被災物を用いること
1・今回の震災について
今回の東日本大震災が起こった時、まず自分は「迷惑な話しだな」と思った。
それまでやっていたことが全て中断され、何もできない状態が続いたからだ。
特に美術上の制作においては、自分のこれまでの10数年の試行―少しずつ積み重ねてきたプロセスの途上にあり、その途上におけるひとつの大変重要と思える(自分の中ではそう思い込んでいるわけなのだが)緊張した段階に達しており、ある意味これから良い状態が切り開かれうる気分にあるちょうどその時であり、なおかつようやくこれから「春休み」(非常勤で勤めている学校関係の)ということでたっぷり没頭できる矢先のことであった。さらに具体的にはあるグループ展出品用の作品の構想を固めており、もちろんそれは、それ以前のここ数年の試行プロセスを踏まえてきたものだったわけなのだが、ちょうどその「正確な」設計図(自分にとっては珍しいことだったのだが)を、グループ展・運営事務局へ郵送したところであった。
であるので、震災後2週間ぐらいして電気やガソリンがもどりはじめると、まずアトリエにこもりプランの実行・作業に没頭しようとした。作業はあくまでも震災以前のプランを実行し、変更することなくそのとおり成し遂げようとするものであった。だから考えてみれば、自分の最初の震災へのアプローチは、極力「震災の影響を受けない」、「それ以前の仕事の続行」にこだわることだった様に思う。
美術を離れて被災地で、例えばボランティア活動するというのも、あるいは美術を用いて何か人助けをしようというのも、当時も今も自分にはちょっと考えられなかった。ましてやこの歴史的な事象に「からんで」何がしか企てよう(儲けよう、宣伝しよう)などという以後、現在に至るまで頻繁に目にする事象には嫌悪せざるをえない。
日々の家族の糧と安全をはかりつつ、その上でほとんど稼ぎにもならない、限られた時間だけ許されてきた美術の営みを(その小さな余地を「つくり出す」ことに、普段からどれほどの労力と犠牲を強いてきたことか!その意味でそれ自体ボランティア的ですらある)、縮小中断してまで、さらなる別の無償の行為を抱え込む余裕が自分にはまったくなかった。
そうして、そのような非常時に、なお「やる」だけの価値が自分の仕事にあるのかどうか?という問いはこの場合無意味であった。このような問い自体からして常日頃嫌というほど繰り返されてきたものであり、日常生活の大きな犠牲とつねに差し迫った取引を毎日続けてきているのであり、その上で、あらゆる美術的選択肢のなかから、そのつどそれでしかありえない自分なりの選択の果てしの無い連なりにおいて、現在の試行があるのであって、、今さらあらためて自問自答するものではなかった。もしもやめるのならばとっくの昔にやめていただろうし、「偶発的」な(と、その時は思ったわけなのだが)天変地異によって、(例えそれがいかに甚大なものであったとしても)、自分がこれまで取り組んできている問題意識やテーマを、方向転換してしまうのはやはり「安易である」と思わざるを得なかった。自分にとっては日々の現実が非常の戦場であり、公の精神と無償をどこまでも強いられるいとなみであったのだから。
とにかく今まで続けてきた試行を途切れさせることなく、続行することこそ唯一この状況下で、自分のできうる、あるいはするべき「意義」の「ありうる」ことであり、ある種の「抵抗」であると自分で自分に言い聞かせた。
ちょうど津波被災にあった漁師が、とりあえず船が無事で何をするか?とすれば、やはりまず漁をするだろう。採算とは別に、普段の漁をまずすることで、なるべく生きていくための現実や生活や自分自身を取り戻そうとするに違いない。
被災地・当事者の心情とはそうしたものではないだろうか。
アトリエが無事であった自分自身もおそらく同じような心境にあった。
つくる場が残されている以上、発表の機会云々とは無関係に、できるかぎり普段の試行を継続していくこと。何よりもそれが大事に思えた。
