『変態』


 青野の作品は一見するとごみのように見える。しかしその細部には、まるで微生物が這い回ったかのような作家の仕事が見えかくれする。

 青野文昭は1968年生まれの作家である。宮城教育大学の大学院在籍中から「修復」という概念を基に作品を発表してきた。初期の作品は自然体人間という明確な対比構造のなか、間伐された木は枝を拾い集め、木、森の修復を試みていた。そこには人間によって破壊される自然を直す青野の視点があった。この段階では自然と人間の関係を客観視しており、自身がその当事者であるという意識は感じられなかった。しかし現在の作品からこれらの構造は消えている。自分自身を世界のサイクルの中に組み込み、「自らの作る行為」発生や分解といった流れの一部として機能させようとしている。収集物は全て人工物、あるいは加工された自然物となり、壊れるプロセスも人間による自然の破壊から自然による人工物への浸食と変化した。流れを外から見るのではなく、自らがその流れの一部となること。この視点の変化が作品に与えた影響は非常に大きい。

 近年青野は「修復」という言葉を使うことに抵抗を示し始めている。実際、近作には修復よりも適した表現があるように思われる。修復とは壊れた部分を直し、もとの意味をなす状態に戻すことである。しかし青野は形態的な意味は残しつつ、まったく次元の違うある種無意味なモノを生成している。収集された遺棄物は、ちょうど自然がその意味を吸収していったのと同じように青野に吸収され、分解されてゆく。

 菌類の中に昆虫に寄生して子孫を残すものがいる。一般に冬虫夏草と呼ばれるこれらの菌類は、冬の間に虫に寄生し初夏になると発芽し胞子を飛ばす。寄生された虫はやがて死に、その体は虫のままの形態をほぼ保つが、同時に意味の上ではキノコになってしまう。このキノコと昆虫が融合してしまった姿は青野の作品と共通のイメージを持っている。青野の近作は菌類的なチクチクとしたエネルギーに満ちており、作品の基となっている遺棄物を侵食した者と同じ波長を持っている。それゆえ収集物と形成物は自然に結びつき、まるで当たり前のように異形の様相を成立させる。このような青野の作品をもはや「修復」と呼ぶことは適当ではないだろう。

 当初使われていた修復という言葉の背後には「人間中心に認識された世界」を外部から直すという構造が感じられた。そしてその視線が自然に対して向けられた場合、何らかの文明批判とエコロジカルな発想を受け手に与えてしまう可能性があった。それは同時に作品の理解を妨げ、作品が作家の言葉を誤解させてしまう可能性を含んでいた。しかし現在の青野の視点が自然という大きなサイクルの中に捉えられている事はだれの目にも明らかである。そしてその思考は「分解」という自然の出来事の模写と解釈から始まり、その結果青野の行為と自然現象と人工造形物が融合したキメラ的でまったくオリジナルな異物を生成させているのである。そこにはもはや無粋な社会批判等は感じられず、純粋な作品のみが存在している。

 もともと青野が修復という概念を導き出した過程には芸術への真摯な問いかけがあった。全てを作ってしまう作品には実社会や現実との実存的関係性が薄く、アートを世間離れした別世界の行為にしてしまう。さらに現実との接点を成立させるために外部から作品を説明する多量の言葉を必要とする。しかし青野はそういったアートの希薄さを「現物と融合する」ことで現実に関係させようとしたのである。結果的にそれは成功し作品には多くの言葉が含まれることになった。

 ゴミとしか認識されなかった遺棄物は、青野文昭という美術家の意識と融合することで態を変え、自然や時間といった大きな流れを内包し、我々に多くの問題を無言のうちに発するアートになったのである。

 

                                   山内宏泰