<美術における自由> 2012・1



 作品と自由


 「美術」における自由とは何か?

 それにはまず自由な「作品」とはいかなるものか?が問われなければならない。
 ここでの美術における「自由」の意義は、作り手の「発想」や「行為」の自由さとは別な次元の問題としてある。
 「作者」の振る舞いばかりが自由であったとしても、「作品」そのものが自由であるわけではない。
 むしろ様々な制約を超越しているかのような作者的存在が、自身の作品に対しては先制君主として君臨し、本来主役であるはずの「作品」が、その支配下に隷属させている例がほとんどではないだろうか。
 大切なのは作品そのものに「自由」が内在していることである。そうでなければ真の意味で作品の「自律」は有難い。
 「ものづくり」に「自由」が反映されていなければ、それは一種の「暴力」と同じなのである。

 一般的に人間社会において、「自由」とはどのように定義されうるものなのだろうか?
 例えば「自由意志」の定義としては以下の様に考えられている。


 「他の行為の選択可能性を保持しながら、ある行為を選択し実行する能力を持つこと」。


  いわゆる「他行為可能性」を保持しつつ、その上で、ある一つの選択された行為を行なうこと。そうした場合「自由意志」が反映されているとみなされている。
 その上で、そうした「自由意志」によりなされた行為に対し、通常、社会的な「責任」が科されることになっている。
 もしもその選択が社会ルールに抵触する場合、犯罪行為として法で裁かれることとなる。
 「自由」と「責任」は一人の人間存在の「自律」には、かかすことのできない要素であると考えられる。
 ここで「自由」であることと「自律」した存在であることが、「責任」を担保にして、重ね合わされている。
 現実世界においては、自由と自律はつねに一心同体であり、どちらにとってもそれぞれ欠かすことのできない要素としてある。
 「自由」の無い「自律」は考えられないし、「自律」の無い「自由」も考えられない。そこにはつねに「責任」がついてまわる。

 この「自由意志」の反対にくるのが、いわゆる「決定論」的立場である。
 何らかの理由で「他行為可能性」が保持されない―他の別な選択を下す余地がない場合、「自由」は疎外され、したがって責任も問われにくい。何らかの理由とは、様々な外的物理的諸条件だったり、内的問題―精神疾患やマインドコントロールがなされていたりする場合が考えらよう。さらには運命論的、神学的な「決定論」的立場によって、根本的に人間の「自由意志」が否定されることもある(*自然科学―脳生理学的立場からも否定されることがある)。
 いずれにせよ「決定」を下すのは人間・個人の自由なる意志ではなくて、様々な物理的要因だったり、過去の生い立ちだったり、なんらかの支配による抑圧だったり、運命や神だったりするというわけである。このような状況下、立場に立つ時、人間は何ものかに「支配」された存在であり、十分に「自律」しているとはみなされない。

 
  通常美術制作において、作者は様々な選択肢を保有している。
 原理的にはほぼ無限の選択肢を持ち、社会的にも、芸術家の自由が保障され推奨されている。 社会における逸脱行為であっても芸術の中のいとなみであればかなりの範囲で許容されうる。 制作において作者は、基本的に何の制約も受けない、、、先制君主―創造主として存在することが可能だ。
 この作者の自由さに対して、いわゆる「素材」−世界はまったく不自由な存在となる。
 ここでは、一方的に支配者(収奪者)の自由が行使され続ける。そもそも「素材」としてしか見なされないこと自体、「世界」は隷属され奴隷に貶められ、原料として、その存在と自律は否定され続けていることを意味する。作者の自由とは、すなわち「世界」・「素材」が元来有していた可変性―自由に基づいていると言える。だから作者は素材から自由を奪い消費する存在であるとも言えるかもしれない。

 ところで、制作が進行すればするほど、作者のその選択肢の幅はせばめられる。作者・創造主の「自由」は減少していく。しだいに「他行為可能性」が保持できなくなる。制作が完成に近づくにしたがい、作者は不自由になっていくわけである。
 同時に「素材」の可変性も減少し、じょじょに「素材」から「つくられたもの」−「作品」に移行していく。完成とは、作者が他にもうなにもするべきことがないという状態のことを意味し、「他行為可能性」を完全に失うことを意味する。
  そうして生み出されたその「作品」存在は、もはや「自由意志」とは無縁で、基本的にはただの「事物」にすぎない。

 美術作品では、完成と同時に、完結し、その生成は終了し、言ってみれば過去の「遺物」と化す。
 作品がひとたび現実化してしまえば、結局それは、作者(創造主)の構想の具現―イミテーションでしかないことになりかねない(「コンセプチャルアート」の批判はこの点にあった)。
 もちろんそれは、美術以外の実用的な「ものづくり」一般においても同様で、つくられたものは結局何らかの意味で、いわゆるある種の「道具」として支配者(人間)の奴隷となるか、さらに高次の原料として、さらなるものづくりに用いられる。

