青野文昭は、作品の創造性を成立させるためにモダニズムの文脈とは違う根拠をすえ、異形の創造を積み重ねてきた。しかし、これまで、青野の作品はコンセプトからのみ語られすぎてこなかっただろうか。
 (今回の作品では特にそうだが)青野の作品の見かけは、素朴な、いってしまえば、工作少年の作品を大きくしたような、あるいは、普通の使い汚れた雑物のような見かけをもっている。今回、出品されていない平面状の作品でも、強い平面性もありながら、単純な塗りに見える絵の具のつきによって、いわば、素朴なだまし絵のような外観を呈する。しかし、平面、立体のいずれにせよ、それらは、丁寧にみると、あるいは近接視すると、達者なあるいは複雑精緻な職人芸とは違ってはいるが、誠実な仕事によってつくられていることがわかる。
 今回の船の作品は、まず、その「工作」的見えとしてあらわれる。「異形性」は工作としては異常に大きいその大きさにまずある。他方のポリタンク様の作品は、倉庫の雰囲気に同化して、作品なのか作品ではないのか(たぶん、青野の作品に親しんできた多くの観者にとっては、青野の作品がどれかは予測の範囲にあったわけだが、それにしても)不思議な存在感をもっていた。どちらも近寄って見れば、作られた部分と現実にあった物体が合体されている。形作られた部分が欠けた部分を埋めて物としての存在を回復しているかのようだ。しかし、一つ一つの作品は、そもそもの物が完全に直され再現されているわけではなく、その点で、それは「なかば」創造的な異形なものになっている。より近接的に見ると、新たに形成された部分には、素朴な塗りが施されている。それは、元の断片の上にも多少ほどこされ、新品の物体表面のテクスチャーと塗装を再現しているのではなく、その物体が通過してきた時間と環境の影響をもある程度再現し、また、新しく作られた部分ではもとの部分からの距離によって、再現度のグラデーションがあることが見える。この表面の彩色は、どちらかといえば、接合部分の継ぎ目をめだたせなくしているようだ。が、それだけではなく、彩色は一個の物であることを強調している。
 青野の〈なおす〉は、元の断片から成長してきかのような他律的な創造物となっている。他律的で、工作的であることによって、この、異形の物体は、何か我々の日常とは違った別の日常を幻視させようとする。しかし、この別な日常は、ある種のアニメの持つ「世界観」などよりも、フィクショナルではない。現実の日常の方に寄り添って在る、微妙な存在なのだ。しかし、物体としての作品は、原理訴求的であるよりも、誠実な工作の持つある種フェイクの臭いも漂わせている。