可能なもののもとへの滞留 ―青野文昭小論―  


 ある欠片を青野が「なおす」というとき、一体何を回復しようとしているのか。  
 元の機能や形状でないことは言うまでもない。まして、作家の頭にある創作図案のはずはない。一瞥すれば、素材が尊重されていることは明らかなのだから。だとすると、素材自身から導かれる形象だろうか。  
 欠片の呼びかけに応えて、ありえた全体像を取り戻してやること。一見妥当に思える。しかし、完成形を見る限り、全体像そのものには無頓着が装われている。精巧さを避け無造作な仕上げが選ばれているのだ。 完成とはいえ完結が拒まれている。
  しかも、細部の歪みやずれを増幅し、整合性に無理を来している。この不整合が、潜在的な地殻を形成し、変動の徴候をもたらしている。完結を拒むどころか、刻々と変容しつつあるのだ。可能性としての形象 が、顕在化しないまま作品には潜んでいる。
  回復が目論まれているのは、おそらくこれだ。全体像の可能性そのもの。間違ってはいけない。可能性を顕在化することが目的ではないのだ。問われているのは、可能性を可能性のままリアルに響かせることな のだ。したがって、顕在化した形象がどんなに奇抜であろうと、そこに耽溺していてはいけない。むしろ、目論見を支えている構造にこそ目を向ける必要がある。荒唐無稽な見かけはそこから派生する副産物でしかない。
 以下時系列に沿って作品の構造を走査する。

  1991- 修復 
 なおすことに焦点を絞った作品は、1991年に生まれた。汚した紙を破いた挙げ句、再び貼り合わせた連作(fig.1)だ。本来な ら無垢の部分は地を構成する。ところが、ここでは破り目が輪郭を形成 し、図として迫り出している。地と図の攪乱は、画面の安定を阻み、修復の可能性を他にも喚起する。とはいえ、攪乱の果てかえって不動の土台が際立つ。枠の存在だ。攪乱がこの枠をはみ出すことは決してない。 仮に逸脱すれば、修復である事実が曖昧になるだろう。むしろ、枠に準拠することで初めて修復が可能になっている。そして、その限りにおいて膨大な順列組み合わせが開かれるのだ。
  同年には、間引かれた木を大量に動員して、大きな幹の復元(fig. 2)も手掛けられている。もし伐られなければやがて育ちえたかもしれない巨木の像だ。のちに青野は拾得物を多用し始めるが、これはその先 駆けと言えそうだ。ただ、細部がこれほど大人しい作品は、後年も含めて珍しい。力強い全体像のもと、微細な差異が影を潜め、復元の可能性が現前の巨木一本に収斂している。


  1996- なおす・延長・復元   
  本格的な拾得物の利用は1996年に始まる。当初は平面作品 (fig.3、4、5)が多かったが、1998年からは立体作品(fig.6、7、裏表紙)も手掛けられるようになった。いずれにしろ、みな欠片を採用している。野ざらしのまま朽ち果てたものばかりだ。その大半が、生々しい廃棄物からやがて中性的な塊へ収束してゆく。もちろん中性化の度合いは一様ではない。なかには、欠片になる以前の姿形を強く喚起するものも少なくない。とはいえ、中性化する傾向だけは疑いようがないのだ。模様だけに限らず、文字や錆までが、絵具で反復しつつ意味不明な記号へと中性化している。 過激なものになると、従来の余計な意味や重みが漂白され、まるで廃棄物が未分化な胚にさし戻されるかのようだ。まさにこれは、可能性が可能性のまま結晶化した存在に違いない。他にもありえたかもしれない形象がここに渦巻いている。
  ところで、平面作品には、矩形に収束するものが多い。しかし、その要因は先の紙の作品とは大きく異なる。後者にとって、矩形は先取りすべき準拠枠だった。それに対して、前者の矩形は結果でしかない。中性化が十分貫徹した時点で自ずと枠が画定されている。

  1997- なおす・合体
  以上の作品は、単体の素材しか扱っていない。だがその一方で、素材を複数組み合わせる仕事(fig.9、10、表表紙)も同時進行で手掛けられている。1997年にはその先駆として、戦前と戦後の新聞を接木した作品(fig.8)が生まれている。
  素材は拾得物に限らず、購入物をあえて欠片にしたものも採用されている。出自の異なる欠片は、組み合わせに伴って当然違和感を生む。それでもなお同化しようと、一方の模様や歪みが絵具で他方の上にも押し 広げられている。ところが、それも溶け込まない。むしろ、元の欠片に も引き返せないまま、彩色部分だけが居心地悪く上滑りしているのだ。 同化しようとすればするほど、歪みやずれが増幅する。細部の整合性はますます損なわれる他ない。しかし、この不整合の線に沿って潜在的な地殻変動が準備される。上滑りした彩色はどこにも着地できないままそれでもなお、いやだからこそ舞い降りるべき支持体を強く希求する。不整合の間隙に来るべき支持体が透けて見える。今にも地殻変動が起こりつつあるのだ。
   なお、荒唐無稽な見かけが、この系統に多いのは、不整合が鍵になっているために違いない。整合性の失調は、一方で来るべき支持体を養う が、同時に他方では見かけの奇抜さも招かざるをえない。


   さて、三つの構造が見届けられた。可能性を担保する点ではどれも同じだが、挑まれている水準は全く異なる。一つは先験的な枠を前提にし、もう一つはそれ以前に遡行して未分化な存在を根拠に据える。最後はどちらも前提することなく、具体的な不整合のただ中から可能性を要 請するものだった。当初から計画されていたわけはないだろうが、振り返ってみれば一貫した道筋が見えてくる。それゆえ、各水準の取り組みには、必然性を強く感じずにはいられない。とはいえ、作家がこれからどのような道行きをとるのかは全く見当がつかない。すでに新たな局面を拓きつつあるようなのだ。最近の個展(2008年 ギャラ リー現、書本&cafe magellan(マゼラン))でその片鱗を見せている。固唾を呑んで、今後の展開を見守りたい。 (高熊洋平)