<ソロの街で>

 ジャワ島の古都ソロへ行こうとバスに乗っていた時の事だが、数人の若い男がドカドカと乗り込んできて、後部座席にいた私のとなりに座った。いわゆる体育会系的な傍若無人さとでも言ったらいいだろうか、不必要な音や振動、圧力をやたらと発してくる人達だった。ジャワにもこういう若者がいるんだなあと我慢して肩身のせまい思いをしていた。そのうち彼らはこっちの存在に気付きいろいろと話しかけてきたが、私がまったくインドネシア語を解さないとわかり興味をなくした様子だった。私も疲れていたのでウトウトと眠りはじめてしまった。しばらくして「ソロに近づいたぞ」、「はやくリックを背負え」、「もう出口に立った方がいい」とたて続けに彼らにうながされた。けっこういいやつらだったのかなあと思いながら言われたように準備をし、バスが止まったところでお礼を言っておりようとする。しかし出口付近に彼らがたむろっていて窮屈で出にくい。身体が圧縮されるようにギリギリとバスからにじり出た。その時背中のザックに妙な引っかかりを感じた。すぐに彼らのうちの一人がバスの中から「落ちてるぞ!」と地面に転がっている私の手帳を指差して教えてくれた。手帳はちゃんとホックの付いているポケットに入れてあったはずなのに変だなあと思った。すぐに背中のザックがぱっくり空いているのに気が付いた。「やられた!」と思ったがバスはもう走り出した後だった。その後いろいろ点検して見るが意外になにもとられていないようだったので安心した。ザックの中の一番上側に午前中買ったリスの剥製がむき出しで入っていたためそれが防御壁になってくれたようだ。おそらく彼らがザックの中に手を入れた時、剥製の質感にかなり驚いたのではないだろうか。リスの剥製の下にはカメラが入っていたのだが無事だった。私が眠ったりして油断したので思い立って犯行におよんだにちがいない。別れぎわに手帳が落ちたことを教えてくれたのは愛嬌のつもりだろう。

 ところでおろされた所がソロ観光に適している所なのかどうかわからなかった。あたりは大きな道以外何もない。タクシーを止めソロのメインストリートに行ってももらおうとしその名を告げるががわからないといわれ驚く。中心になっている道路の名前を知らないと言うのはおかしいが知らないと言うのだからしょうがない。しょうがなく「クラトン」とつげ、王宮に行ってもらうことにする。案の定王宮はしまっていて入れない。2時にしまるとガイドブックにあるが、私の腕時計を見るとちょうど2時5分過ぎになっていた。ジャワ島の王宮と言うのは外から見てもそれほどときめくタイプの建造物ではない。パンチの連続打をくらったようで、ソロの街、人の印象はスタートから最悪になった。ソロ王朝はジョグジャカルタとならぶこの国の古くからの王朝の末裔で、アジア最大級のバティック市場や有名な骨董屋街もある。ガイドブックにはきまって「おちついた古都ならではのたたずまい」などと書かれている。しかしこの時の私の印象としては「やたらと暑くてホコリっぽくガラの悪い田舎町」と言う感じだった。日曜日だったので商店街はのきなみしまっていて、閉じられた汚いシャッターばかりで大変殺風景に思えた。骨董屋のならびもどこにあるのかみんなしまっていてよくわからない。それでも「金行」の店は沢山開いていて、そこに群がるソロの女達の顔つきは、偏見かも知れないがジョグジャやバリと比べてとても猥雑なものだった。

 いろいろほっつき歩きあまりにも暑くて疲れたのでやっとの思いでマクドナルドに入る。クーラーの効きがジョグジャに比べ悪いうえに人が混んでいる。カウンターに並び自分の番を待つ。ようやく自分の番がまわってきた瞬間、ササッと当然の様に「横入り」する男がいて驚く。ここで私の怒りも頂点に来てついに爆発した。「おい!なにやってんだあこのやろうお!」とその男の肩をつかんでグイッとはねのけた。男はこっちをにらみかえす。驚いたことにいい歳のおやじである。店員は表情をこわばらせマニュアル以上の態度で私の注文を聞く。インドネシア・マックの独自メニュー中2番目に安いフライドチキンライスとコーラセットをトレイに乗せトボトボとおもちゃのような席につく。さっきの男も一つむこうの席について私とちょっとだけ目をあわせる。彼は二人の子供といっしょだった。とても気まずい気持ちだ。いい歳の男同士がマクドナルドの順番争いを真剣にやってしまい、こういう虚しい食物を食べ「うまい」と感じてしまうことに「生き物」としての悲しさを感じてしまう。

 食後、もう一つ別なソロ王宮の方へ向かう(ソロには2つの王家がある)。こちらにはいくつもの露店が並び人ごみができていた。露店の中には大トカゲの剥製や山猫かなんかの毛皮なども売っていて、欲しくなったのだがどうせ持って帰れないので諦めた。そうしてとても粗野で大きく泥臭いワヤンをいくつか買った(イラスト参)。バティック市場はあまりにも大きく、人ごみも凄く、反応ができないままに跳ね返されてしまった。帰りのバスは汗臭い軍人が私のとなりに座ったのでとても緊張させられた。彼はバスに乗り込んできた「流し」の芸人(ジャワではギターでフォーク系の歌をうたう若者が大変多い)に小銭をやり、赤ん坊を抱いた女に席を譲った後どこかへ去って行った。

