<なぜ拾った断片を使うか?>


  この世に生れ出た人間は、「世界」というすでにある外界と「いかに関わって行くか?」という重大問題から絶対に逃れることができない。 そうしてそれが「何を、どのように、つくるか?」という問題よりも、差し迫った普遍的、根源的問題であることは言うまでもない。
  真っ白いキャンバスや良質の大理石から、あらたまって何かを描き、掘り出そうとするよりも、身の回りの具体的な環境や存在物に、どの様に対し、どの様に働きかけるべきかを試行する方が、現実的で重要であるように感じてきた。
 本来、創造性(クリエイション)の根源には、「何を、どのように、つくるか?」以前に、「外界とどのように関わるか」という人類共通のテーマが内蔵されている。
 周囲・外界・世界を認識し、自らの身の程を知り、解釈し、通じ合い、ズレかつ相反し、問題を見つけ、対処し、改善しようとする。それはほとんど原創造活動そのものでさえある。当初「ものづくり」もそのような地点にしっかり繋がっていた。
 文明の発達により、周囲の脅威が間接化し、「ものづくり」と「関わる」ことが分離し、「ものづくり」の根拠が薄れる。「関わること」と「ものづくり」を繋げる役割にあった神話・「大きな物語」が解体する。白いキャンバスが、作り手各個人個人へ剥き出しに投げ出される。そこには共通の神話も根拠も無い。あるのは残存したポイエーシスの慣習だけである。はたして無から有が生み出せるのだろうか?というよりもそのようなことに意義があるのだろうか?芸術のための芸術的創造のねつ造、あるいは各個人にわい曲された神話的断片を見せられてなんになるのか?  今日、「大きな物語」を失い、「ものづくり」が根拠を失ったと言っても、「関わること」の重要さが消えたわけではない。文明の進歩により差し迫った脅威がなくなり、外界からの強いられた関係に拘束されなくなった反面、文明という新たな脅威におびやかされながら、「関係」もまた表層的に、複雑化し、あるいは希薄化し、あるいは「関係」そのものを失い、個々の固体がバラバラに孤立する事態に突入している。 実は今日ほど、「いかに関わるか」、「どのような関係構造を構築するか」という問いが、あらゆるレベルで求められている時代は無いとも言える。自然や地球、外国や他人、自分自身の身体や欲望とどのような新しい関係を構築するか?という問題は、今日人類共通のテーマであろう。
 そのような問いかけを背景にした、探究と実践を、具体的な「もの」-作品において視覚化すること。新しい関係構築の良き先駆け、見本としての原形を生み出し、提示すること。それこそこれまで人類文明を導いてきた「創造性」(クリエイション)の、「ものづくり」的表出における正流であろう。
 ゆえに私は白いキャンバスや大理石を使わない。「世界」の断片としての具体的な物体からスタートする。それは我々を取巻く「外界」-不完全な避けることのできない「前提」の最も具体的(*)な象徴となる。「制作」の前提として具体的な断片を用いるということは、我々の生のはじまり、節目に、「世界」という前提を受け入れなければならないことと結びついている。 具体的な「欠落した断片」と対し、通じ合い、「問題」を見つけ、ある解釈をし、克服しようと努力する。それは人間の至極まっとうな普段の生きざまに直結している。
 「断片」を拾い、それをただ創作の材料とするのではなく、「なおす」いとなみを参考にして、あるまとまりに導こうとする私の仕事には、そういう背景がある。それは通常の「制作」よりもリアルで根源的なのだ。

 *この「最も具体的」という表現では、常套的な再現芸術(イリュージョン絵画のみならず「ポイエーシス」的プロセスとヒエラルキーの内にある全ての作品)、あるいは「環境」(都市空間や自然環境、あるいは抽象的な情報空間というある種の広がり、流動性、瞬間性等)を媒介とするもろもろの表現に対置されている。