<遠刈田の福助>

 私の妻は一応「こけし」関連の学芸員をしている。言ってみれば我が家は(形の上でのことだが)こけしで飯を食っていることになる。以前、妻は幻のこけし工人に関する調査を依頼された。伊勢こけし会故山本吉美氏の要請だった(山本氏はこけしのことならありとあらゆるもの、こけし、工人に関するデーター、出版物、関係グッツにいたるまで集めつくすという凄い方だった。こういう在野の人物が日本文化を支えているのである)。今どき珍しいことだが知られていなかった工人がひとり発見されたと言うことだった。少し前にその人物のこけしがコレクターの間で公にされたのだが(そのこけしは残念ながら大変ひどいものだったが)、その人となり、経歴うんぬんに関しては未だベールに包まれていたのである。こういう調査は「地元」の強みである。私のように美術をやっているとパリ、ニューヨーク、東京等がいってみれば「地元」、「本場」というニュアンスになってしまいがちで、東北などは極端な「僻地」としてシベリアあたりと大差がなくなってしまう。しかしほとんど唯一「やっぱり地元は違うねえ」と言われるジャンルがこの「こけし界」なのである。普段の立場と180度逆転するので面白い。

 幻の工人大槻千代吉氏の工房は遠刈田こけしのふるさと遠刈田新地の近くにあった。よれよれの住居と工房としての小屋、意外に新しい販売小屋等がならんでいる。庭にはごろごろと廃材やらゴミが転がり、奇妙な手製の木彫りや看板が立ち異様な空気が漂っている。大槻氏は当時83歳、今まで相当苦労されたようで師匠が誰なのかなかなかはっきりしない、と言うかはっきりさせない。いろいろ事情があるようだ。現代のこけしは「伝統工芸」なので、師匠、受け継いだ系統、型をはっきりと固定し各々のアイデンティティにしている。それは自己の正統性を暗に示すことでもあるわけだが、そこに形式化された空洞が生まれてきている。他家の模様をかってに使ったり、自分の型をかって気ままに変更させたりすることは難しい。最初から許容範囲が決められその範囲の中でピカピカに磨いたり、筆さばきを洗練させたり、祖先達のこけしの微妙なくせをまねたりするので、今では良いこけしは珍しい。大槻氏は幸か不幸か師弟関係がはっきりせず、そう言った「業界」から外れていたために今までほとんど外の人に知られてこなかったのであろう。

 しかし大槻氏のこけしは版で押したような精気のないこけしだった。そこにはいかにも伝統こけしの条件としての型、スタイルしかなく、それを丁寧になぞっているだけだった。だがそのこけしとならんで大槻氏が自由気ままにつくったと思しき様々な木地人形が我々の目を釘付けにした。招き猫や種々の福助、よくわからない縁起物の人形達がそこにならんでいた。最初に中央の「招き猫」が欲しくなったのだが非売品とのことだった。そのわきにならぶ福助も福助と呼ぶのがはばかれるほど泥臭くてユニークである。それぞれ大きさ、顔立ちが異なるが、一つ一つていねいに仕上げられ個性が出ている。おそらく自覚的に各々を書き分けていると言うよりも、行き当たりばったりにつくっていて、同じにできないのでこうなったのではないだろうか。これらには大槻氏しか作れない独特の味わいがある。売ろうとしてつくっているのだろうが良い意味で相当ずれている。技術的にも相当素朴で、現実(現代)離れした魔力が潜んでいる。こういうナマっぽい人形は現代の資本市場で流通することはまず無い。こういう山里の小さな職人自営の店だからこそのものである。しかしものづくりとは本来こういうものであるべきではなかったか?かつてのこけしもこういう各々にズレた泥臭いものだったはずである。大槻氏の「伝統こけし」と「福助」の痛々しいほどのギャップは、現代と前近代、空虚と充溢、終焉と可能性の対比だ。もはや窮屈の極みである「伝統こけし」を「福助」の様に自発性において造り出すことは誰にもできないのかもしれない。

 結局私達は福助を大小2つ買った(こけしも義務で2本買う)。小さい方は親戚のさとう衣料店へ譲り、大きい方は茶の間のテレビの上においた。先日教え子の女子生徒が来て「これだけはゆるせません」と指摘して行った。確かにその意見はよく理解できた。その奇妙な「浮き方」がいったいどういうものでどこから来るものなのか、もしかすると非常に大切なことなのかもしれず、どうも気になる今日この頃である。

<アユタヤにて>

 タイ・バンコクからバスで約2時間北上するとかつてタイ族の都があったアユタヤに着く。14世紀から18世紀まで栄え、今では街そのものが遺跡になって保存されている所である。はじめて友人とここに行こうとした時、宿に居たタイ人の若者達から「ただ石が転がっているだけだからわざわざ行くほどの意味はない。そんな所に行く暇があったらディスコに行こう!」と言われた。しかし実際行ってみるとそんなことはなく、かなり見ごたえがありその時の旅行でもっとも思い出に残る場所となった。車(友人の叔父の運転手に乗せられる)から見えてきたアユタヤ独特のトウモロコシ型の仏塔に驚き、「まるで宮崎駿だね」と友人と語りあった。予備知識が無いというのもなかなか良いものである。そのフォルムはレトロな宇宙船を連想させ、素材になっているレンガの赤色は錆びた鉄のように見えた。しかもレンガにはコケが付着し、所々破損していたし、仏塔の上に樹が繁茂してさえいたのだった。「宮崎」的廃虚のイメージにぴったりはまっているように思え、宮崎さんはきっとここを知っているにちがいないと思ったほどだった。思えば私達が本格的な遺跡に接したのはそれがはじめてだったのであり、同時にそこはその後私が目にしてきた様々な遺跡の中でおそらくもっとも遺跡らしい遺跡だった。アユタヤの美しさはそのレンガの赤と熱帯の緑が対比しながら渾然一体となり、とても色鮮やかで活気にあふれている所だと思う。黒々として一個一個のパーツが大きいクメールやジャワの遺跡群、あるいはすっきりと整った静的なヨーロッパの遺跡群等とまったく異なる趣がある。ここは遺跡の荒漠とした寂しさや静寂とは無縁だ。私はこのアユタヤで「遺跡」というものの洗礼を受け、その後やみつきになってしまったのだ。しかし近年アユタヤがユネスコの世界遺産に登録されてからというもの整備が進み、木々や人々の生活と渾然一体になっていたかつての怪しさが薄れてしまったようで残念に思う(同じことがスコータイやジャワの遺跡群にも言える)。