<タイの豚貯金箱>

 海外で不当に金銭を奪われると言うのはよくあることである。先に記したソロのバスでも危なかったわけだが、似たようなことはパリやフィレンツエ、ジャイプル、バンコク等でもあった。

 パリの時は地下鉄構内でフニャラフニャラと話しかけてくる若い男がいるので、ほろ酔い加減の自分も適当にホニャラホニャラと対応していた。すると彼はよろめいて私の足にまとわりついてきたので、お互いヒャヒャヒャと笑いあった。なにしろ友愛の都パリである。しばらくして「バシン!」という大音響が地下鉄構内にこだました。同行していた私の友人Sが地下鉄構内のお洒落看板を思いっきり蹴飛ばしはじめたのである。一回、2回、3回、、と続けざまにけりまくる友人Sの姿は得体の知れない魔物にとりつかれた狂人のようで、同行していた我々みんな(約10人程度)は言い知れぬ恐怖に怯えた。どうしちゃったんだろうと恐る恐る彼にわけを聞いてみると原因は私にあった。さっきのフニャラ男は実はスリで、私を狙い続けてきたので直接手をくださずに看板にケリを入れて追っ払ってくれたそうだ。それにしてもなんで私ばかり狙われたのだろうか気になる所である。パリのスリというのはその後も何度か遭遇したが、切実さがないのかこう言ってはなんだがムダな動きが多く、芸が多いわりには成功率が低い。サッカーで言えば無駄なパスまわし、ドリブルが多すぎるのと同じだ。それにしてもあのときの友人Sのケリにはそれ以外の何かが宿っていた(例えば何らかの不満とか、、、パリが嫌いとか、、、)ような気もするがここでは脇道にそれるのでとくに触れない。本当に彼に感謝しているしだいである。

 イタリア・フィレンツエでは朝からウフィッツイ美術館にならんでいた時におこった。この美術館は開館から数時間ならばないと入れないと聞いていたので、妻とパニ−ノをかぶりつつのんびりと列に加わっていた。するとどこからともなく煮しまった汚そうな母子がやってきて金をめぐんでくれるよう居並ぶ人々にまとわりついてきた。前方にならんでいた日本の団体ツアーの案内人がまるでサファリ−パークのライオンか何かの様に、「今、ジプシーが来ています、気をつけて下さい!」とさかんに指示を出しはじめ面白く思う。そのジプシー母子は私の前にも来て手を出してきたが無視する。あきらめてその前に居たドイツ系大男に張り付き同じように手を出した。その時私の家内が「あっー」とさけんだ。あっという間にジプシー母子は去り、その大男のポーチベルトがぱっくり開いているのがわかった。「オアーッッッアー!」とその男は絶叫し、その早業に私は目を丸くした。赤ん坊を布でくるみ胸に抱き左手を出して「金をめぐめ」と相手の気を引き付けながら、右手が布の下からハイ出して、ターゲットのポーチベルトをまさぐるというものだ。おそらく赤ん坊は布でわからないがベルトか何かで固定されていて、女の両腕が自由になる仕掛けなのであろう。いくら強そうな大男でもやられる時はひとひねりなのである。私は幸いポーチベルトはつけていなかった。

 インド・ジャイプルでは有名な「風の宮殿」を見学している時におこった。インド人の親子連れが沢山来ていたのだが、やたらとまとわりついてくる兄弟の子供達がいた。親子で観光に来て親から離れて遊び回っているのだとずうと思っていたのだが、気がつくといつの間にか彼らと私達夫婦だけが取り残されているのに気付いた。我々が右に行けば右に来る、左に行けば左に来る。さすがにこれはおかしいと感じはじめ用心しながら見学を続けた。まもなく小さい子の方が私のズボン後ろポケットに手を入れてきた。私は少年の手をつかみ「ノ−!」、「ノ−!、ノ−!!」と叫んで(こんな時に発する英語が何も思いつかないので、、)頭をがしっとワシ掴みにし凄んでみせた。少年は泣きそうになる。説教する英語力もないのでしかたなく逃がしてやることにする。帰りに出口付近で再び彼ら二人を見かけた。別な外国人観光客にさっきと同じようにまとわりついていた。インド人の神経というのはどうにもならないほど太い。以来、インドに限らず遊んでいる子供達を見かけると用心するようになった。

