「 無 縁 - 有 縁 」―1
漂流物を作品の中に入れることによって、「作品」や作り手の計算、意図の外側に
広がる「外部」「風化」「時間」「自然力」「ノイズ」をとり込もうと考えた。
通常の「廃品アート」やコラージュは、とり込んだ現実の「もの」を作家の意図、
イメージで、別なものに作りかえてしまう。(例えばピカソが自転車のイスを牛の頭
に見立てたように。)その場合、「いらない部分」が「いらないもの」として捨てら
れてしまう。
私の場合、別なものに変えるのではなく、それら外の物と関わり殉ずるもので、む
しろ「断片」の漂流物を再生することに近い。《漂流物(無縁物)を材料とするので
はなく、「縁」を結ぶということで「無縁-有縁」と題してある。》
全ての作品は同じ考えで生まれているが、その出発点である、漂流物の個々の特性
に応じているので、結果として様々な色彩、形、大きさの作品となる。「断片」を
「完結」したものにすることによって、過去と今、ノイズと表象が、ある関係をつく
りながら一つに見えてくれば良いと思っている。
ものが生き生きと存在感を持つのは、そのものが過去-現在という固有の歴史を持
ち、外部(カオス、自然)と交わり関係を作っていることによると思っている。
自分の作品もそのようでありたいと思っている。
「 無 縁 - 有 縁 」―2
無縁とは無縁仏の無縁で、誰とも、自分とも、世界とも関係のないこと、無意味的世界
と関係のないことの日本的表現である。捨てられ、漂流した者の断片はその様な世界から
断絶した忘れ去られたものであり、埒外にあるとされしばしば「無縁さま」としてまつら
れたりした。私達の世界--私の心の意味的領域の外にある未知性をはらんでいる。
この無縁な断片と再び私が縁を結ぼうというのが趣旨。廃物を「ア-ト」にかえること
は、現在でもありふれているが、そのほとんどは廃物を自らの意図でつくりかえる、新し
く価値づくりして、いわばそれをそのための材料とするわけで、それは「造形」--「つ
くる」といういとなみの流れにある。今回の私のこころみは、自らの意図ではなくその未
知なる世界、ものの持つ各々の固有性に殉じよう(全て放棄しよう)というものである。
つまり復元してもとの姿、今ある姿のト-タリティ-を回復しようというところにあり、
造形行為ではなく復元--縁を結ぶといった方が良い。
殉ずる---復元することであきらかになるのは、むしろその殉ずることの不可能性、人
力ではいかんともしがたい「ノイズ」---はかり知れない自然性なのである。
殉ずることの限界点ではじめて出会うことのできる「外部」未知性。その出会いのプロセ
スがそのまま「作品」になること。