持ち帰り、それを手本としてうまれたという。だから東北のこけしもロシアのマトリュ―シカも同じ日本の木地業を母としてうまれており、年の離れた兄弟ということができるわけである。このルーツをおなじくする者同士の結合・合体はなかなかエグイものがあり興味深いものがある。それは例えば、こけしをあしらった看板、手すり、提灯、屋根、、、さらには最近のこけしグッツであるこけし鉛筆やこけし耳かき、こけし弁当などの日常品との融合とは少々趣を異にしている様に思える。それらこけしグッツは無機的物体と表情のある顔(こけしの顔)が結合されているので、両者のするどい対立は持続せず、「表情・顔」の方に従属されていくことになる。擬人化された「顔のついた何ものか」になるだけのことである。一方でマトリュ―シカとこけしの結合はどちらも同類の顔のついた人形の結合である関係上、対等な力学関係が持続し、「顔・人形」という前提の上に、さらに「伝統的形式・美意識」の差が比べられ、どちらともいえないものであり続ける。

 さらに言わせてもらえば、マトリュ―シカとこけしは同じ木地業製品を母体とし同類の人形ではあるのだが、根本的に違う構造を有している点が重要であるように感じる。マトリュ―シカは入れ子式の空洞を有した「器」であり、こけしは球体と棒状の身体がくっついた「棒」である。器と棒はその深層において異なる特質を有しているはずだ。この違いはおそらく、両文化圏が育んできたデザイン、模様や顔つきの違い、あるいは筆使い、色彩感覚の違いなどよりも根本的なものであると考えられる。この基礎的な違いがかえって、「コケーシカ」なる合体を、表層レベルの意匠の交換以上のものにしているということができるだろう。
 器に顔がついた人形であるマトリュ―シカ。棒に頭がのっかた人形であるこけし。さらに前者は木地製品ならでわの入れ子細工になっており、こけしにくらべると細工が複雑であり、逆にこけしの方が素朴で原始的であるということができる。素朴で原始的なこけしは簡素ではあるがより多義的であり、単なる木地製品、鑑賞品である以上の何ものかを背後に秘めてきた(そこが今なお熱烈なファン層を保ってきている根幹であろう)。それに比べるとマトリュ―シカの入れ子式は多産・豊穣・子孫繁栄の縁起物であるとしても、どこまでも工芸細工であり鑑賞品・玩具の範疇である。
 それゆえマトリュ―シカの木地に、こけしの描彩をいれるということは、相互の伝統的意匠を越境するという以上に、器と棒、空と芯、あるいは実用品とシンボル、工芸細工と人形、、、、という異なる構造を越境することなのであるかもしれない。「こけし」なるものが、「新しいフィールド」でさらに「こけし」でいられるか、あらたなこけしの展開がありうるのか、つくり手たちの腕の見せ所であろう。今日のようにこけし的規範(いわゆる極めてシンプルで簡素な構造)の制約の中で、鑑賞品・伝統工芸品として洗練されることを条件付けられてきている「伝統」こけしにとって、このマトリュ―シカがもたらしてくれる、広々としたフィールドでの展開は、かえって幸運をもたらしてくれるかもしれない。あたらしいこけしの挑戦が、作者すら気がつかないところではじまっているのかもしれない。