 アユタヤ朝はかつてアンコールワットを滅ぼすほどの興隆を極めたのだが、ビルマとの数百年にわたる死闘の末、ついに1767年に陥落し破壊されてしまう。その後タイ族は都をより防御に適した南のトンブリ、バンコクに移しなんとか盛りかえそうとしてきた。タイの仮想敵国はつねにビルマであり、バンコクという都市の原点には、滅亡したアユタヤの面影、言ってみれば急造されたアユタヤのイミテーションとしての色合いがどうしても残るように思う。そのためかバンコクのワット・プラキオなど見てもどこかビルマにおびえた余裕のなさ、無理のある神経症的雰囲気が漂っているように感じる。アユタヤ式のトウモロコシ型の仏塔も、例えばワット・プラキオ、ワット・ポー、ワット・アルンの各所に採用されてはいるが、細くて貧弱になっているのがわかる。いわばスタイルのみがアユタヤから取り入れられ、本来の美しい比例は無視され、どことなく「キッチュ」になってしまっている。バンコク朝の歪んだこけおどし的建造物(そうは言ってもそれはそれですごいものであることにかわりはないのだが)から逆照射して見たアユタヤの遺跡は、壮大かつ優雅であり洗練された気品があるように思える。これは細部の装飾や表面が剥がれ落ち渋くなっているからと言うだけではないと思う。仏像にしてもスコータイ、アユタヤに比べ、バンコクのものは落ちる。バンコクにある仏像のうち主要なものの多くはアユタヤやスコータイ、もしくは隣国のラオスから持ってきたものであり、バンコクで新たに造り出された仏像で優れているものはとても少ない。やはりアユタヤ朝が文化的にはタイ族にとっての頂点に位置すると思える。王都、寺院などできる限り再建し、よりいっそう荘厳につくり続けられたのだが、その精神と美はついに復活されぬまま近代に突入してしまった感がある。バンコク王朝はむしろ迫り来る西欧諸国からタイを守るために多くのエネルギーを費やさざるをえなくなる。ビルマが王都マンダレーの構築などいわば伝統文化のモニュメント化に力を尽くし国力を低下させて行ったのに比べ、タイでは王政を中心とした仏教改革や近代文明の吸収、外交政策などに活路を見い出し、奇跡的に植民地化を逃れることができた。そういうわけでタイの王権は民衆を支配圧迫する存在ではなく、西洋の侵略から民衆の自由と主権を守り抜いた自立の象徴となっている。以前民主化運動がもつれた時、現在のラ−マ9世がそれを軽々と調停してしまったことがあった。日本のマスコミ(例えば久米宏)などは唖然としてしまって、タイの後進性を暗にほのめかしたりしていたが、アジアの歴史と現実に関して驚くほどの無知さを暴露することになった。こういうマスコミに顕著な教科書的、フランス革命的、アメリカ的思い込みにはうんざりさせられてしまう。

 ところで整備されてきたとはいえ、アユタヤは広くて複雑なのでなかなか奥が深い。中央にあるヴィハーン・プラ・モンコン・ポピットという寺の周辺などでは、バンコクなどでは流通していないローカルでディープな物品が見られる。ゾウや魚の素焼き花瓶が驚くほど安く売られていたり、華僑系の大きな獅子舞のかぶり面のような張り子がぶら下がっていたりする。イラストに描いたコブラの張り子かぶり面は、ちょうど頭に帽子の様にかぶるタイプの大きなものである。泥臭くて力強く、「怪しい」ころのアユタヤを彷佛とさせる売れ残り品だった。最近こういうタイらしい感じがあらゆるレベルで希薄になってきたように思える。これを買った時のアユタヤ観光では、ボコボコに歪んだオンボロ自転車でまわっていたのだが、背中にしょっていたナップザックにコブラが入りきらず、どうやってもその首部分がザックから出てしまう。しょうがないのでそのままコブラ付きザックをしょって遺跡まわりを続けるうちそのことをすっかり忘れてしまった。その後町中のデパートに入り食事をしたり買い物をしていると、周囲の若者達の奇妙な視線が気になり出し、自分の姿を想像してみてハッとさせられた。ここは現在のアユタヤでもっとも新しいお洒落空間である。さっきまでの遺跡群との深刻な現実感のズレに自分ながら驚いてしまった。急に恥ずかしくなりそそくさと宿へ戻る。おそらく自分の姿が滑稽だっただけでなく、この泥臭いコブラそのものも今のタイでは場違いなのだろう。