その「編集」は、解釈か創造か

 

 本展は20世紀の美術が果敢に表現してきた、イメージ(形象/映像)の変貌・変換・引用・差異・連続といった問題提起を考える展覧会である。20世紀が表現してきたイメージと実在するもの、イメージとイメージの相互浸透の諸相を見ることにより、21世紀における私たちの知覚と認識の関連を考えてみたい。

 現在、日本で活躍している戦後生まれの作家作品の中から、<イリュージョン>と<引用>を問題とする作家をソウルと京都で見てみる。当初、韓国展の展覧会名は「領域侵犯につき」という企画案であったが、韓国の社会状況を考えて「Under 1945−共生する美術」という名称になった。企画意図としては、未整理の創造という毒を持った「領域侵犯」が合っていた気はする。しかし「共生する美術」という韓国展名になったことで、新たな問題意識を得ることが出来た。「領域侵犯」という既成概念を打ち砕く創造性に対して、「共生する美術」という建設的世界観は予定調和である。

 

 作品は<イリュージョン>としての相互浸透をみせる中村孝平や杉山尚子の作品と、<引用>としての相互浸透をみせる小川信治、笠木絵津子、豊島康子、青野文昭、奈良美智、村上隆、福田美蘭にわけることが出来る。そのうち<イリュージョン>としての相互浸透を見せる作品は、当然ながら予定調和的作品であるのに対し、<引用>としての相互浸透をみせる作品は、既成概念打破型と予定調和型に分化できる。その違いは<引用>の「編集」方法の違いである。創造という予定調和に向かう統一性とは異なり、「編集」は「被告というオリジナル」と「作者という原告」そして「判事という観覧者」が、役割分担を設定している状態である。作品世界ではすでに、「判事という観覧者」においても、「作者という原告」の解釈は、他の何ものよりも勝っている。<引用>の「編集」は、いかようにも「解釈」を可能にする危険性を一方では孕んでいると言える。

 

 予定調和の完了しない、<引用>の「編集

青野文昭、豊島康子の作品にみられる<引用>の「編集」は、完了することのない予定調和である。青野文昭《無縁―有縁シリーズ》や豊島康子《復元シリーズ》は、失われた断片の一部をもとに、新たなイメージを創り上げるものである。考古学での土器の復元は、失われた部分を他の残ったデータ―で補う科学である。青野文昭は拾った看板の一部から、豊島康子は拾った焼き物の一部から、異なった別の物を創り出すのである。自己のオリジナルなイメージの中に、閉じこめてしまうのである。通常の<復元>とは逆のプロセスを通る作業である。<引用>の「編集」は、作者の創造に委ねられている。

 

以下省略。