《 「 可 能 性 」 と し て あ る 》

   ひろったものを復元する場合、例えばひろった車の断片を「車」にすることがその断片 の「自己実現」にまっとうに答えているとは言えない。断片は、人間の「名」の世界に規 定されない可能性を持っている。つまりその断片は、車の部品である前に/同時に様々な 見えかたをし、様々なイメージを呼び与える。一方「車」の像に復元する時、それは、車 の一部分にしかすぎなくなる。「車」というコードからのがれ、「無縁」になったその断 片は、再び「車」というコードにおしこめられ、縛られる。本来ひとの手から離れた物の 存在は、様々な解釈が可能である。断片の様々なあらわれ方、可能性を、そのまま持続さ せる方向で「復元」すること。単純に、車は「車」というコトバの世界につなぎもどすの でなく、しっかりと本当に「それ」自体を見ること。可能性を可能性として持ち続けさせ ることが、その「もの」-断片の本質を生かすことにつながる。車の一部であること以前 に「いろいろなものに見える」という事実そのものが、それ自体の本質なのだから。いろ いろなものに見える断片をいわば「復元」することによって、一つの見え方に限定させて しまうのではなく、いろいろな見えかたの可能性をそのまま温存させたまま完結した形態 に導くこと。                                                                                                     H.12.7.16   

《 復 元 に つ い て 》

  わたしの場合、ものを復元するといっても「もとのとおり復元するわけではない」とよ く言われる。そうとも言えるがそうじゃないとも言える。「もとのとおり」とは何か?ま ず一つに断片がごろりとあり、「もとの復元像」がわからない場合が多い。そのような時、 今あるデータから割り出していくほかなく、それは一つの想像力を伴う。また、だいたい にして「もとのとおり」とは極めて主観的、恣意的、文化的なものであることだ。それは、 拾った物質から飛躍し、「名」「コトバ」の世界に近づこうとすることでもある。「もと のとおりではない」と指摘される場合、常に「名」「コトバ」の世界を前程として言われ る。イスはイスに。炊飯器は炊飯器に…。たしかにそのような復元もある。しかし、多く の場合、もとのもととは、あくまでひろった-出会った瞬間での「もの」を接点とした復 元像であるべきだと考える。日常の「用」を離れたイスは、「イス」という用よりもそう いう「もの」にもどっている。そういう固有の「もの」の性質により、立脚したいと思っ ている。ゆえに、風化し、こわれ、変形した「イス」という「もの」を「イス」という「コトバ」に復元することが、もとに戻すこととはかぎらない。変形した「もの」は、も うすでにイスという用、コトバから離れ、別な「もの」「そのもの自体」になっている。 「そのもの自体」の声をよく聞こうとすること。それは観念のコトバの世界へすりあわせ るのでなく、それ自体の固有性の声をよく聞くこと。用を離れた「もの」は、コトバのコ ードを離れ、日常飼い馴らされた視覚から解放されている。それはドキリとさせながらた またま出会う。その「もの」固有の存在性を最後まで導き出し、実現させること。その「実現」には、人間社会の用の視点ではない、もっと広い次元での視点が含まれる。
 より、そのもの固有への性質、存在感が実現されるような方向で、もとに戻すこと、そ の結果しばしば見慣れた実用品の断片から見慣れない何かへ変質していくことになる。し かしそれは私のイメージではなく、あくまで出会った「もの」自体に立脚した必然性を有 したイメージだ。まは言いなおすなら「コトバ」の世界へ引き戻すのではなく物質的必然 性-形態的必然性-完結性を重視して復元する。それゆえ形のみではなく、よごれ、しみ、 穴、しわ、キズ、全て同等に復元する。だから「もとにもどす」というのは外れてはいな い。「もとにそだててやる」とも言えようか。基本的には「もとからもとへ」「もとって なにか」「もとをもさく」「もとを生きる」「うごいていくもと」「もとは今によって規 定される」「もとは未来によって規定される」「もとを見出す」「もとをせっていする」 といったニュアンス。「もの」って何なのか、「つくる(意味づけする)」って何なのか。 「もと」って何なのか。たえずそんな問いかけが入り交じって「作品」がたちあらわれて くればいいと考えている。