Scale-Out 2006 カタログTEXT
5人からなるキメラ、としての展覧会(前段4人分の文章省略)



 青野文昭は「なおす」という独自な手法を展開することによって、創造性の意味をとらえなおす必要性を私たちに迫っている。
 青野は学生時代、油彩を描いていたが、作家が100%介入する「造形」には懐疑を抱いていた。そこには、「美術」の領域内に収まった創造性など取るに足りないものだという彼の認識がある。「造形性」「作者の意図」といった、これ
まで芸術を語るうえで欠かせなかった概念は、われわれが日々暮らす日常からは隔絶された世界の中でのものであり、より始原的な、あるいは根源的な創造は、日常の世界の中にこそ見出せると作者はいう。そこでは外部の世界をなんなく取り込み、交配を繰り返し、異種混合というエネルギーに満ちた海を形成しており、この日常の世界を作り上げてきたダイナミズムこそが、より根源的な創造と呼びうるというのである。(註5)
 青野が制作を続けている《なおす》(以前は《修復》と名づけられていたが、最近変更された)シリーズは、上に見た青野の認識を発展させ、実践したものに他ならならない。砂浜や空き地などに打ち捨てられていた看板や、何かの切れ端などを拾い集めるところから制作は始まる。「物」は錆びたり壊れたりしているが、それは現実をより多く吸収した証拠であり、作者である自己からなるべく遠ざかる要素として、むしろ歓迎される条件となる。このように、自分とは無縁の「物」を、古くなって変容した現在の属性までも含めて、それを頼りに「なおして」ゆくことで、作者である自己、あるいは美術の世界のコントロール下にはない、自由な存在としての「物」が生まれることになる。以前私は、「惑星ソラリス」の物質化されたイメージや、「九龍城砦」に見られる増殖を引き合いに出して、(註6)自分の知らぬ何かによって生み出され、変容させられたものの、気味悪さとドライブ(加速)感を語ったことがある。あたかも拾ってきた断片の方から根が張っていったかのように、自己模倣を繰り返しながら欠損部が形成されていく様は、自然のエネルギーを体現しているかのような加速感を感じ、小気味よい。
 最初は、一つの断片から「なおして」いく作品だけだったため、断片部から修復部へという、一方向のみのベクトルを持つものだった。だがそれ以後、複数の断片から「なおす」試みがなされ始め、現在では複雑で、複数のベクトルを持つ作品が制作され始めている。(註7)例えば、青いポリバケツの断片から「なおし」た《なおす・集積・復元》では、胴の部分だけ複数個分の断片が集められて「なおされて」しまったため、異常に胴長のバケツとなった。その姿からは、狂気にも似た、空回りするドライブ感が生じている。一つ一つの断片は、その場その場で隣と対立し、癒着し、取引して、場当たり的な解決の末に、傍から見ればとんでもない結果であっても、最後は辻褄があったように装う。青野の作品は、人間社会の極めて現実的な様相を見させられているようでもある。
 複数の断片による《なおす》は、断片それぞれが余りかけ離れていてもいけないらしい。すると譬えて言えば「ハイブリッド」だろうか。だが、ハイブリッドでは、人間の欲望を実現するための合理的強引さに溢れている。その隠された狂気や、アナーキーな一面も考え合わせるならば、「キメラ」もしくは「ウナギイヌ」の方が相応しいかもしれない。

                                      和田浩一(宮城県美術館 学芸員)



(註5)青野文昭「『なおす』についての分類および考察」(自筆資料)を参考にした。
(註6)和田浩一「青野文昭展」『てんぴょう』第5号、2000年10月、アートヴィレッジ
(註7)このため、《なおす》シリーズも体系的に整理される必要が生じたのか、2006年9月に開催
 されたギャラリー青城(仙台)での個展では、この《なおす》を綿密に分類し、体系化した考察を、
 ファイルの形で閲覧できるようにしていた。(註5参照)