「re」展評 アートスペース・篠原誠司


  美術家が造形のための素材となりうるモノを認識し、そこに何らかの関係性を見出 そうとする行為を通じて、モノと人、あるいはモノとモノとの出会いの中に見られ る、モノ自体の存在の本質、さらには「世界」に対する私たちの意識の在り方につい て考察することを主旨として、青野文昭とくわたひろよによって行われた展覧会。

 青野文昭は、壁掛けのレリーフ作品と床置きの立体作品の計2点を展示した。まず 壁面のものだが、約140×65cm横長で、左右方向のほぼ中心線から20cmほどの厚みを 伴って、約150°のゆるやかな角度の「くの字」に折れ曲がった形状で、表面は古び た革製品のようなややくすんだブラウン色で覆われ、左端から40cmほどの部分では、 ところどころでひび割れや剥離が起こっているが、そこには他の部位に見られないよ うな、長い時間の堆積が醸し出す質感が含まれているように思われる。
 青野は、ある場所に破棄されていたさまざまなモノやその断片に、造形的な素材と 手法をもって「継ぎ足し」を施し、彼が推測するモノ本来の姿・状態を再現する(自 身では「復元」ということばでそれを言い表している)行為を通じて制作を行なって いるが、この作品では、「鳥の海で破棄されたイスの復元から」という題名から、 「鳥の海」という地(実際には宮城県内の海辺の名)で拾われた「椅子」をもとに造 型物としたものであることが想像できる。そこに破棄された「椅子」の断片が、ここ では作品の左端の部位にあたるが、そこを子細に眺めると、破棄されていた状態を思 わせるように溝や凹凸が刻まれた表面のところどころに、かつて「椅子」の内部につ められていたであろうクッションの綿のような材質が覗き、それもやはり、これが 「鳥の海」で青野に見出されたときのその姿を想像させる要素となっている。そし て、「椅子の断片」から右側には、合板の上にボンドを盛り上げて整形した部分が連 なって作品の7割ほどの面積を占めているが、造型として継ぎ足されたこの部位の表 面は、「椅子の断片」の部分と比べると明らかに滑らかではあり、全体がブラウン色 のアクリル絵具で覆われて統一されることで異なる二つの質感が大きな違和感なく渾 然一体となったその姿には、青野に見出される以前の「椅子」が背負ってきた長い時 間と、「発見」の瞬間から始まる、造型的思考およぶ制作行為の中の時間という、異 なる二つの時間軸のゆるやかにつながりを見て取ることができるのである。
 また、床に置かれたもう一点の作品では、60 50cmcmほどの床の設置面から上方に 向かってすぼまるように、高さ146cmの「ロケット」のようなかたちの立体に成型さ れているが、よく見ると、36 27cmほどの面になった天頂部から40ccmほど下の範囲 は、ところどころでひしゃげたような複雑なかたちとなり、その下にはやはり合板を 主素材とした造型をもとに継ぎ足された部位が継ぎ目なく連なり、すそを広げるよう な幾つかの面から形成される全体は、やや黄色がかったような薄いブルーのアクリル 絵具で覆われて統一されたイメージを放っている。「鳥の海で破棄された容器の復元 から」という題名から、前出の「椅子」と同様に「鳥の海」の地で拾われた「ポリ容 器」をもとに「復元」がなされたことを推測させるこの作品でも、「Eizai」という 企業名を表す文字が前面に刻まれ、さらに容器の注ぎ口が開いた姿からは、青野がこ れと出会う前の時間が読み取れる。そして、壊れてへこんだフォルムをそのまま引き 継ぐように造型をもって継ぎ足された1m程の部位は、彼がこの「ポリ容器」と関わ りを持った時間を表し、それらが継ぎ目なくつながる姿は、「椅子」の場合と同じ く、モノ本来に含まれる時間軸が、青野自身の時間にゆるやかに収束されていゆく過 程を視覚化したものであるように思われてならないのだ。

 中略

 ここまでそれぞれの作品を詳しくみてきたが、さらに各作品の持つ意味について、 今回の展覧会のテーマとの関わりの中で考えてみることにしよう。
 まず青野の作品である。私はこの展覧会のために記した解説文の中で、素材となる モノを彼が見出そうとする視線そのものが制作を支える源であり、そうやって見出さ れたモノを、自身の造形的思考と手法をもって「復元」することで、モノ自体を彼自 身と同列の場所に並べて融合させ、その自立性を際立たせるという特質を指摘した が、この、モノ本来の在り方とそこに向かう青野の意識が相並ぶ様は、今回の展示作 品について先ほど述べたような、モノ自体に本来含まれる時間と制作の過程で付加さ れる彼自身の時間とがゆるやかなつながって一つの造形となることとの間に、深い関 わりを見て取ることができる。
 こうした、素材となるモノおよび造形として「復元」された作品の在り方と、そこ に含まれるであろう「時間」との関わりは、青野の表現を語る上では最も重要な要素 だと思われる。なぜなら彼自身の主眼は、作品として現れた造形としての姿よりも、 むしろ、彼とモノとの関係性にあるからだが、モノの「ありのままの姿」を露にしよ うとした、いわゆる「モノ派」の概念をさらに推し進めて、そこにまつわる関係性 を、「復元」という時間軸を内に含みつつかたちとした青野の表現は、それ自体は絵 画もしくは彫刻の体裁を取りながらも、その実「モノ派」が追求しようとした、人知 を超えて現れるモノ本来の力強さを秘めるという、きわめて特異な存在だといえるの ではなかろうか。(くわたひろよ評論文省略)