青野文昭 世界に向けられる視線


 青野文昭は、看板や何かの容器、大きなものでは大木の切り株や家具、乗用車、看板など、野に打ち捨てられていたさまざまなモノの断片を拾い、石膏や絵具をはじめとするさまざまな素材を使って、それらに継ぎ足しを施し造形物とした、絵画および彫刻作品をつくり続けている。
 例えば、切り株の断片をもとにした作品『無縁−有縁 19年前に切られた切り株の復元(1999年)』では、木の骨組みと石膏による継ぎ足し部分の上に顔料で彩色されて大木の切り株が制作され、壊れた家具と石油ポリタンクの断片による作品『なおす・代用−合体・融合 2006-1(森と石油の思い出に)』では、赤い絵具で塗られた石油のポリタンクの断片が、壊れた家具で補われて一つのかたちとなった。彼自身はこの手法を「復元」と名付けており、制作については「断片との接触から全てが始められる」と語っている。このことばが示す通り青野の制作は、まず外に出て作品のもとになる何かを探すことから始まる。
 ところで、野に捨て置かれた廃棄物の中から、彼が見い出し作品となるのは当然その一部に過ぎない。これらはなぜ選ばれたのか。彼の表現の中で注目したいのは、造形として再生したモノの姿ではなく、無数の廃棄物の中から一つの断片を見い出そうとする視線そのものである。青野によって拾われ今や作品の一部となったモノたちは、大小やかたち、材質も多岐におよび、共通点は見受けられない。それ故に疑問は、「何が選ばれたか」ではなく「何故選ばれたのか」という点や、モノとの出会いは偶然なのか、それとも何か必然の理由があったのかという点に向けられる。
 制作について青野は、すべてのモノにはもとより固有の性質があり、それを明確に引き出すための「手助け」として制作を行っているという意味の発言をしている。また、「断片から何か新しいイメージ、形態を導き出そうという意図はない。復元させること自体を目的としているわけですらない。」とも語っている。これらのことばから、青野がモノにう向ける視線の行方を推測してみよう。青野に拾われた段階では、モノは完全に受け身の状態にあるが、モノが本来持っていた固有の性質が制作の中で吟味され、その末に自らが存在を主張する一個のモノとなり、制作者である青野との主従関係は解消される。
 ここが青野の表現の際立った部分で、出会いそのものは偶然だけれども、作品となった折りには彼自身と対等の関係が結ばれような性質を秘めたものを、ある必然性をもとに無数の廃棄物の中から探り当てることができるのではないかろうか。そして、モノの本質を見い出す視線は、その背後にある「世界」という大きな存在の中で、自身の「生」をモノと相並んで確立させようとする意志が育てたように思われてならないのだ。



 青野文昭は、看板や何かの容器、大きなものでは大木の切り株や家具、乗用車、看板など、野に打ち捨てられていたさまざまなモノの断片を拾い、石膏や絵具をはじめとするさまざまな素材を使って、それらに継ぎ足しを施し造形物とした、絵画および彫刻作品をつくり続けている。
 例えば、切り株の断片をもとにした作品『無縁−有縁 19年前に切られた切り株の復元(1999年)』では、木の骨組みと石膏による継ぎ足し部分の上に顔料で彩色されて大木の切り株が制作された。また、壊れた家具と石油ポリタンクの断片による作品『なおす・代用−合体・融合 2006-1(森と石油の思い出に)』では、赤い絵具で塗られた石油のポリタンクの断片が、壊れた家具で補われて一つのかたちとなった。彼自身はこの手法を「修復」もしくは「なおす」と名付けており、制作については「断片との接触から全てが始められる」と語っている。このことばが示す通り青野の制作は、まず外に出て作品のもとになる何かを探すことから始まる。
 ところで、野に捨て置かれた廃棄物の中から、彼が見い出し作品となるのは当然その一部に過ぎない。これらはなぜ選ばれたのか。彼の表現の中で注目したいのは、造形として再生したモノの姿ではなく、無数の廃棄物の中から一つの断片を見い出そうとする視線そのものである。青野によって拾われ今や作品の一部となったモノたちは、大小やかたち、材質も多岐におよび、共通点は見受けられない。それ故に疑問は、「何が選ばれたか」ではなく「何故選ばれたのか」という点や、モノとの出会いは偶然なのか、それとも何か必然の理由があったのかという点に向けられる。
 制作について青野は、すべてのモノにはもとより固有の性質があり、それを明確に引き出すための「手助け」として制作を行っていると発言をしている。また、「断片から何か新しいイメージ、形態を導き出そうという意図はない。復元させること自体を目的としているわけですらない。」とも語っている。これらのことばから、青野がモノにう向ける視線の行方を推測してみよう。青野に拾われる段階では、モノは完全に受け身の状態にあるが、それが本来持っていた固有の性質が制作の中で吟味され、ついには自らの存在を主張し始める。ここが青野の表現の際立った部分で、作品となった折りには、制作者である彼自身と対等の関係が結ばれる性質を持つものを、それが必然の出会いであるかのように、無数の廃棄物の中から探り当てるのである。そして、モノが秘める本質を見い出す視線は、自身の「生」とモノとを、この「世界」の中で相並んで確立させようとする意志が育てたように思われてならない。

                                      
 (Gallery ART SPACE 篠原誠司)