<転生・連鎖する物語・身代り地蔵における一考察>





 これまで自分が実践してきた「なおす・代用・合体」の内容を掘り下げていくに際して、身近な「身代り地蔵」という習俗をひとつの比喩として考えていこうと思っている。

 それは「創造・美術」−「聖書的創造神」という西欧流の暗黙の連なりに対置されている。


 なおす―身代り地蔵

 つくる―聖書の神


 いうまでもなく美術の根低には西欧流の創造概念(聖書の神)が今なお根を張っている。
聖書では、神は粘土から最初に人間を、自身の姿をモデルとして作りだしたと語られている。
 そこでは生命や人間をはじめとしたこの世界が、ある制作者によって、「材料」から「つくられた」ものであるとの暗黙の了解が出来上がっており、かつ、創造の原点に、制作者自身の似姿を再現することがいみじくも示されている。
 神による世界と生命の創造。制作者としての神のポジション。そのポジションに英知あるすぐれた人間、および「クリエイタ―」としての作家が置き換わり得るとする暗黙の前提。その「幻想」は現在に到るまで潜在的に根付いており、依然として創造概念の核となっている。
 自然の物質をはじめとした「他・ほか」の何かを、「材料」と見立て使いやすく分断、破壊、収奪すること。そうしてそのようなプロセスが示す本当の意味を徹頭徹尾隠蔽すること。よく言われるようにここには、自己実現・自分の疑似的再生産・増殖のための「材料」として搾取の道筋が如実に表れている。創造―美術は、常に様々な形式、思想に身をまとわせながらも、結局この根本はいまだに変わっていない。現代のエコロジー思想も内実ではそれほどかわっていないように思われてならない。


 より自覚的な人間が、そのようなしがらみから自由になろうとする時、西欧的発想においては、創造行為そのものからの逸脱、あるいはそれ自体の放棄を免れ得ない。それはある意味たやすいことであり、同時に我々人類にとって大きすぎる損失であり、かつある意味、不自然で不幸なことでもある。21世紀はそういう意味で総じて今のところ、不幸で不自然な時代としてはじまっている。

 今日あらためて、聖書の神とは異なる別な創造モデルが必要とされているのではないか、、、。
 そもそも、別なタイプの「創造」があってもよさそうなものである。いやなければならないし、もしかすると別などこか(美術や工業ではないレベルで)に既にあるのではないだろうか?



<考察>

 「身代り地蔵・身代りさま」とは、端的にいえば、我々に降りかかる災いを背負ってくれる地蔵。
 自身の身体で肩代わりする神(地蔵は神ではなく菩薩だが)。(当然ながら「身代り」してくれるのは「地蔵」にかぎらないので単に「身代りさま」としてもよい)。

 人間の代わりに首が切れ落ちたり、倒れて割れたり、身体のどこかが欠けたり、目に見えない災いを吸い取ってくれたりといったもの。これは、逆にいえば、地蔵さまから、首、命、幸福、、、をいただくということでもある。


 基本的にここでは、自身の身体(石)と生身の人間の身体(あるいはその他もろもろ)が、相互に交換しあっていることになる。
このような交換、肩代わりを、事前にお願いする(いわば「交換のシステム」へ参入する)ためには、いろいろと「交換」の儀式が必要となる。

 例えば、供物などのお礼。あるいは、地蔵のどこそこの部分(例えば自分の悪い所に対応した場所)をさわる、なでる。さらには、分身(代用物)を借りる。分身(代用物)を納める(これも、例えばお願いするものにちなんだもの、身体の部分をあらわすもの。足なら義足とか靴、子供にまつわる場合は人形など)。多くがなんらかの代用物をとおして交換がなされる。
そういう「身代り様」そのものが代用物でもある。


 このような民間信仰的・交換システムでは、我々が「欲するもの」を得ようとする場合、聖書中の創造主や、その模倣者(近現代のいわゆる「クリエイタ―」など)の様に、当然のごとく「他者」から「それ」を「材料」や「収奪品」として奪ってくるようなことはしない。
 それはあくまでも、かりそめに「お借り」するというニュアンスにおいて行なわれる。しかも一方的に持ってくるのではなくて、「それ」に対する「代用物」を置いてくること(あるいはお返しをすること)。
 様々な願い事、健康な身体、富、食物、子供、命、、、はそうやってはじめてもたらされ手にすることができうることになっている。そこで、美術的創造の一般的了解である、「材料」/「作者」/「作品」という差別と連なりはなりたたない。


