<二つのアプローチ>   2012、1


 
 子供たちや患者に対して主にふたつのアプローチがありうるという。

 
 1・指導的アプローチ  

     教え導く―目標の提示―指導・助言、評価・管理。―教員、家庭のしつけ


 2・カウンセリング的アプローチ 
 
     支えて待つ(寄り添う)―目標の探索支援―受容・共感、傾聴。―カウンセラー


*「受容」とは「相手の考えや立場、思いなどを批判しないで受け止める」こと。
 「共感」は「相手の気持ちを理解して、その場を共有する」こと。



 ある限られた状況下で、条件が整っている場合、1番の、はっきりとした目標・方針の提示と言葉かけ、指導が、ある範囲での教育的効果にとって有効であると考えられる。
 一方そういう条件が整っていない、流動的な状況下、、、教える/教えられる関係が確立していない、もしくはそういった関係がかえって不適当な、、状況下では、2番の、一緒に寄り添い、ともに目標を見出していこうとするアプローチが求められる。*(2は対象者の状態があまり余裕のない時、弱っている時に必要な態度であるという)。
 通常「教育」ではその教える内容や方法が問題になるわけなのだが、それ以前の相手との間の「アプローチ」の取り方をどうするか?という問題が重要であるという認識は傾聴に値するだろう。


 この2種類のアプローチを、教師(カウンセラー、医者など)/子供(患者)の関係から、人間/世界(地球、他者、自然)、あるいは作者/材料という関係に置き変えて観た時、その意味はより鮮明になるかもしれない。

  通常の場合の作者/材料は、いわゆる「指導的アプローチ」を用いることにより、材料(子供)を目的物(成人)に近づけていこうとする。そこでは、目的(コンセプト?)をはっきりと示し(目標の提示)、積極的な働きかけ―創作(指導・助言)する必要がある。そのような働きかけを怠ると、手際の悪い、完成度の低い「作品」ができあがるだろう(評価・管理の必要性)。この場合なによりも大事なのは「何を」つくったか?表現したか?であり、「何を」教えたか?その内容とその到達度―完成度なのであった。

 一方「カウンセリング」的アプローチを採用した場合どうなるだろう?
 作者は「材料」(子供)の側により近づき(寄り添い)ながら、「材料」の持ち味、固有性に耳を傾け(受容・共感、傾聴)、そのありうべき姿を一緒になって導いていく(目標の探索支援)。それは単なる「材料」ではなく、固有性を潜在させた一個の自律した存在として関わることが求められるだろう。

 教える・つくる「内容」がどんなものであれ、その態度、アプローチが「指導的」であれば、結局「作者」の思惟の範疇に留まらざるをえない。まず重要なのは「内容」とその完成度ではなく、「他者」・「世界」に対する「アプローチ」のあり方でありその哲学であるはずだ。

 今日の状況、、、人間中心主義の破たん、物質文明の限界、経済至上主義の不安、資源の枯渇、人工増加、地球規模の環境の悪化、、、を考えた時、どちらのアプローチが望ましいか自明であろう。そこでは、地球資源を搾取し続けてきた産業革命以来の「指導的アプローチ」ではなく、瀕死の重傷にある地球環境に対する「カウンセリング的アプローチ」こそが望ましいということになるだろう。
 例えば歴史学者の網野善彦は、原爆体験によって、日本人は自分達自身の文明によって自ら滅びえることを身を持って経験した、人類で最初の唯一の民族であるというような意味のことをのべていた。
 そもそも自然を畏敬してきた文化をもつ日本列島の人々は、原子爆弾という人類自らの脅威をも身を持って体験し、人間力・欲望への懐疑と自制をもっとも深刻に問い続けなければならない立場にある。今後ますます地球や他者に対して自身の態度を改めて行かなければならないはずだ。

 この「カウンセリング的アプローチ」をたんなる「方法」、「手段」としてではなく、本来的な態度として、、哲学として。「用いる」というよりもそこに「生きよう」としなければならない様に思える。それは、自分の思い通りに「他者」を操作することのむなしさを理解し、絶えず自己の限定性を超え出る、他者との刺激的な共存を核に据えた生き方にほかならない。それが今後の文化の指針となるだろう。

 世界に直接かかわり、ものを扱う「ものづくり」も当然その態度の前衛に立たなければならない。
 「つくる」のではなく、「寄り添う」、「導く」、「自ずから・なる」を手助けする、、、ことでなければならない。
 それは単に教育の放棄・放任主義―つくることの放棄、否定でもない。また「つくること」の抑性・消極性というものでもけっしてないはずだ。
 それは「カウンセリング的アプローチ」としての明確な態度である。
 それを「つくる」とは異なる新しいコトバで明記しなければならないかもしれない。

 自分としては以前から「つくる」ではなく、「なおす」といういとなみに関心を持ち続けてきている。
 「指導的アプローチ」/「カウンセリング的アプローチ」の対置は、この「つくる」/「なおす」の対置に完全に一致してくるものである。 
 その意味でも、「なおす」―支えて待つ(寄り添う)―目標の探索支援―受容・共感、傾聴という、世界に対する態度・思想は、「直す」、「治す」、「癒す」、、という語意をともないながら、今後ますます重要になり、新しい人類のもうひとつの「創造性」として実践されていくものとなるだろう。