ということで、3,11の震災直後自分が何をしていたか今思い出してみると、まず震災以前から関わっていたアーティストランのスペースと自分のアトリエへ苦労して辿り着き、その無事の確認にほとんどの時を費していた(家族の安否確認はどうも二の次になっていたようだ)。その後も中止・キャンセルの続くアーティストランのスペースを維持するために四苦八苦し、あるいは予定していた自身のグループ展の続行に苦心してきた。この間の自分の無意識は、一貫して脆弱な「美術の場所」を死守することに夢中であり、自作において「普段の試行」にこだわったのも、おそらくその延長線上にあったのではないかと考えられる。波が来れば避ける。大事なものが危機にさらされれば守ろうとするものである。
しかし時を経過し、だんだん落ちついて考えるにつけ、どうも自分の場合、今回だけは公平に観て、通常の作家に比して(通常の作家というのはなんなのかということはさておき)、やや特別な立場に立たされていると認識せざるを得なくなった。
自分の思いはどうあれ、自分の仕事は客観的に観て今回の震災の影響を多分に受けざるを得ないのであった。
それはもちろん、自分の作品が具体的に被災し、住居が半壊認定を受けたことや、弟の家が全壊したり、家内の実家が津波で消滅してしまったりという「被災者」としての現実によってでもあるわけだが、さらに直接的に、自身の制作上のフィールドワークの場所がことごとく津波にのみ込まれてしまい、もはや震災以前のように、制作上必須の欠片の収集が困難になってしまったこと。そしておそらくこれがもっとも深刻なわけであるが、自分のメインテーマが「なおす・再生」であり、つねに実際の破損物を用いてきていることによるものであった。
震災以前のように自由に「ナチュラルな」欠片を収集をできなくなり、もし例えそれができたとしても、はたから見れば、自分の仕事は、自動的に今回の震災と関連付けられ、何らかの意味合いやストーリーが生まれてしまわざるを得ないのであった(そして、わざわざおびただしい被災物を無視して関係の無い漂流物のみをよりわけることがむしろ不自然であり無意味な気もした)。
さらになによりも、そういった制作環境の変化という以前に、より掘り下げて考えるならば、もともと自分の仕事と震災は根底でも表層でも深いつながりがあり、今回の具体的な事象を呼びこんでしまうのは、漂流物を通して不可知な外部領域に関わろうとしてきた自分の試行にとって、ある種避けがたい「さだめ」なのではないだろうか、、と認識するようになった。作家的思惟をはるかに超えた「イレギュラーな」(地質学的にはけっしてイレギュラーなものではないのだと後日認識するに至るのだが)、大事件を「不都合な想定外」として無視し遮断することは、やはり許されないのである。そうでなければそもそも自分の外側にある「他者」なる漂流物(それはもちろん「イレギュラー」な要素を多分に含んでいるはずの)を扱う資格は無い様な気がした。
ということで、皮肉なことに、冒頭の思惟とは正反対に、しだいしだいに、震災の影響下に自分もまた飲み込まれてきている様に感じられる。自分の生活や制作―「現実」が被災物に暴力的に覆われてしまい、その影響下にのみ込まれつつあるのを現在になってますます肌で感じるようになった。それはどんなに頑張って否定しても不可避的なものであり、3,11のあの日に引き起こされた事柄でありながらも、じわじわと侵食し続けてくる現在進行形の外部の力なのである。自分は、その圧倒的な他者なる存在へ向かっても、、、というゆうよりもそれが圧倒的であればある程、他者的であればある程、、「今まで通りに」、そうして「今まで以上に」、具体的に呼応していかなければならないのだ。
おそらく被災物を用いることをあえて意義立てるとすれば、次の様に言えるかと思う。
