他者を飲み込んだキメラ

 

 海岸や道端にうち捨てられている、壊れて破片になったり、変色して泥だらけになったりした物たち。通常はゴミとしか呼ばれないようなこれらの物を拾ってきて、「なおす」のが青野のこれまで行ってきた仕事である。
 あくまで「なおす」のだから、拾われた物は、作者が新しく何かを作るための単なる「材料」となるわけではない。すなわち、作者が何かを「表現」するため、全面的なコントロールのもとに置かれて使用されるのではなく、過去に作者と無関係に存在したものとして認められ、その一部分として「活かされ」、欠けてしまった部分が再生されるための「起源」ともなるのである。
 他の多くの美術家と同じように、青野も、美術にまとわりつく「作者による表現の優位性」の桎梏を、このような形で乗り越えようとした。とまずは言えるかもしれない。拾ってきた物たちには、何らかの用途をもって作られたその歴史と記憶が、また長い年月を風雨に曝された経年変化が、動かしがたいものとして堆積している。そのようないわば「他者」を、作品の中へ持ち込むことで、「造形」を作者優位のものからある程度相対化できるのではないか。と捉えるのは、あながち的外れだとは言えないだろう。
 ところで、青野は拾ってきた物(他者)を何の加工もせずに、作品に嵌入するわけではない。それを起源として、欠損部が再生されたかのように造形したり、全く別の物と結合したりする方法がとられる。その際、拾ってきた物が被[こうむ]った変形や腐食もその属性としてとらえ、再生部へもそれが引き継がれるといったような、物体に則した「なおし」方とともに、作者が知識として持っている物体の以前の姿に向けて再生が図られる「なおし」方も行われる。だが作者の中で、前者の方が作者への依存度が低く、後者はそうでないといった差別化はなされていない。青野は、作者が関わる割合の多寡や、さらにいえば一つの物差しで作品を捉えようとすることに重きを置かず、むしろ意図的に、整序された状況が生じないようにしているのではないのか。
 そこには、作品とは、ある論理的コードによって一律に内部が意味づけられるのでなく、異質な要素を貪欲にも飲み込み、それらが並存している状態であっても何ら不都合はないという認識があるのだろう。青野にとっての作品は、「他者」を否応なしに受け入れた所からが出発であり、「他者」とその都度どう折り合いをつけ共存するかが問題なのだ。
 青野の制作は、傾向の変遷が見られる。初期は、拾ってきた物の属性をそのまま延長して「なおした」ために、少しの変形が甚だしく誇張され、不気味なオブジェと化すというものだった。その後、ある程度形状が似ていれば、全く別の物であってもその中に入り込み、一部分に成りすますかのようなパラサイト的表現を経て、現在は、壊れた大型の日用品が、同じ種類の新品と大胆にも融合する表現へと至っている。いずれの場合も、ちょっとしたボタンの掛け違いが、想像もしなかったような変形を招いてしまうような、オーバードライブ感を感じさせる。それとともに、物が以前持っていた機能や形状を、接合させた新たな物の文脈に沿って読み替えたり、意味を転倒して解釈したりすることや、自然に由来するものと理性に由来するものを並置することなどにより、意味や価値の重層化がなされている。
 それが主に現われるのは、物と物とが接合された部分においてだ。言うなれば、青野の作品は、異質な起源に由来する物が一つの個体に共存するキメラである。起源の異なるもの同士が引き伸ばされ、強引に重ねられ、折り畳まれて圧着されたとでもいえるのが、その接合部であり、そこに感じられる歪みや軋みは、意味の重層化が不断の読みを誘発している結果だろう。
 青野の「なおし」は、物体を以前と全く同じ状態に戻したり、作者あるいは観者である我々に都合がよいような出来合いの物語へと落とし込むこととは正反対の方向を向き、常に軋みを伴いながら動き続けるキメラを生み出し続ける。      (宮城県美術館 和田浩一)