 優良建築という人芸品

鶴岡ユースホステル

 建築物とは、人の生活から生まれ、生活に立脚し、生活を規定し方向づける、人の手に収まりえない最大級の人芸品である。
だからほとんどの場合持ち帰ることはできず、人間の所有欲を満足させることができにくい。
 自分の身につけたり、自宅の棚に飾ったり、部屋にセットしていっしょに暮らしたりということができない。
 自分で大金を使い家を建てる―「持家」は、だいたい一生に1〜2回しか実地に経験できない。家は3回建てないと満足がいかないと言われるが、3回建てられる人は少ないだろう。建てられたとしても、資金や諸条件の制約が強くて、それほど満足のいくものができるとは限らない。たいがい通り一遍のものが多く「人芸品」の名に値しないものがほとんどである。芸術性の強い良い建築物の体験は、ほとんど外で、ある限られた一時的な特殊なものにとどまらざるを得ない。
 気に入った建築物は、外から眺めるだけでは満足が得られない。写真を撮って写真として所有するのもむなしい。できれば自らがその中に入り、使用し、もっと望むべくは実際にそこに住んでみるにしくはない。
 そこで「宿」−という機能の建築物は、そのような願望がかなえられるべく建築されていることが望ましい。
一般に日本の「宿」−旅館なるものは、やや懐古趣味的な伝統的情緒を誘発しむるタイプが好まれる。
「ホテル」となると鉄筋の近代建築になるが、大きく豪華そうに装われたとしても、眞に芸術性の高いホテルなるものが、日本の建築にあるのだろうか。
一般に大きな近代的建築物は、多くが公的なものであり、ある会社や行政側の持ち物であり、特定の人の顔が見えにくい、多くが均質で冷たい感じがする。美術館や博物館はまだ良いが、そこに寝泊まりして住むわけにはいかない。
 日本の場合、寺や教会など宗教的・精神的な次元での近代以降の建築物が少ない。あっても紋切型の伝統パターンの再生産ばかりが目につく。

 そういう前置きで、今回ここで紹介する建築物は山形県鶴岡市の「鶴岡ユースホステル」である。
自分は近代以降の建築物で、これほど実地的に体感できて感銘を与えてくれた建築物を知らない。「鶴岡ユース」に宿泊することによって、「近代建築もなかなかいいものだな」とはじめて腹の底から感じることができた。ある種の建築性の強い近代以降の建築物を体感するには、こうした中規模な宿泊施設というスタイルはまさに格好の形態であると言えよう。本来ならばフランク・ロイド・ライトの帝国ホテルやル・コルビジェのサヴォア邸に実地で宿泊できれば一番いいのであろうが。ル・コルビジェの「集合住宅」や晩年の休暇小屋は実物大模型を展覧会で体感することができたが、とても角張っていて、目に突き刺さる様(というよりも実際ぶつかってしまう)でセまっ苦しく居心地の悪いものだった。
 建築物はもちろん収集して持ち帰ることができないので、今回は写真等を掲載していくにとどめる。

 
 そもそも「ユースホステル」なるもののイメージは学生や若者が旅してまわる際に集団で利用するという印象が強い。見知らぬ人との集団生活が苦手の自分は、学生の時から今までにわたり敬遠してきたものであった。しかし最近ではかつてのユース世代が親の年代になり、家族単位でふたたび利用するということになってきているらしく、家族部屋なるものがあり、それならば安いし一度試してみようと訪ねたのがきっかけであった。
 道に迷いながら森を分け入る様にして、はじめてここに辿りついた時のことを今でも思い出す(国の特別天然記念物にも指定されている原生林「気比の森」にただ一軒ぽつりと建っている)。質素な入口から中に入ると、大きな吹き抜けドーム状の空間にとりこまれる。全体的にふた昔前の落ち着いたモダンでレトロな趣。ビートルズかなにかの音楽が静かにながれていた。人のいた形跡はあるものの見かける者は誰もいない。この時間が止まってしまったかのような奇跡的な空間に接し、一瞬でここが気に入ってしまったのであった。自分にしては珍しいことである。この鶴岡ユースには、結局、居心地がよく大変気に入り、夏ばかり毎年のように3回ほど宿泊させてもらった。家族が増えるとなかなか大変で、ユースという形式はリーズナブルで助かる。

