青野の仕事はもともと社会の中で記号として意味を持っていた「物」を素材としている。そのために、青野によって「修復」されたとはいえ、元来の意味の一部やその素材が破棄されていたという事実や、その痕跡から対社会への発言の要素を持っていると言える。そして見る側にはそれを読んでゆく楽しみがある。

ワッツの個展と同じ時期にみちのく湖畔公園内でみた彼の作品には社会性を直接的に強く感じた。川辺に不法破棄された車。遺憾なことに、今日では極めて日常的な光景。ドキッとしたのは、日常的に不快に思っているものと類似したものが、周到に管理されている公園内にあるせいだろうか。ギャラリー空間に配された二つの車の作品からは直接的には感じ取りにくい部分だ。

だが、ワッツでの立体作品のインス多レーションの仕事は、個々の造形性よりも、それらの組み合わせ次第では様々な意味作用も生じてくるのではと考えさせられた。(見る側の解釈は作者の意図から離れて行く可能性もでてこよう。)
 ワッツの室内では鳥居は柱が膨らまされ、冷蔵庫の扉が上に長く伸び、車はフェンダー部分がカエルのように横にひしゃげられて「修復」されていた。「カエルのように」と書いてしまったが、「物」のそもそもの始まりとは違う形に変形させられた分だけ、類似の何かを想像させ、感情移入させる要素が増えたということだろう。

長く伸びた冷蔵庫を見ていてポール・A・デュカの《魔法使いの椅子》を思い出した。ディズニーによって与えられた、欲しくもなかったイメージが連想の始まりだが、この曲のクライマックスには道具たちの反乱がある。青野によって拾われ、変形させられた物達は反乱をおこすまでは至っていない。むしろ身の置き所を失った悲しみを背負っていると見るのは感情移入のしすぎかもしれない。とはいえ、同一軸上にあった冷蔵庫とカエルの車や、その間に記念碑のように立っていたコンクリートの塊の組み合わせは、あの忌まわしいテロの後だっただけに、私への意味作用として妙に尾をひいている。