平成16年度宮城県芸術選奨受賞者作品展(美術部門)展示作品に関して抜粋


 前者については、以前、宮城県美術館でも拝見したことのある作品(切り株が素材)を含め3点が展示されていました。ほかの2点はというと、錆びてうち捨てられた鉄製の看板や薄いプラスチックで出来た簡易な弁当用の容器を素材にした作品です。 どの素材もあるべき機能(生命、看板の標示、食べ物の保護)を失い、経年の風雨に曝された結果か、傷み変形しているものばかりです。素材は、拾ってきたそのままの姿で一部露出していますが、徐々に手が加えられ、やがて抽象的な物体にまで至ります。 例えば、看板であれば、最左端は生な素材のままなのに、右に視線を移すに従って、当初は実際の錆だったものが絵具で置き換えられ、それがさらに平面上の模様にまで昇華(?)されているのです。また、素材自体は物質性もあらわな鉄なのに対して、右方向の推移に応じて、そうした物質感をなるだけ抑えるように支持体がいつの間にか木材にさし替えられています。 生な素材から抽象的な物体へ。 実際の制作手順もそうであるには違いありません。 しかし、その移行しつつある中間地帯に目をやると、時間軸が複雑に錯綜しているのが知られます。具体物の抽象化は必ずしも風化するようにはなだらかに推移していないのです。 絵具は、抽象的な領域に入って初めて使用されるわけではありません。素材そのままの錆と並んで直截看板の上にも打たれています。あたかも錆が絵具から盛り上がってきたかのように。しかも、そもそもこの中間地帯での停滞が冗長に思えるほど豊かなのです。まるで抽象的な領域ヘの到着を延々と引きのばすかのように。例えば、硬質かつ軟質な鉄独特の波打った凹凸をわざわざ融通のきかない木材で再現しながら、具体とも抽象とも不明瞭な領域を押し拡げてみせてくれています。 つまり時間軸は、具体物が自ずと抽象化する右方向へと同時に、逆に抽象模様が結晶のように具体化する左方向にも流れ、それどころか、それら二つの時間がともに干渉し合う時間の淀みまでもが作品には孕まれているのです。 それゆえ、抽象化する具体物にしろ具体化する抽象性にしろどちらが優位というわけでもなさそうです。作品にとっては、おそらくどちらも等価で、数あるありうる形のヴァリエーションの一つでしかないのではないでしょうか?だからこそ、両者の移行地帯に、あれほど豊かな階調が求められたのではないかと考えられます。いわば、階調の度合いの分だけ解像度の振幅があり、最も解像度の高い看板が左端の素材そのものであり、最も低いものが右端の抽象的な物体である、と。重要なのは、解像度の度合いに応じてその数だけ看板は存在するのであって、真なる存在として、素材そのものや抽象的な物体が顕揚されるわけではないということです(cf.李禹煥等もの派との差違)。 ただ、以前拝見したことのある作品ではこれとはまた違った様相を呈していました。 作品は、廃車をやや単純化しつつ復元し、マットな絵具で均一に塗り込めたものです。これは、模型の抽象性がむしろその場にない現物の存在性を純化しているように見受けられ、もの派の作品と近い印象だったのでした。




青野文昭 展『異種混合』
期日:2006.9.13〜18
場所:ギャラリー青城 B室

十数点あった展示作品はどれも壁にかけられ、絵画のような趣です(展示風景 )。

ところが、支持体の表面は一様に平らではありません。そればかりかフレームも微妙に歪んでいます。さらにそこに描かれているものはというと、現実の描写でもなければ、抽象的な構成でもありません。

よく見ると、支持体にはキャンバスではなく、平面状の廃棄物が採用されています。しかも完全な形を保っているものがひとつもありません。風雨に曝され、欠片になったものばかりです。ある作品ではそれに紙や板が接ぎ木され、ありえたかもしれない全体像が仄めかされ、また他の作品では、異なる廃棄物の欠片同士が結合されたりしているのです。
そして、そこに塗布された絵具はというと、廃棄物に元々備わっていた色味や模様を辿々しくなぞっているだけです。

