私が「修復」というテーマを設定したのは1991年。さらに拾った断片を継ぎ足しながら「なおす」ことを始めたのが1996年(なおす・延長、復元)。以来現在までそれを続けている。2002年になってそれと同時進行で、複数の断片をもちいる試みを新たに始めた。形式化させてきた自分の仕事を、もう一度現実世界の雑駁な次元で再検討してみたいと思ったからだ。

 実際に拾ってくる「断片」という存在は既に何らかの固有な文脈、ある種のストーリーを宿している。それは作者としての自分に無関係な「他者」として存在する。我々の現実世界にはこのような断片―「他者」としての声が複雑に交差し関係し合いながら充満している。そうしてそれは変容を続け留まるところがない。つねにその欠落の補いを我々に強い、だが二度と同じものにはなりえない。完成ということがなく、次々と別な断片が後付けされ別なものに成り変り続ける。

 夏目漱石の『道草』に次のような一節がある。

「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起こった事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変わるから他にも自分にも解からなくなるだけのことさ。」

これは本編全体を象徴する有名な一節だが、私自身の立脚している現実感と強いつながりを感じる。

 作家的な意志や思想を凌駕する「片付かない」現実世界。そういった「世の中」の組成に「美術」は対応できているのだろうか?今まで私はこの種のリアルで多元的な生成・変容の瞬間に立合おうと欲し、さらにそれを造形作品という形式に抽出しようとしてきた。「なおす、集積、合体、侵入、のっとり、代用、、、、」といった言葉は、その様な「片付かない」現実に向き合う過程で見出されてきたものだ。

 

                         2007,7,7 青野文昭