《 時 間 と 作 品 》

 人の生が死によって生の「外」からゆすられときめくように、「作品」も「作品」の「 外」が宿されるべきだ。これまで「コレクション」として囲いこまれつつ成立した芸術作 品は、常に不変の永遠性を前提としてとらえられてきた。それは、西洋の造形芸術の根幹 に根づいた暗黙の了解である。実際は変わらないものなどないのに、それを隠遁して、架 空の制度をつくってきた。その上に立って表現された外部はいかなるものでも一種の再現 芸術にほかならない。
 一方、これまで時間について考えるとなると、途端にそのアンチに終始し、刻々変わっ ていくもの、朽ち果て消滅するものという正反対の世界観とも呼べない虚しい、試みがな されてきた。これも一方で、人間の心からかけはなれていかざるおえないように思う。永 遠性は、言ってみれば人の心の観念を反映し、一方、変容消滅は、物質のあらわれを反映 する。観念は世界から切れ、世界は観念から切れている。人は多くの場合、変わっていく としても、そこに永遠性を希求せざるおえないものだ。そしてその永遠性は本当のところ あり難くありえないのも事実だ。人間の所有している時間の感覚とはそういう矛盾したも のだ。絶対永遠でもアンチ永遠に終始するのでもない。人間の心の現実に「作品」のあり 方が肉迫していくこと。 これまで造形表現の分野で大まかに2つの方向で時間というものが考えられてきたよう に思う。一つは制作上において、そのプロセス、イメージ、作品自体のうつりかわりと対 峙、その変容をみつめていこうとするもの。もう一つは、制作の外にでて、現実の現象、 物質をあつかうコンセプチュアルな試み。 この2つの方向を結びつけたところに私のこころみがある。それは、ものを生み出す、 つくるといういとなみに、深く根ざしつつ、外の世界に開かれたこころみである。作業や イメージ生成のプロセスを「制作」という次元から解き放ち、現実のもの、世界の上で行 う。逆に言えば、現実の物、世界は、ただそれ自体として現れず、心とその限界を通して あらわれてくる。

  一つの町が過去の歴史とそして現在進行形の現在と何らかの未来とつながり、重なりあ わせてたちあらわれる時、生き生きとしている。モダンアートは、この様な時間の連なり を一つの物語として創出した。そしてモダニズムの作品の多くは、その様な時間の外では 自立的に存在することができない。一つの大きな時間の流れを共有する人にのみ、リアリ ティをわかちあえる。これは個々の大地、個々の人間の固有の時を隠遁した一神教の世界 観に等しい。(だから作品自体は物質的存在の固有性を無視して永遠的なものとして考え られている。)そのような時間を個々の存在が改めてその固有性において持つこと。そう することでそのものは、モダニズムの物語の重力から離れ、それ自体としてあらわれうる。