行方を失うかたち ― 青野文昭の彫刻をめぐって

             
                                                                 椹木 野衣 

 

 もとより青野文昭は打ち捨てられ部分が欠損した生活物資を回収し、失われた細部を修復し復元することで彫刻作品を制作してきた。もっとも、彫刻といってもそれを「造形」と呼ぶのはむずかしい。これらの素材を通じて青野が試みているのは「つくる」のではなく ――本人がしばしばタイトルに使っているように ―― 「なおす」ことだからだ。「つくる」のが、今この場には存在しないなにものかを目の前に立ち現すことなのだとしたら、「なおす」とは、この世に一度は存在したものを取り戻すことを意味する。つまり、両者の意識が向かう先は真逆ということになる。では、「なおす」ことを通じて成り立つ彫刻とはいったいどのようなものなのか。

 言うまでもないことだが、この場合の「なおす」はもと通りに「もどす」ことではありえない。もどしたくても、廃棄され匿名化した廃材の欠損部分がいったいどのような形状をしていたか、今ではもう確かめようもないからだ。けれども、「もどす」ことはできなくても「なおす」ことはできる。残された形や材質から過去に「あったはずの」原形を想像し、それに基づいて具体的な形と物をあてていくことは不可能ではないからだ。もっとも、その過程で否応無く様々な夾雑物が入り混じることにはなるだろう。この形状であればこの先はこうなっているはずだ、という思い込みや、こうあってほしい、という願望や、意図せぬ記憶から忍び込む無意識的な傾斜が混在するからだ。

 こうして青野の制作で「なおす」とは、作者のなかに眠る複数の思念を、残存する物を通じて呼び寄せ、交差させる機会となる。たがいに分離して共存しないはずのものが一体に融け込むことで「なおされる」のは、この交差のわかりやすい効果だろう。この点で、青野にとっての「なおす」とは、過去の「記憶」を紡ぎ直すことをも意味する。

 今回の個展でも、このような青野ならではの手法が、東日本大震災で発生した大量の瓦礫を素材に、様々な手法で試しなおされている。瓦礫が、持ち主を失い断片化した匿名の「もの」であるならば、青野にとってそれを「なおす」のはたやすいことであったはずだ。多くの死者・行方不明者を出した大きな災害のあとで、瓦礫を素材にして新たに作品を「つくる」ことが、どこか不遜に感じられるのに対して、瓦礫を通じて「なおす」ことは、失われた記憶を回復することにも通じ、ある意味、自然な営みということもある。

 としたら、ここで本当に問題とすべきなのはもっと別のことだ。それを端的に言えば、観る側からの視線が抜本的に変化してしまったことだろう。あの3月11日以前、青野の作品を地震や津波と結びつけて考えるひとは皆無に近かったはずだ。先に触れたような、美術や制作をめぐるもっと抽象的な「つくる」ことや「なおす」ことにかかわる観念的な問題として語られたはずだ。けれどもいま、そのような抽象性こそ、青野の作品から失われてしまったのだ。少なくとも青野が被災地である仙台在住の作家であるかぎり、東日本大震災という具体的な事象と本作はもう、堅く結ばれ、容易にはほどきようがない。たとえ青野の手法は変わらなくても、観る方が決定的に変わってしまったからだ。

 けれども、そのような災害にもかかわらず、青野の(方法ではなく)意識に変化がなかったといえば、それは嘘になるだろう。そうでなければ、今回の個展でわざわざ水害を連想させる船をかたどったり、被災地である石巻や閖上、宮古から素材を拾い集めたりはしないはずだ。つまり、変わってしまったのは作品を観る外からの視線だけではない。以前と手法は変わらないまま、作者自身が自作を見つめる目線もまた、大きく変わってしまっているのだ。

 3月11日以前、青野の作品は基本的には所有者が不明で匿名的な「もの」の立ち現れであった。けれどもいま、これらの作品は、かつてそれを手にしていた持ち主の不在を、いっそう呼び覚ます。今回の個展で青野の作品は、表面的な見え方は変わらぬまま、本質的には「なおされた」ものではなく、「うしなわれた」ひとを想起させる。かつて、それらのもののかたわらに居たであろう人の気配がするのだ。特定の誰というわけではない。青野の手を通じて「なおされた」これらの作品を構成する原基の持ち主は ―― 作者の言葉を借りれば ―― 「代用」「合体」「侵入」「連置」を通じて、永遠に「行方不明」となっている。もともと居ない「行方不明」者をめぐる、ものとその所有の宙吊り状態が、図らずも生じているのである。

 

                      *2012年7月個展『どくろ杯・Ⅱ―他者性と不可避性について―』ギャラリーターンアラウンド(仙台)に際して