「なおす・それから」2007夏

 

自分の仕事は「断片」を何処かから拾ってくるところから始められる。白いキャンバスや良材としての石材や木材を前提に制作をはじめる通常の制作とはその趣を異にしている。またその断片を、キャンバスに張り付けたり、石材や木材のかわりとして素材視する様なスタンスでもない。文字通り「断片」との接触から全てが始められるのだ。

 

 例えば多くのペインタ―が前提とする白いキャンバスの「まっさらな始原」という設定が、一種の観念にすぎず、実際はその矩形のタブローが、西欧美術の特殊な歴史を背景として確立されてきた、一種の制度であることは言うまでもない。

 一方自分の前提とする「断片」はそういった特殊な「制度」と無縁なものとしてあり、「今、ここ」で自分と偶然に接触し見出されてきたものである。それらはそれぞれ別々な姿かたち、文脈、歴史を持ち、固有な具体物として存在する。「断片」から「全てがはじまる」とは、それら固有な姿かたち、文脈、歴史を前提とするということであり、そのような「他者」としての現実(現実としての他者)を受け入れ「交わろう」とすることにほかならない。それはいわゆる「まっさらな始原」という観念を仮構しつつも、それとひきかえに「特殊な」西欧美術の歴史や制度を「他者」として受け入れる(意識的にしろ無意識的にしろ)大多数の作家的態度とは根本的に異なっていることになる。

 

 だからといって自分はそのように偶発的に見い出された「断片」の具体的な固有性にフェティッシュに耽溺するものではない。むしろ「断片」はひとつのメタファーとして機能している。

 例えば人知を超えた終わることのない、割り切れない、多様で未知数な他者としてある「現実」のメタファーとして。完成していない、不完全な、欠落している、したがって何かを求めている、過去のある、したがって未来へのある種定められたベクトルを持つ、しかしいくつものありうべき道に開かれている存在、いわゆる世界や人生のメタファーとして。

 

 自分の仕事ではそういった「断片」に孕まれる本性を最大限に尊重しようとしてきた。「最大限に尊重」とは、例えば「わりきれない」、「完了しない」、「いくつものありうべき道に開かれた」といった属性に対して、ある種の「答え」を見出し、完結させようとすることをも回避しようという態度を指す(それ以前に断片の本性を無視して、作者自身の観念を覆いかぶせその材料とするといった、従来の廃物アート的スタンスは論外であることはいうまでもないが)。「断片」が持つそういった「片付かない」属性は最後まで温存され続け、あるいは増幅されようとする。だからこそ「他者性」や「多様性」も排除されることなく作品の内に内包されえるのだと考える。

 

自分が今まで「つくる」をカッコに入れ、あえて「なおす」という構造に注目してきたのは主にそういった理由においてである。それゆえに「断片」から何らかの新しいイメージ、形状を導き出そう(つくりだそう)という意図はない。それどころかベタな意味での「なおされる―復元される」こと自体が目的とされているというわけですらない。「なおす」ことを通して提示しようとしているのは、実はその「なおす」ことの不可能性であり、その不可能性から浮き上がってくるもろもろの構造である。それは言ってみれば先述の「現実」というものが孕んでいるところのリアルで多層的な厚み・組成・生成力そのものでもある。

 

 現実界のあらゆるものは完結せず、だからこそ全ては欠落しており、したがって何らかのレベルで「なおされる」(完成される)ことを我々に強いている。しかしけっして完全に「なおされる」こともなく、ズレ続け、別段階の「不満」―欠落に辿り着き、その変容を留めることは決してない。生きている―現実にあるということはそういうことであり、つねに何かから何かへ推移している「それから」の状態にあると言える。自分はそのような片付かない「現実」に立脚し尊重することで、「他者性」や「多様性」を失うことのない、新たな「ものづくり」のレベルを提示しようとしている。