■ささやかな物質の喜び


 注意深く耳を傾けていると、そこには、ささやかな喜びがある。それが何処からくるのか、わたしは、長い間気がつかなかった。随分久しぶりに、美術館の収蔵庫で無造作に眠っていた、青野の初期作品、「無縁−有縁・牡鹿 1999、6、18」に対面し、その長く伸びるポリバケツ作品の水色(それは本来のポリバケツの色でさえないのだろう)の天辺を眺めている時、静かにその喜びは降ってきた。
 長く縦に伸びたその元ポリバケツの造詣は、ユーモラスであり、異様であり、そして、とても物質的だった。物質がなにかに成る様を青野はありありと描いている。そのなにかに成る様が、わたしを喜ばせるのだ。唐突に、その理解はやってきた。

 すべてのものは、無から生まれつづけているのだろう。それが本 当は何処からくるのか、そして何処へ行くのか、未だはっきりとした解をわたしたちはもたない。それでも、毎日毎日量産される、あるいは消費される、大量のものたちに囲まれて、わたしたちは生きている。その「もの」たちが、解体され、葬り去られ、打ち捨てられたところで、青野はそれをもう一度手にする。丹念に時間をかけ て、青野はその物質を再生させる。

 修復?否、単なる修復ではない。当初はそこから始まったかもしれない、彼の創作の冒険は、いまや単なる修復をこえて成立している。青野は、そこに単なる修復を見ているのではない。ポリバケツを細く長く変形させるそのプロセスに、青野が見ているのは元の姿とは似て否なる別の物質なのだ。その別の、新たなるものに成る、その様こそを青野は作品に取り出そうとする。

 例えば、彼が別の作品の素材にしている壊れかけていた看板。浜辺に打ち捨てられている看板は、その使命を終えて、ものとしての生命を閉じようとしている。もう少しで、それは形を失い、生命を失うだろう。そのかろうじたわずかなものの命に、彼はひかれる。その理由は、とても明快だ。わずかに死に傾きかけたその物質は確固たる存在の次元から、物質の初期の次元へと変化を遂げている。その曖昧な輪郭の、曖昧な存在の物質には、恐らく青野の想像意欲を引き出す、不思議な空間が満ちているのだろう。「もの」から、「死すもの」へと変化する過程にある物質には、はっきりとした用途や意味を持った存在としての「もの」以外の、なにものかに成る過程があるのだ。その変化の過程を青野は忠実に見破り、見事にそれを再現させる。

 一端死に傾いたその物質は、おおよそ社会的なすべての意味を剥ぎ取られ、機能を失い、地上の一部と化して行く。それはもう、意味の系譜から解き放たれ、秩序から解き放たれ、ただ存在するだけの物体へと変化し始めている。このようなものたちは、青野の言葉を借りるならば、「生々しい」のだ。より死へと近づいたその物質は、物質本来が持つエネルギーを余すところなく外へ放出している。それを遮る、意味、用途、機能、色、形は、既に失われつつあるこのエネルギーが本当に尽きてどこかへ旅立つ時、その物質は、存在することさえも止めてしまうのだろう。その死の狭間にある、その物体が、よいと青野はいう。その死に傾いた物体の存在にこそ、 「存在」にしかない空間があるのだと彼の作品は言っている。その「存在」にこそある空間があるのだと言っているのだ。

 その、もの本来の、存在するだけの物質に成り代わった、青野の作品を見る時、わたしはそこに、「存在すること」の曖昧さと、危うさの中にある、確かでささやかな喜びを見出すのだ。そうだ、在るということは、このようなささやかな喜びの内にもあるのだと思い出す。この無条件でささやかな喜びはなんだろう。



 もし現在、多くの青野の作品が、美術館での展示や、ギャラリー空間でよりも、その製作途中のアトリエや、雑多な収蔵庫の中でより生き生きとして見えるならば、それは恐らくこれらの作品が、美術館やギャラリーという確固たる意味をもつ文脈の中で、作品として展示される、その少し前に、その本質がもっともよく現れるからなのだろう。これらの作品は、意味や文脈によって固定された空間よりも、ずっと曖昧で、不確かな空間をもっている。製作途中のアトリエや、無数の作品が眠る収蔵庫といった空間は、その不確かな 空間により近い。故に、青野作品が、そのより不確かな空間であるアトリエや、収蔵庫で生き生きとして見えるのだろう。
   無論、美術館、ギャラリーにあるものだけが、美術作品ではない。しかし、一方で、青野作品は美術品として認識されつづけている。 さて、この矛盾を青野は、キュレーターは、どのように解消するだろうか。

 人間とものの間には、様々な関係が結ばれる。生産、消費、利用、廃棄、加工、信仰…etc。その大半が、幸福な関係だけであるとは言いがたい。それは青野が取り上げてきたモチーフの題材を見るだけでもよくわかる(不法投棄された廃車、打ち捨てられた元看板、壊れかけたポリバケツ等々)。あらためて、現在において、ものと人間との幸福な関係とはどんなものなのか、そして、特に作品として「もの」を扱ってきた美術において、それはどんな形でなされるものなのか、青野作品を見るとき、それらの問いかけは、観るものに投げかけられる。そして、その幸福な関係への回答の、一糸の出口を、青野の作品は見出しつつあるように見える。

 これらの作品は今後どのような展開をして行くのだろう。それは純粋に楽しみなことであり、また興味深いことでもある。その展開は、現代社会が切実に求めている「ものと人間との幸福な関係」についての必要不可欠な答えのひとつなのかもしれない。いずれにせよ、青野作品の冒険は続くのだ。今度は、どんなものと人間の関係 を彼は見出すのだろうか。わたしは静かに次の展開を待っている。