《 私 に と っ て 風 土 的 と は 》
通常、造形行為では暗黙の了解として、事前にあらゆる選別、排除、序列化、聖別が行
われる。大理石の特別視、黄金の価値、加工や保存に適する良材の選別、かたちのいい石…。
さらに「素材」となる物質レベルから、造形を行うイメージのヒエラルキーもある。神様、
黄金比、英雄、美女、人、聖獣、動物、自然、日常のものごと…。
さらに、このような観念は、常に「素材」となる「もの」の上位に位置づけられ、だか
らこそ、わざわざ、堅い石をきざむ労の意味がある。観念にとって邪魔になる-排除され
る要素→物質の変化→反永久性、キズ、ヒビ、汚れ、フシ、よじれ、非物質、他が「ノイ
ズ」として切り捨てられ、観念化にとって、都合の良いところだけが良材として選別され
る。このようなこと自体、その造形原理に根本からかかわる基礎的な要求であり、ある精
神性とその必然性に基づかなければならない。
今日の、そして、この日本の風土において、そのようなヒエラルキーと差別を支えうる 精神的必然が果たしてあるのだろうか。私の仕事、「有縁-無縁」では、そのような選別、
ヒエラルキーを極力避ける意図がその当初からある。たまたま拾ったものに応じるので、 造形の結末はどのようにでもあり得る。かといって、私本人がかかわらないわけではない。
つまり単純に言ってしまえば、この「世界」のように「私」でなく「もの」でもない両 方にまたがる存在が現出してくる。というより、その現出するメカニズム自体を問題とし
ている。そこには、観念/素材の選別はなく、どんな形どんな大きさ、どんな色、どんな 物質、さらにどんなキズ、汚れ、穴、ヒビ、しわ、ゆがみも全て等価になる。等価とは、
全て同じ無価値になるとも言えるし、全て価値を持つとも言える。西洋美術に内在する 「造形」の根源的差別化、ヒエラルキーをなくすることで、西洋流の造形概念を解体し、
全て等価で、全て異なる、全てが固有の価値を持つ、精神性へ向かうこと。つくるもの作 られるものの固定化したヒエラルキーをなくし、自然でも人間でもなく、他者でも私でも
ない「世界」そのものがたちあらわれること。そこには、自分で言うのもなんだが、非ヒ エラルキーの森の文化、東北的アニミズムが繁栄されていると言われてもさしつかえない。
暗黙の造形の造形美術の普遍化、聖視に基づく西欧的侵略に対するアジア的風土、精神か らのたった一人の抵抗であり、戦いと私自身心の底では位置づけてきた。それは、美術や
造形を捨て去ることでなされることではなく「東北的な造形」を対置してなさなければな らない。「すべての人、ものには、固有の価値がある。」この使い古されたテーゼを、造
形の解体の地平までほりさげることで、アニミズム的世界に連結していくこと。
平成12年6月3日