私たちは他者を食べなければ死んでしまう宿命を負っています。しかし、他者を活かし育んでいることも確かなことです。それは愛のなせる技です。愛は、自分と他者との境を取り払い相手のなかに自分を、自分のなかに相手を見出します。そこには自分を否定して相手を活かす方向、極端に言えば自ら進んで相手に食べられる意識が打ち出されています。

 ここに集まった三人はいずれも愛を深く意識しています。というのも自分の意識を作品として何ものかに捧げ、いわば「食べられる」ことを意識しているからです。では、何に対して捧げているのでしょうか。それは「死」ではないでしょうか。彼らは、死という「他者」といかに向き合い、融和していくか模索しています。それは生と死の境を取り払い、生のなかに死を、死のなかに生を見出す作業です。それは私たちが他者を愛するように死を受け入れられるかという問いかけでもあります。

 青野文昭は廃棄物に手を加え、「もの」を機能中心の見方から解放しようとしています。機能の面からみれば確かにこれらは廃棄物です。しかし、物そのものとして見たとたん、これらは絶えず語りかけ、その魅力を訴えてきます。青野は、用途ではなく、もののありさま自体にアプローチし、作品化しました。ものが機能していたときの姿より作品になったときの方が活き活きとしてくるのは、ものの本性が青野の意識や記憶によってあらわになったためです。青野は、ものにまつわる記憶のみならず、もの自体がもつ潜在化した記憶やいのちを手にとって見せようとしています。こちらの意識や視点を変えれば廃棄物とされているものも「生きたもの」となるわけです。これは一重に青野のものに対する思いの深さによるものです。青野は廃棄物を作品化することにより「もの」と自身の境を取り除き、ひとつに融和しています。

                        江尻潔  『いのちの法則展』記録集収録「いのちの光」からの抜粋