例えば、スーパーマーケットなどで見かける、惣菜用の小さな発泡スチロール製の容器、これが組み合わされた作品(「なおす・合体・乗っ取り」2005)を見てみましょう。

二種類ある容器は、僅かにサイズが異なり、完全に噛み合うことがないまま結合されています。いっぽう着色は、この歪な結合部を中心に、全体に統一感を齎すよう、注意深く施されています。どうやら異質な素材同士を媒介するためにこそ、着色が導入されているようです。かりに着色がなかったとしたら、おそらくこれら容器は互いにその物質性を露呈し、歪な結合部は、容器同士の異質さを際立たせていたように思われます。

さらにいうと、物質性の抑制はとりわけ黴を真似た着色に顕著です。容器は一部、手つかずのまま露出しており、そこには経年蓄積された黴が付着しています。本来であれば、黴の生々しさは否応なく容器の物質性を強調するはずです。ところが、そこに黴と同色の着色が添えられることで、生々しさの過度な突出は宥められています。絵具は、本物の黴を引き延ばすかのように、うっすらと着色され、黴はその諧調の一部として無理なく取り込まれているのです。

こうして着色は、支持体の生々しさを解除し、純粋な表層を浮き上がらせます。しかしだからといって、支持体の物質性が完璧に払拭されるわけではありません。容器特有のコーティングされた光沢は、マットな着色では再現しようがありませんし、汚れの全てが模様に昇華されているわけではないのです。そもそも生々しさを悉く表層の秩序に回収しようとは目論まれていません。むしろ作品にとっての核心は、支持体と表層との乖離にこそあるように思われます。

支持体から乖離した表層は、だからといって支持体と全くの無関係になるわけではありません。表層上の模様や色彩は、まさにそれが「図」として成り立つためにも、それを浮き立たせる「地」を要請するからです。いうまでもなく「地」とは支持体のことです。しかし、表層は既にオリジナルな支持体から切り離されています。したがってどんなに模様や色彩が「地」を求めようとも、もはやそれが収まるべき支持体を特定することは叶いません。再び先の作品を例にとります。容器が手つかずのまま露出した部分には、花弁模様がプリントされています。一方これを真似た図柄が、妙な位置に絵具で描かれています。ふたつの容器の丁度結合部です。これはどちらの容器にとっても収まりの悪い位置なのです。いよいよ図柄と容器の乖離は決定的です。それにも拘らず、この花弁の模像はその背景たる「地」、すなわち収まるべき支持体を求めて已みません。この時ぼくら観者は何を見ているのでしょうか?未だ見ぬ「地」、在りえたかもしれない支持体。作品が喚起して已まないのは、まさにこの可能性としての基底面なのでした。

最後にいくつか補足。
表層を浮上させるものとして、ここでは「黴」を例に挙げましたが、同じ機能を果たす細部はもちろんこれ以外にも指摘できます。布地を利用した作品であれば、本来それに刷られていた唐草紋様であったり、あるいは金属製の看板であれば、錆やそこに元々記載されていた文字といった具合にです。今回の展示では見られませんでしたが、以前目にした作品には、この文字や記号が、表層を滑走するかのようにあしらわれたものがありました。収まるべき支持体を完全に見失い、当て所なく浮遊する記号。今の文脈では、これを表層の暴走であったと解釈できます。
ところで、今回の展示は平面状の作品ばかりでしたが、作家が手掛けるのは、そればかりではありません。過去には、廃棄された自動車や朽ち果てた切り株など、立体的な素材を扱ったものも多数あります。しかしそこで問われていたものもやはり表層であり、絵画であったのではないかと考えられます。というのも、立体作品の大半にも依然着色は施され、着色のない作品についても表面の肌理が着色と同様の効果を齎していたからです。切り株の作品であれば、樹皮の欠片が反復的に模倣され、実在の樹木から表層の肌理が自律していたのでした。