 この鶴岡ユースは、70年代(はっきりわからないがおそらくそうだろう)に建てられたあと、ユース離れの時代を経て一度廃止されていたのを2000年、有志の人々によって再生されたものであった。だからというわけでもないだろうが、いつも空いていてほぼ貸し切り状態なことが多い。またその建築構造がすぐれており、それほど他人の存在が気にならないばかりか、むしろどうしたわけか他者との共同意識が自然に形成され、とてもいい気持になってくる。これも自分にとっては珍しいことである。さらになんといっても現在切り盛りしている管理人(ペアレント、とユースの世界では呼ぶようだ)のKさんの存在がすばらしい。山形大農学部出身の若者で、自然と人間の共生を地で行く熱くナイーブな志に満ちているように見受けられる。この鶴岡ユースホステル再生の立役者でもある。
 備品や置物も変なものがいっさいなく、趣味が良いのも彼のおかげだろう。一般的な公的施設・ホテルなどのような妙な空調の気配や管理体制が皆無で、すべてヒューマンかつローテクなところも落ちつける要因である。
 なにしろ周囲が日本海と原生林に囲まれているので、空気がよくて静かだ。野生の生き物も豊富で、窓を磨き過ぎると珍しい野鳥がぶつかって死んでいたりする。夏などは特にクーラーなどなく(家族部屋内にはある)、窓を開けていたりするので、カブトムシやカエルなど様々な昆虫や小生物が室内に入って来る。自分の中ではこれらの闖入者達を「ゲスト」と呼び、ともにこの開かれた空間を共有する。冬は中央に配されている大きな暖炉に薪をくべるのだとのことで、一度是非寒い冬に泊まってみたいものだ。

 建築の特徴

 ふた昔前につくられた巨大な空間、贅沢なつくり。半分休止しているようでいて静かに周囲と共に呼吸するように稼働する、、適度に無造作で、適度に掃除がゆきとどいたほどよい空間、、、。自分の中ではこのような中間的状況を「惑星ソラリス状態」と勝手に呼んでいる(タルコススキーの映画『惑星ソラリス』の主な舞台となる半分休止中の巨大な宇宙ステーションの不思議な空間を念頭に置いているわけである)。
 大きく緩やかに上昇・循環するように各部屋と動線が配されたその螺旋構造は、おどろくほど変化に富み、周囲の目を気にしないですむばかりか、程よい広さの中央共有スペースを軸にして、自然なかたちでのある種のまとまり感、共同、共生意識を育んで行く。複雑さは不明瞭な複雑さではなく、豊かさとしての複雑さ、論理的明瞭さを持った複雑さであるところが重要だ。簡素なのに実に豊かな感覚―つまり空間体験そのものとしての満足感を共有することができるのである。まさに用途としての思想(森の中のユースホステルとしての)と建築構造が一致し、強力な磁場を発し続ける優良建築と言える(もちろんその良さを最大限引き出しているペアレントのKさんの存在が極めて重要であるが)。
 
*そのようなことを考えると、例えば伊東豊雄の「せんだいメディアティク」と比較してみたくなってしまう。この建築物も全面ガラス張りで壁や柱が消え、床の厚みも極めて薄く、各階が透けて見えるかのような豊富な空間体験が可能ではある。ただそういった空間の自由さが何処に行くのか、不明にされたまま何処かへ通り過ぎ続けるほかない建築物としてそれはあるように感じる。もちろんその建築の意図、用途が異なるのでしょうがないのではあるが。そういうことからしても伊藤豊雄の意図は成功しているのであり、そうであればあるほど、そういった風通しの良いばかりの、蓄積集約されることなく、ただただ通り過ぎていく、建築物を、町のメインの文化施設として許容している(させられている)町の性質や仙台市民に疑問を感じる。自分もまたその一人ではあるが、、。