 このような「自由の消費」は、ある種の「神話体系」として「決定論的」に意味づけされ、「必然」の相でとらえることもできるし、あるいは、「自由」な作者が「自由」な他者・世界を強姦するという「戦い」の相でとらえることもできる。
 通常この両者はセットになっていて、「創造」の神話が装われているのであり、その「黒歴史」は徹底的に隠蔽されている。
 人間・作者は、本来「自由」で「他行為可能性」を保持していた「世界」から、その「自由」を奪いながら、その道筋が、もともとそれが定められた、必然的な行為であるように物語を捏造する。捏造された神話の支配領域においては、「世界」はあらかじめ「素材」と位置付けられ、もともと所有していた「他行為可能性」−「自由・自律」−他者なるものとしての「存在」感が、はじめからなかったものであるかのように忘却される。「創造神話」とは「他行為可能性」を否定し、その選択行為が唯一正しかったこと、というよりも、それでしかありえなかったことを説明するものとしてある。



 方策


 このような美術・「ものづくり」にまつわる本性から抜け出すために、どのような方策が考えられうるであろうか?
 「作品」が単に「事物」や「イミテーション」や「道具」や「奴隷」や「遺物」に陥ることなく、「生命力」を保持し続けるには?
 ひとつの自律した存在としてあるには?
 
 それには、この「自由意志」の考察がヒントとなるだろう。
 つまり、作品が何らかのレベルで「他行為可能性」を保持し続けることが何よりも重要となる。
 ただし、それだけではあまり意味はない。
 「他行為可能性」を保持しつつ、その上であるひとつの具体的な選択をし行為すること。
 それでこそ「自由意志」を行使し、「責任」を担う一個の「自律」した現実の存在たりえている。
 もしも具体的な選択を回避し続けるならば、そこに社会性は生じず(この場合の「社会性」はあくまでも比喩である)、したがって「責任」とも無縁であり続ける、未熟な「赤子」のような、ただたんに潜在的な「可変的なもの」であるにすぎないのである。


 これまでの美術における優れた傑作も、ある意味でこの「自由意志」の構造にかなっていたとも言えるかもしれない。
 例えば作品の解釈が一義的ではなく、多義的であり、様々な奥行きがあり、たえず見る者を誘い続ける力を有する作品、、。それは言ってみれば、ある「みごとなあらわれ」―ひとつの選択した「かたち」(行為)を示しながらも、「他行為可能性」−「他解釈可能性」を保持し続けているとみなすことができるかもしれない。
 しかしそれは「行為」ではなく「解釈」である点決定的に異なってもいるとも言える。「行為」は物理的な作品生成にかかわるものであり、「解釈」は作品完成後の鑑賞者の側からの事後的で間接的な問題としてある。表現された解釈の多義性は、あくまでも作者が意図して作りだしたものであり、完成作品上の疑似空間を前提にしている。
 もっと具体的なレベルで、作品の完成に至らず、「未完・ノンフィニット」でとどめたため生じてくる多義性もある。
 ミケランジェロやレオナルドのそれらは、完結しえないあまりの高みのため、途中で放棄されたといえようか、、。そうのような未完成品は、時として、完成品以上に、生き生きとした存在感を持ち我々に語りかけてくるかもしれない。それは疑似的につくりだされた多義性ではなく、物理的な真実の多義性であるから、「他行為可能性」をも温存させているといえる。
 しかし本来完成した作品としての「完全さ」と「他行為可能性」の保持は矛盾したものであることは上述からもあきらかなことである。 

 近代になってくると、「完成」像はさらに揺らぎ続け、「未完」、「多義性」はより自覚的に意識され、しばしば、一種の方法論として踏まえられようとする。

 例えば、モチーフ、主題などの排除。抽象形態。地と図のヒエラルキーの解除。「選択」における「無意識」と「偶然」。完成の回避。選択意図の超越。作品の放棄。理性、計画の放棄、、、、、。

 その近・現代美術のこころみのひとつひとつに関して、ここで述べる気はないが、そのような傾向のほとんどは、上述の指摘のように、「他解釈可能性」(「他行為可能性」ではない)を潜在的に保持していると言うことができる。
 さらには、例えば抽象表現主義のオートマティズム的な行為性の在り様や、その後の「ハプニング」などでは、「他行為可能性」をも保持しつつある場合が見受けられる。しかし、結局そのほとんどは、やはりそれにとどまるものか、あるいは、ほとんど失いかけた「他行為可能性」の残存形態であるように思える。
 それは、あるひとつの「選択」をとることが、「他行為可能性」を消し去ってしまうことにつながり、逆に「選択」しないことが、作品の完成を不可能にしてしまうという一種の節理からきている。さらには、選択の回避―完成の回避が、作品の方法論として洗練されればされるほど、それも結局、新たなそのような作品と化してしまい、「他行為可能性」を失わせてしまうからでもある。
 結局、「自由意志」の定義から判断するならば、選択の回避、凍結、放棄、洗練だけでは、永遠のモラトリアムなのであり、「責任」が生じないのである。したがってそれらは「自由意志」を行使しうる「自律」した現実存在にはなりえないことになる。
 これは「作品」概念というものの根幹にある限界であり、そもそもしかたがないことであるのかもしれない。

