〈後天的な魅力〉

 自分のいつも親しんでいる身のまわりの世界には多くの心ひかれるもの、場所がある。 それはただの石垣だったり、細い小道だったり、どこかの古家の壁だったり、森の社だっ たり。
 それらは自分にとってかけがえのないものでありながら、どこにでもあるようなあたり まえのものでもある。一つ一つ見ていけば、大量生産の企画品であったり、伝統どおりの 建造物であったり(社の中の神社までも熊野とか成田とかの分霊だったり)するものだ。  文化的な「中央」から見れば、オリジナルのコピ-であったり、切り売りの断片であっ ったり、何千もの分身であったりするのだが、長い年月の間に、その土地の風土と人々の 生の中で、次第に変質し、「こなれ」て何か固有の趣が生まれてくるように思える。それ はどこにでもあるようで、ここにしかない独特のもの、場所となる。
 このような長い年月の中での「後天的」なもろもろの変質、価値と意味の増大、深化は いわゆる様式論的な美術観からは、完全にぬけおちざるおえないものであり、生きている 人間の実感とはうらはらに、今までもこれからも無視される運命にある。このような種類 の魅力は、近代的な美術観に顕著な作家、制作、個性、創造といった概念からも接触でき ない。しかし、美術館の中にはいってしまうもろもろの文化遺産にくらべ、いかに、多く の場合このような魅力が普段の生活をかたちつくっていることか。
 わたしは、多少とも、このようなどこにでもあって、ここにしかないような「後天的」 な「質」を作品の根底へ反映させていきたいと思っている。それは作家が「制作」におい てつくりだすことのできるはずのない種の魅力、リアリティ-であろうが・・・。
 このような魅力について考えていくと、「美術」というもの、「創造」という人間のい となみ自体を根源的な次元から見つめなおさないかぎり、どうしようもなくなるように思 える。


  〈後天的〉

 私は、10年以上前から、コピーがコピーを越え、何かを宿しオーラを発する現象を 「後天的付加価値」とかってに命名し、自分の美術活動におけるメインコンセプトの一つ としてずっと追求、実践してきた人間である。それは、身のまわりの新興住宅地(自分の 生まれ育った「八木山」をはじめ)や、中央から移され模倣された神社、仏閣等々が、時 と風土と人の実存に洗われながら変質し、各々が固有の質を持ちはじめることからきてい る。
 最近、サブカルチャーのキャラクターが、生き物でもオリジナルでもないのにゲームや マンガの中で、ある感情移入がおこり、オーラが生まれる「キャラ立ち」現象が指摘され ることがある。後から価値が加わり変質していく構造を、作者である主体が価値をつくり 決める西洋近代流の創造神話と対置させ、考えてきた私にとって興味深いことである。つ くることに対置するいとなみとして「なおす」ことの意義を考えてきたのもそこからきて いる。そこでは、創造でなく復元、創造の価値ではなく、後から表出してくる価値。その ようなしくみを実践すること。既にある既成のコピー、観念の断片が復元されることによ り、時間と手ワザが加わりある過剰空間が生まれ、その過剰な間にどんどん意味が呼びこ められそれが「価値」となっていく構造。なおすことはゆえに、ひろったものの固有の性 質を浮き上がらせることにくわえ、先の「キャラ立ち」から言えば、キャラとコミュニケ ーションして愛着が生まれキャラを立たせることに他ならない。 「コミュニケーション」とは、物質の次元においてかんがえるなら、破壊と再生、再編、 再解釈に他ならない。キャラははじめからあるのだから…。キャラは自分がオリジナルに 創造するのではなく、すでにあるのだから。問題は、キャラやものとコミュニケーション することによって次第にキャラやものが実体化、変質し、オリジナル化していくことなの だ。それを個々人の閉鎖性でやるのではなく、開いて客観的に行うしくみ。私の考えでは 「作品になる」-「価値が生まれる」という瞬間を導きだすこと自体がそのようなキャラ が立つメカニズムの具体的な実証行為なのだ。キャラが結局架空のキャラなのに魂をもつ ように、ものも結局もののままなのにものを越えでていくこと。                                                                                   平成12年6月3日