*(あるいは「あるもの」(頭、手、命、目、、、、)をもらう時に、身代り地蔵の身が削られていく「痛み」と「畏敬」を自覚的に伴っていく。その点はじめから材料として存在し用意されているかのような「制作」による「収奪」とはまったく異なる。)

* このような「交換の儀式」は、別に「身代り地蔵」に限られたものではなく、土地を切り開く時、建物をその土地に建てる時、土地の木を切り出し時、山に入り獲物を狩る時等でも共通のものである。ただし、「身代り地蔵」は自身の身体を傷つけて交換するので、より視覚的で比喩として解かりやすい点特殊であり、今回参考にしているのであるが、、。
 もちろん西欧にまったくそういう感覚が欠如しているというのではない(例えば新約聖書の神の子・イエスは人類の罪の身代わりとなって十字架に架けられたということになっているのだが、、)。ただしいつのまにか、森を切り開くにしても、資源を供給するにしても、そういった「交換」の要素は抜け落ちてしまい、むしろ創造神として制作する神としての性質ばかりが暴走してきた感がある。




 代用物を介した交換。その結果としての異界結合的混合世界の繋がりと広がり。それは美術的聖書的創造ではけっして実現しえない世界ではないだろうか?

*人間精神(先天的形式や欲望)と現実世界のギャップを仲立ちし、かつ円滑にし、かつその欠陥を埋め充足をもたらしめるものは、あくまでも「代用物」と「実物」の交換によってであるといえる。それは実物を装ったイミテーションによってではない。




「代用物を介して交換する」−「身代り様」  −他者と自己の共存。実物の延長(実と代用の共存)―「超実物」。

「材料から制作する」−「聖書の神」     −他者からの収奪。創作物(イミテーション)。





 さて、そういった「身代り地蔵の習俗」に関する考察に基づきながら、具体的にはどのようにそのエッセンスを抽出し提示しえるのかが次の問題となる。

 それは信仰の喪失した時代。あちらとこちらの遮断された現実。イミテーションに覆われた世界。高度資本主義経済に支配されつくした社会。今、ここで、いかに「交換システム」を新たな形で起動させることができるのだろうかという問いでもある。





<具体的実践>

 「創作―つくる」行程とは異なるレベルで、新たな創造性を見出そうとするために、「なおす・代用・合体」という普段のいとなみに基づいた行程において、上述の「交換システム」が試行される。

 今回自分は、具体的な身の回りのもの―「箪笥」を用いて実践した(既製のある箪笥をとおして「なおす・代用・合体」がほどこされた)。特に意味があって「箪笥」が選ばれているわけではないが、通常「材料」として流通されているもの、および「材料」として扱われがちな自然物はあえて避けられている。(さらに言えば形状のニュートラルさ、自立性、、、等の条件にかなう数少ない日常品として浮かび上がってきたものである)。



 そこでは「代用」がひとつのキーワードとなっている。身代り地蔵の「代用物を介した交換」と、日常世界の補完作業である「代用物による修復」(「なおす・代用・合体」)が、具体的かつアナロジックに重ねられている。「交換」としての「なおす」行為。「なおす」行為としての「交換」、、。


1、
 
 <交換システムレベル> 

   既製の「箪笥」(他者)と「自分」との間で「交換」が行われる。「拾った欠片」が代用物としてその交換を仲介する。(拾った欠片=漂流物=他者。他者を他者(地蔵)へ捧げる・返す)。


 <なおすレベル>

   「拾った欠片」が既製の箪笥に代用・合体・同化吸収されていく。


2、

 <交換システムレベル> 

   「拾った欠片」(他者=代用物)のかわりに同形の他者としての「実物(箪笥断片)」を得ることができる。


 <なおすレベル>

   「拾った欠片」と同形の「箪笥断片」が切り出され抽出される(欠片が新たに生み出される)。



3、

 <交換システムレベル> 

   もたらされた「他者である実物(箪笥断片)」は、こちら側で育まれ生かされる。(既製品・他者・あちら側―手作り・自己・こちら側)。


 <なおすレベル>

   「箪笥断片」は自分の手により「なおす・延長あるいは復元」される。



4、

 <交換システムレベル> 

   「他者(箪笥断片)」は、代用物を介し、実際に事物として拡張、増殖していく。異界結合的混合世界の無限連鎖。


 <なおすレベル>

   「箪笥(箪笥的遺伝子)」は、代用物を介し、拡張・増殖していく。







                                  2010、9、10 青野文昭