青野文昭の造形について―循環のシステム




 中島みゆきの歌に「時代」というのがある。


  まわるまわるよ 時代は回る
  別れと出逢いを くり返し
  今日は倒れた 旅人たちも
  生まれ変わって 歩きだすよ


 わたしは、ぐるぐるの運動が大好きで、大工の熊さんはわたしのことを「ふんころがし」
に似ていると言ったが、至当である。輪廻とか、回路とか、渦巻とか、循環といった言葉は
もっとすきで、ピタゴラスの輪廻転生やベルクソンの知覚と記憶の回路図、ティントレット
やジャコメッティの渦巻き、最近ではわたしの循環器官と青野文昭の循環システムに興味を
抱いている。

私が円環運動を好むのは、おそらく、絶えず生まれ変わろうとする運動がすきなのだと思う。
生まれ変わるには、破壊という行為が手っ取り早い。だから、無意識にいつも何かを壊してい
るような気がする。壊して、また新たに同じことを始めるのだが、それは少しずつ違ってい
て、つまりちょっとだけ以前よりも拡がるのだ。

青野文昭が壊れたものを再生するのは、単純に直したり、修復したりすることではない。むし
ろ、壊れた断片が蘇生し、生まれ変わることなのだと思う。それは転生と言ってもいい。その
方法は、生活の必然性から来る眼と手のリアリズムであり、恣意的創作を極力排している。彼
の造形においてよい点は、そのようなイマジネーションの働きを限定したことだ。彼は、ある
断片から空想上の物、訳の分からない深層心理的なものをつくらない。使い古された断片を再
生すれば、そこにペーソスが生まれ、歴史を呼び起こし、人間たちをつなぐ物の記憶というも
のが立ち上がるのを彼は熟知しているからだ。だから彼の修復物は芸術になる。

青野文昭の芸術のいとなみは、人が忘れたい物、忘れたことを呼び起こす仕事だ。だから嫌わ
れるのかもしれない。しくじり、汚れた過去は記憶から抹消し、封印しておきたいものだ。し
かし、過去は消えない。むしろ、その過去によって、現在社会が今とは違った意味で豊かにな
り、未来も開かれることを彼は知っている。極論すると、現在も未来もない。いまこのときも
既に過去なのだと思う。われわれは過去の渦に押し出されるように生きている。本当は、進歩
も未来もなく、時はめぐるだけなのだ。春夏秋冬のように、、、。