 それでは例えば今日よく見かける、相互的な「インタラクティブ」の作品ではどうだろうか?
 多くが観客参加型、現在進行形の様相を示し、観客や環境の反応を取り入れながら、少しずつ自身の形態を変えて行くものである。
 一見すると「他行為可能性」を保持し続けているし、そのつど別な反応―「行為」を実際に選択し続けている様に見える。作者の支配を超えて、作品が自分自身で自ずと「なっていく」。それは「自由意志」の条件を満たしているように思える。
 ただそこに何か違和感がないわけではない。それが何なのか今のところはっきりしないのだが(もちろん一口に「インタラクティブ」といっても多様な形態があるので当然と言えば当然である)。
 例えばこの「インタラクティブ・アート」特有の、外部との相互性によって後天的に引き出されていく変化に関して、別な視点で考えてみた時、それはある意味で、作家によってあらかじめ周到にプログラム化された範疇の想定された変化にすぎない、、とも考えられるだろう。一見「他行為可能性」を保持している様に見え、自由意志が宿っているように思われるが、実は全て、作家―支配者により、物理的諸事情の因果律であらかじめ定められたものであり、実はそこにはほとんど「自由意志」がはたらいていないと見ることもできうる。
 その場合、通常の作品と何が違うかと言えば、その創作されたシステムが開かれている可変的なものかであるか否かというところでしかない。むしろ、「他行為可能性」に満ちた人間(観客)や世界の「自由意志」までをも、「材料」として加工してしまうかのような、外見とは真逆な本性までをも想起してしまうかもしれない。
 いずれにせよいちがいに言えるものではなく、この「他行為可能性」の観点からさらなる考察が必要であろう。
 



 自作について


 結局、作品が自由で自律した存在であるには、「完成」しているのに「他行為可能性」を保持する、、という矛盾した構造を内蔵していなければいけないことになる。おそらくそれは通常の「ものづくり」・制作概念では不可能であろうことは想像できる。

 もともとそういう問題意識を核にして、「つくる」を一度カッコに括り、「なおす」といういとなみに注目してきたのが、現在の自分の仕事の発端である。
 以下期待も込めながら、想定される自作のメカニズムを提示してみたい。


 ―既成の物品の欠片の補完について―

 欠片部分と後付けの補完部分の結合体としての自作。

 ・まずその「作品」に接して、遠目には結合体ひとかたまりとして見えてくるだろう。
 ・やがて注視すれば、欠片部分と後付け補完部分の差異に気付くだろう。
 ・欠片部分は「もと」の在り様(見る人によって異なる)、あるいは他にあっただろう選択肢(後付け補完の別な在り方)を想起するだろう。
 ・想起された「他行為選択肢」は、現在の選択された後付けの有り様と比較される。
 ・比較類推の中で、絶えず現在の選択・補完の妥当性が問われ続ける。
 ・妥当性が精査されながら結合体の全体像が少しずつ経験されていく。
 ・以上の推移は、あらかじめ表現された疑似空間内でのことではなく、実際の物理的な作品形成プロセスに基づいている。


  ここでは、いくつものありえる選択肢を潜在させつつ、補完のあり様が、他にもあり得たことを隠蔽することなく重層的に明示しうると考えられる。
 むしろ他のありえた選択との潜在的な比較関係を内包することで、絶えず「現」選択の妥当性を自問し浮き上がらせる構造となっているのではないだろうか。
 そうしてみれば、いわゆる「他行為可能性」を保持しつつ、同時に、ひとつの決定的な選択(姿)を具現させているのが認識できるはずである。
 それを可能にしているのは、「なおす」スタンスをとっていることにより、通常の「つくる―つくられた完成像」へとのみ向かう収斂を避け、絶えず、「もと」へと「フィードバック」させ続ける特有の「なおす」構造のためであろう。

 ここでは、「世界」(欠片)が「素材」として扱われるようなことはない。作者の思惟で世界の「自由」を収奪、覆い尽くすことは避けられている。「世界」(欠片)の多様な可能性の中から、妥当な選択を導いていこうとしている。本来有している多義的で多様な可能性を絶えず競わせながら(温存させながら)、つねに「フィードバック」システムにより、「妥当」な選択の生成に立合い続ける。

 「自由」で「自律」した存在へ。
 通常の生きている人間存在の様に。幼子やモラトリアムや隠遁者ではなく、「固有」な存在を「発揮」し「責任」を担う現実的存在として。
  
 



 *―複数の欠片使用における場合(合体・代用)―

 「ものづくり」−自由の圧殺―黒歴史を隠蔽しないで露出させることにより(―ある種のノンフィニット?)。
 「選択」プロセスを浮き上がらせ続けることにつながり、ある意味で「他行為可能性」を保持していると見ることができるかもしれない。