青野文昭の仕事―廃物の弁証法

 

青野文昭は、モノを生み出す芸術家であるが、美術史家のように現代アートについて思考してきた。彼は、日本の戦後美術の歩みを考察し、日本人にとっての未来のアートを考える。彼が目指す日本のアートは、欧米の伝統である美的調和に与するものではない。彼は、そうした調和ではなく、日常的な物を介した社会的な有機的システムの反映を作ろうとする。問題なのは、物にその内容を語らせようとする。だから、われわれ見る者は、想像力を刺激され、物とわれわれとの関係を見出すようになる。だが、まずモティーフ、すなわち彼を動かすものがなければならない。彼はそれを「なまなましさ」と名づける。

 

 われわれにとって、彫刻や絵画は何なのか?それらは、われわれに何かを気づかせてくれるものではないか?しかし、われわれに何かを教えてくれる芸術作品は、きわめて稀である。ゴーガンは「われわれはどこから来たのか?われわれは何ものなのか?われわれはどこへ行くのか?」という絵を描いて、人々に問うたが、そんな形而上学的な問いには、だれも答えてはくれまい。実際、その手掛かりは、人間の作ったもの、社会の廃棄物のなかにあるのだ。青野がはじめてこうした物に彼の「なまなましさ」を感じたのは、近所の修繕されたコンクリート壁からであったという。彼は、この壁に、「過去/現在/未来」の人間の行為とはかなさと歴史性、そして素材の微妙なずれを感じ取り、彼の作品制作の出発点としたのである。

 

 彼は、「作る」という考え方を「修復」という行為に置き換える。それゆえ彼の修復とは、過去の修復ではなく、未来に向かって、過去と現在とのずれを意識する行為となる。1992年の彼の最初の個展は、まさに廃物の「修復」がテーマとなっていた。1995年の個展「交わりのシステム」、1997年の個展「なおす・無縁―有縁」を経て、2000年のリアス・アーク美術館での個展に至って、彼は自らの制作の弁証法的性格を確立した。

 彼は、廃棄物の断片を拾い、作品の動機とする。それらのものは、人間活動の様々な痕跡である。彼は、この断片にその未来を開いてあげるために、自らの身体を預けるままにする。これはヴァレリーの言う「表現のため、物に芸術家の身体をもちこむ行為」である。その物質性、その時間性、その記号性、その他様々な物の性格を身に受けながら、彼は、あたかも天啓を受けたごとく、これらの一切を組織化する。そして、作品が生まれる。これが彼の弁証法的作品制作の方法である。彼は、物を別物に「変質/蘇生」させる達人である。

                        (武田昭・NACキュレーター)




青野文昭展―ALTERATION―開催のご案内

 

このたび,青野文昭の新作展を下記のとおり開催いたします.これまでの彼の個展は,「修復」・「なおす・有縁-無縁」・「後天的に」・「産婆術」といった副題が付けられていました.今回は「ALTERATION」,すなわち「別物にすること,変化・変質」といった意味になります.周知のとおり,青野文昭氏の作品は,修復によって元の物を髣髴とさせるような復元物と見なされがちです.しかしながら彼は,打ち捨てられた実用物のわずかな断片を基にして,その物の意味と形態,また来歴等を想像しながら,元の物にあたかも付加価値をつけるように,さらに物の未来を開いてあげるように,作品をつくり上げていきます.つまり元の物は,芸術作品として別物になります.したがって彼の作品は,ある「質」を別の「質」に変えるのです.一般に,芸術作品は内的なものを外的なものに変える行為です.ここには常に素材の克服が課されます.しかし彼の場合は,外的なものを内的に変更し,さらに外的なものへと表現していきます.それは,すでに克服された素材(既製品)を媒介にして,その質を別の素材によって,別の質に変換していく弁証法的行為ですから,従来の美術制作の境界を越えて,明らかに新たなアートの可能性を開くものと言えるでしょう.

 

 2003年9月15日 NAC代表・武田昭彦