 タイ・バンコクでは大丸デパートに行ってみようと大通りを友人と二人で歩いている時におきた。女性がよってきて線香をくれた。タダだと言う。あっちの祠のような所で祈れと言う。軽く受け流してそのまま気にせず大丸デパートへ向かって歩き出した。珍しいタイの線香がタダで手に入ってよろこぶ。信号をわたり終えたところで友人がいないのに気付く。彼は律儀にも言われたとおり線香に火をつけてもらい祈りを捧げていた。嫌な予感がしたのだがわたしもそこへ戻らざるをえなくなった。そうしてしょうがなく同様に線香に火をつけた。すると案の定500バーツよこせと言ってきた。「タダだといっただろう」と拒否すると、大勢でまわりを囲まれる。不思議にもみんな女性であった。中央にいた女がすごいけんまくで「仏陀に呪われて死ぬぞ!」という。仏陀が呪うなんて日本では聞いたことがない。こういうことを言われるといくら信心がないと行っても同じ仏教国の人間として腹が立ってくる。その女は「さあ出せ!」と手を出してきてその手の先が私の喉仏にあたる。この女達は何か日本人に恨みでもあるのだろうか?通りをゆく人々は目を伏せて通り過ぎるばかりだ。そのうち線香の正当な値段を近くの店の売り子に問いただすことになった。案の定売り子はその女達ににらまれて堅い表情で500バーツとのべる。勝ち誇る彼女達に私は逆上してノ−!ノ−!を連発するしかなかった。ところが友人は「ペイ、ダウン?」と交渉を開始した。まけさせるなんてこそくだがこの際しょうがない。彼の冷静さに感謝する、というかもともと彼のせいで捕まったのであるが、、、。結局相当安く支払って放してもらった。その間沢山の人々が通り過ぎたが誰一人として助けてくれるものはなかった。キングコブラより早く殺せと諺で言われるほど危険なバンコク人の嫌な部分を味わってしまった。

 しかしその時の旅行(先にも述べた友人と二人でのはじめての海外旅行)での災難はまだ終ってはいなかった。友人の叔父の世話で新築のランカムヘン大学寮に長期滞在し、そこを拠点としてスコータイやチェンマイに足をのばしたりしていたのだが、遠出する時は当然ながら数日間宿を留守にしていた。宿の部屋はベット、机、タンスのみの簡単なもので、そのタンスの中に重要なもを全て入れておいた。とりわけ陶製の小豚貯金箱には日本円で1万円札が4枚入っていた。このお金はいわば予備と帰り道に使う大切な虎の子であった。この小豚貯金箱だが現地で見つけた時、豚の背中に花の模様があり、変なものがあるものだとつい買ってしまったものだった。こういうタイプはその後日本でも多く見かけるようになってさして珍しくなくなった(多くが中国製のどぎついやつだが)。この小豚貯金箱は地味で奥ゆかしいもので当時としてはとても気に入って実用していたわけだ。戸棚をあけるといつもこの豚が定位置に置かれ、こっちを見つめているのでなんとなく愛着も増していった。

 ところが帰国も近づいたある日、この豚貯金箱の中身が空っぽになっていることに気付いてしまった。入れておいた最後の4万円が突如として消えたのだった。友人にそのことを伝えると彼の部屋でも2万円が消えているのがわかった。これはあきらかに盗まれたのであり内部者の犯行である。驚きと怒りの中、犯人さがしが始まった。不用心といわれればそれまでだが、そもそもこの宿自体もそこで働く人々もみんな友人の叔父に紹介された「関係者」という認識があったのだ。ゆえに宿の中ではすっかり油断しきっていたわけである。いろいろ考えて行くと大変親しくしていた家政婦の女性(名前はなぜか今思い出せない)が一週間まえから消えてしまっていることに気付いた。この様に我々の部屋の細部まで知っているのも彼女しかいないように思えた。その家政婦は毎日部屋の掃除をしてくれるほか我々を映画につれて行ってくれたりもした。私が使い方の知らないタイ式トイレに紙をつまらせて大損害を与えた時も、後始末を怒りながらだがしてくれたのは彼女であった。管理人であるトウクター嬢にあの家政婦はどこへ行ったのか問いただす。すまなそうに「知らない」と答える。じゃあ「住所は?」と聞くと「何もわからない」と述べる。これは驚いた。家族の様に毎日一緒に生活している従業員の最低データーもチェックされていないとは。タイという国の底なし沼に足を突っ込んだようで気持ち悪くなった。そういえば数日前その家政婦が一度だけ我々の前に姿を見せたことがあった。別人の様によそよそしくなぜか我々二人をさけていたのが思い出された。その後友人の叔父を呼んで事情を話すと、当然のような口ぶりで「良い勉強をした」とさとしてきたのでちょっと腹が立った。

 帰りに必要な費用はこの叔父に用立ててもらいなんとかはじめての海外旅行を終えることができた。今になって振り返ってみると本当に泥棒があの家政婦だったのかなんともわからなくなる。いずれにせよその泥棒が誰もいない部屋に忍び込み戸棚をあけ、小豚貯金箱を持ち上げて底蓋を開け、中身を抜き取り、再び蓋を閉めて同じ位置に戻して去るという図は少々滑稽である。この貯金箱は今でも我が家で使っていて、性懲りもなく大切なカギなどを入れている。