 特徴ある明瞭な全体構造を基礎としながら、それぞれのディテールも大変魅力的である。
 上昇して高くなっていく側の側面は、一面巨大なガラス窓になっており、常時森の木々の緑を大きく映し出している。
 螺旋状に配された各小部屋は、総じて白壁の重厚なもので、さながらヨーロッパの僧院の様に品よく簡素である。小部屋のこの小空間と、中心の大きな共有空間は、一種の共生の思想において対比され関係付けられ強められている。
 螺旋状に配された各小部屋をつないでいるのが緩やかな段差のスロープ・階段である。ほどよい高さの敷居がついていて、中央スペースを其々の高さから俯瞰して眺めることが可能である。朝目覚めた後この螺旋状のスロープをゆっくり下りながら他の宿泊客の待つ下方中央部に用意された食卓で、朝食をとるというのは、なかなかに優雅な感覚である。
 スロープを形成する階段・通路床面は、ソフトな艶のある材質でこげ茶で統一されており、重厚な白壁と対比されている。ここをアップダウンして歩くだけでとても楽しい気分にさせてくれる。
 程よい高さで区切られた手すり壁は、とても厚く、上面が平らなので、コーヒーカップを置いても危なくない。重厚なので、ピタピタとおもわず手で触れ叩いてしまうのは自分だけだろうか。堅さと厚みと重さ、建築物そのものの肉体を体感できるのである。
 同様な贅沢な重厚さは、洗面スペースにも言える。蛇口から出てくる水を重厚な石材が静かに受け止める、ポチャポチャというその水音の感覚が心地よい。トタンやタイルの洗面台ではけっして得られない感覚である。この感覚はさながらヨーロッパの広場などに見られる、大理石による古い噴水や水飲み場の体験と繋がっていく。
 またトイレには、円形の天窓が取り付けられており、全体のセピア調の白壁と連動して、ポンペイにある古代の共同浴場空間を連想させずにはおかない。この建築空間全体のなかで最も明るく自然光に満ちた至福のスペースとなっている。
 中央共有スペースであるが、その時々に応じて各種の椅子が配されており、だいたい自分が宿泊していたときでは、ほどよく散漫にイス各種、テーブル各種が配されていた。てきとうに好きなエリア(ピアノのあるところ、本棚のあるところ、ガラス窓の側、、、)の好きなイスに座り、いつまでものんびりと時間を過ごすことができる。おそらくこの建築構造からすれば、かなりの程度、中心集約的に場をつくりだすことが可能であり、何かの研修であるとか、合宿のミーティングであるとか、催しの場合にはそうするのであろう。ただ普段は、おそらく、ペアレントのKさんの無意識の意識的な資質であろうが、ほどよくバラしてあり、不必要な統制が巧みにはずされている。ただ機械的に並べられているだけの公の施設等の表層的な規範性と一線を化している。そのひとつだけをとってもKさんは素晴らしい人物であることが察せられる。
 
 こうした素晴らしい建築物の設計者は、小川淳という人物のようである。ようであるとはなはだあいまいなのは、ネットで調べてもほとんどわからないからで、現在ではほぼ忘れ去られてしまった建築家なのかもしれない(このユースホステルの建築的価値を論じる記事も見当たらない)。確か記憶ではこの人物の建築物を集めた写真集が、鶴岡ユースの本棚に入っていて、ぱらぱらとめくったのを覚えているのだが。
 このような建築物、建築が忘れ去られているというのは、自分としては不思議で仕方がないのだが、世の中とはこういうものなのか、自分の感覚が間違っているのか。よくわからない。
 偶然ネット上でこの小川淳なる人物が陸前高田ユースホステルの建築も手がけていたことがわかり少々調べてみた。たしかに鶴岡ユースの建築とある類似点を感じ、同一人物の手のものであると思われるのだが、ショッキングなことに、今回の東日本大震災における津波で崩壊してしまったようだ。
 ちょうど有名な海岸線の松林の中につくられていたようで、ただ一本残された松の大木がニュースに報じられていて、その松が有名になっていた。しかしその背後のユースホステルの建築物に注視する者はほとんどいなかったようだ。まさかその後ろに鶴岡ユースホステルの兄弟が建っていたとは!
 おそらくこの建物が防波堤となることによって、この1本の松が守られたのであろう。
 この建築家がのこした仕事が、人知れず、またひとつこの世から消えていく。何とも切ない話である。
 

2009年・夏

 ここのところ毎年のように夏は鶴岡へ来ている。
 泊まるところはいつも鶴岡ユースホステル(食べるのはたいがい若林という鶴岡駅の近くにある魚料理店。ここでは「ユースホステル定食」というお得な隠しメニューがある)。
 行く先は同じだが、道程に趣向をこらしている。関山峠から寒河江、朝日村を抜ける場合もあれば、新庄から最上川に沿って北からまわる場合、七ヶ宿、高畠、小国、新潟県の村上から笹川下りで海岸線を北上するのも面白い。