「被災物は、震災の記憶―震災以前の日常の生活の記憶と震災という未曽有の破壊の記憶を所有していると言える。そこには恐るべき自然力が刻印されている。広大な外部の広がり、地球の胎動が刻まれている。同時に我々人類、文明の存在、生存がいかなるものであったのか、いかにはかなく非力なものであるかをものがたり続ける。
被災物を用いることは、そのようなもろもろのことがらについて、寄り添い、共に歩み、事実を浮上させ、その抽出にはある種の自覚化・解析・解釈がともない、まだ顕在化していない実像を、視覚化、半永久化しようとすることにつながるだろう。
それは単に被災物を保存する行為とは異なるものであるに違いない。
おそらくそのいとなみは、我々の未来をも問い試行するだろう。
全てをゼロにリセットすることはできない。
完全に元の状態に戻すこともできない。
ただ被災物のまま放置されることも許されない。
それでも生き続けなければならない我々は、過去の記憶と広大な自然力・破壊を心に刻み込み、あらたな生きる形を見出していかなければならない。
被災物を用いて導き出される道筋・『かたち』とは、仮にあえて言うとすれば、、そういった我々自身の『今後』を照らしていくものとならなければならない、、、、、、」と。
しかし以上の事柄は、本来、今回の震災瓦礫を用いた仕事のみに、当てはまるものではない様にも思える。
通常での漂流物(ゴミ)においても、其々の来歴を有し、何らかの生活の記憶とその喪失の痕跡を孕ませている。同時に長年にわたる自然力・人知を超えた力が加えられ、しっかりと刻印されている。
その「なおす」いとなみは、単に、希少価値のある廃物の保存・修復ではなく、変形しか変わった形を愛でるというものでもない。
つねに絶大な外部の影響下にあり、つねに欠落を余儀なくされ、つねに過去を引きずり、しかし生きづつけるしかない人間の抜き差しならない、「未来」を問う試行のかたちとして想定されるものであった。
それでも何かが決定的に違ってきているのも事実であるように感じる。
それが何なのかいまだはっきりしない。
しかし、あえて思いつくところ述べるとするならば、、、
露出した、、というだけではなく、識別、分別そのものを失ってしまい、暴力的に侵入してくる具体物―事物、、以前に何らかの漂流する、ぶつかってくる、障害、抵抗感そのものとしてのそれぞれのかたまり。
今回の震災でつきつけられた具体性と強度は、その外部の影響が抜き差しならないものであり、つくる人、みる人、見る場所、観るフレームそのものの安住を片時も許さない、絶対的他者性の不可避的影響下の真っただ中に生きてあることを、あらためて知らしめている様に感じる。ややもすれば、震災以前の欠片が、美術に引き寄せられがちな、あるいはそれと並行する普段の「事物」、観るものと対峙する観られる対象、、としてあったのに比べ、震災後のそれは、もはや其々の距離を失い、暴力的に侵入し取り巻かれている他者なる存在・「力」と我々の現実と結びついてくるのかもしれない。
2・被災物を代用物を用いて「なおす」場合
被災物を、震災とは無縁の別のなんらかの代用物を用いて「なおす」場合、さらに具体的な意味合いが付与されていくかもしれない。
代用物―例えば現在自分自身が生活空間で使用している家具、あるいはそのような家具と同列(同じ程度の製造年、スタイル、クオリティ)の家具などを用いること。
被災物に刻印された震災の記憶、自然力の波動、ノイズ、泥、歪み、、が、代用物の家具を通して、ある意味「余剰分」として際立ち浮き上がりながら、「補完」され「延長」されえる。
場合によっては、刻印された傷跡・その「変化」がより増長され、視覚的に強化され、造形的に半永久化されうる。
それをまた別な角度から見れば、代用物(自身の家具)=日常性・自分自身が、震災(他者)に侵入され侵されることを意味していよう。
侵されながら同化し変質しながら新しい統合体として生き続ける、、、、という姿―として結実する可能性を期待する。
2011年、10月―2012年8月に修正。