 昼はここの遠浅の海辺で過ごす。太平洋側の宮城県・野蒜海岸や深沼海岸しか知らない自分にとっては、水が澄んでいて、人も少なく、本当の遠浅でなかなか感動的であった。この由良海岸周辺には、最近ノーベル賞などで特に有名なクラゲ水族館(加茂水族館)や、海辺に面した公衆浴場がある。また魚が多く、一昨年は子供の要望で急遽釣りをすることになってしまった。
 仕掛けに高価な出費をかけるのを昔からこのまず(ゆえにたいした釣りもできない)、即席のあり合わせで済ませようとする自分の行動に子供は不満げであった。作品制作におそらく関係してもいるのだろうが、できあがった作品よりも材量が価値が高ければやる意味がないと思っている(例えば平山郁夫のラビスラズヴェリの様に)。釣りもおなじで、釣れる魚よりも出費がかさめばやる意義がないと感じる。それはせっかくの自然体験を資本主義経済で汚してしまう行為の様に感じてきた。本当は資本主義社会の世の中にいて、こんなことでは何もたいしたことができないのだろう。それはよくわかるのだが、、。
 小さな針と青イソメ少量のみ購入し、ひろったネジをオモリに浮き無しで適当に釣り始める。ところが簡単に釣れてしまうから不思議だ。アジの子供の様な魚が沢山釣れる。同時にシマフグがその数倍釣れる。水が澄んでいるので、えさに食いつくのが見て取れる。フグが喰いついてしまわないようよけながら釣り糸を垂らすのだが、すぐにフグの大群が来て喰いついてしまう。釣りあげて針を外すのが一苦労だ。歯があるし膨れるし、、。こんだけ大漁のフグが生息していてよく海がフグの毒で汚染されないものだと不思議に思う。
 しばらくすると、合宿かなにかで来ているだろう半裸の学生の集団に取り囲まれる。「あっ釣りしてる!」「お―沢山魚が泳いでるぞ!」「釣れますか―」「なに釣ってんすか?」「フグだ!おいフグだぞ―ぎゃははは」「フグ釣ってどうすんスか?」「釣り好きなんすか?」「何で釣ってんすか―」と失礼な質問があびせかけられる。自分はこういう状況が最も苦手である。もちろんひろったネジで釣りをしているので恥ずかしい。「いや―子供がどうしても急に釣りしたいっていうもんで」とまともな大人を装おうとして言いわけを述べる。となりにいた子供が「お父さんが釣ろうって言ったんだよ―」とすかさずなすりつけてきて思わず殴りたくなる。そのうちに彼らは、「俺も釣りしてーなー」「何で釣りざお持ってこなかったんだろう」「なんか網でもとれそうだなー」「そこの網貸してください」と言って、網で水をかき混ぜはじめる。ついには水に飛び込んで魚を追いかけまわす。これでは釣りどころではない。
 最後に「何処から来たんすか?」と聞かれ「仙台です」と答えた瞬間、なぜかみんな一瞬押し黙る。それ以後何も話しかけてこなくなる。仙台だとどうだというのだろう?なにか仙台は人々を威圧するオーラがあるのか?

 このように素晴らしい環境で、たらたらと過ごしている我々家族を見かねたのか、鶴岡ユースホステルのペアレント・Kさんが、いろいろと親身になってくれる。一昨年はカヌーを持ちだして、子供と一緒に磯にこぎ出してくれた。実ははじめてライフジャケットなるものをつける(自分は基本的ないわゆる「アウトドア」を、上記の理由と同様、経費過多の矛盾から敬遠してきているので)。カヌーからカヌーを転覆させないで、海に飛び込みふたたびもどるという技術をみせてもらう。磯にはクマの爪と呼ばれる貝や岩牡蠣などが張り付いているのを見る。道具がないとなかなか岩から外せないのであきらめる。
 その他、山にわき水を汲みにつれていってもらったり、夜に夜光虫を見につれていってもらったりしたこともある。また、三瀬駅近くではおばあさんが経営するすばらしいかき氷店に、いっしょにつれていってくれた。この店は驚くほど種類が多く充実している。氷の肌理がとても細かい。氷を削る刃先が味噌だと言う。
 また結構はなれている大きな寺に案内され、勇壮な日本庭園を観ながら冷たい抹茶をごちそうになったこともある。仙台に帰る時は酒田のメロンやスイカを持たせてくれたり、おまけに「森のフルーツ」と言ってリスやムササビのかじった特徴ある形の木の実を子供にプレゼントしてくれたりする。本当に有難い人。感謝に堪えない。